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旧採石場(Parco Archeologico, Neapolis)

​定年後をどうやって暮らそうか、と思案している方々へ

​​避寒地 その7 オルテジア(Ortigia)

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シチリア島の東南部、シラクーザ近辺
​シラクーザ(Siracusa)という名前は聞き知っていたが、実はオルテジアという名はこの歳(73歳)迄知らなかった。地図でシラクーザを見ると、格好の湾ができている。が、よく見ると、小さな島が寄り添って、湾を取り囲む形にしているのだった。小島は2本の橋で本島に繋がっていた。この小島がオルテジア。ここに住まいを求めたのは、私の傾向として、海に突き出ている方が面白いと思ったからに過ぎない。部屋に入ってバルコニーが付いていると、バルコニーに出てみなければ気が済まない、あの感覚と同じ。ユネスコの世界遺産に指定されているのも知らなかった。

知らなかったのは、それだけではない。シラクーザは、アルキメデスが生まれて、生きて、そして死んだ土地でもあったことだ。伝記は書かれたが、紛失しているので詳細はわからないが、故郷をローマの攻撃から守るために、様々な発明をしたことは博物館に詳しく説明されている。

住居選び

「家の前には遺跡がある」という宣伝文句には騙されなかった。よくある工事現場に見えたからだ。が、遺跡ならトッテンカンの騒音に悩まされる事はないだろう。でも玄関前に大き目の穴が空いているというのは、私には魅力的に思えなかったので他を探した。が、ザッと見て、どれが良いカナと思い返して見ると、穴の前にある家の内装は全体的に統一感があって、気分的に落ち着く気がした。でも、実は気に入ったのがシラクーザの中心地にあったのだ。しかし予算を上回っていた。良いな...でも高いな...しかし文句なし...例外作る?...イヤイヤとんでもない...ゆったりした間取りで、街の中心にあって後悔しないと思うんだけど...等と迷っていて再び戻ってみると、無い!先を越された!で、穴の前に立っている家に舞い戻ったという次第。寝室も浴室も二つづつあるから、子供達が家族連れで来ても泊まれるから良いか...。

目的地へ

ロンドンからシラクーザに行くには、先ず国際空港のあるカターニア(Catania)に飛んで、電車に乗り継いでシラクーザに行くことになる。Googleは有難い。電車の時刻表はおろか、連絡バスが何と言う名で呼ばれていて、何分おきに出ていて、飛行場の何処にバス停があるかまで教えてくれる。もちろん何処で降りれば良いかも。この最後の点が重要。と言うのは、Googleは「Catania Centrale」で降りるように出していた。日本語に直訳すれば「カターニア中心街」。決して「カターニア駅」ではないのだ。もし「Catania Stazione(カターニア駅)」を探していたら、私は迷子になっていただろう。何しろ駅と言っても気の毒なくらいに廃れた、しかも質素な造りだったのだ。

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シチリア全島
​駅の周りには何も無い。いやゴミや廃品は転がっていたが、駅前に並ぶカフェや店といったものが無かった。私はここで1時間半待たなければならなくて、遅い昼食を食べようと思っていたのに。「廃れた」駅で、そもそも切符販売機が動くのだろうかと案じながら2台しかない1台に近づくと、数カ国語で買える販売機な上に、スンナリ切符が出て来た。イギリスなら、何台も販売機があるのに、どれもまともに切符を出して来なくてイライラするところだ。もちろん英語でしか買えないし。ふむ、見てくれで判断してはいけないのかも...と思いながら、駅のカフェを探す。あった。もちろん質素な店構え。客は私一人。

​ほうれん草とリコルタチーズのパイに白ワインを一杯注文した。€5。ワインだけで€5が普通なのに、これは安い。パイも不味くはない。私も少し寛いでワインを啜っていると、バーテンさんが英語で話しかけて来た。「何処から来たんですか」。「日本人だけど、ロンドン郊外に住んでいます」。すると、イギリスに居たことがあると言う。日本にも行きたいと言う。「日本は物価が高いし、例えばパイとワインを注文して€5では済まない。でも上手に選べば、結構安く暮らせるかもしれない」等と話しながら、彼の英語がだんだん滑らかに出てくるようになっているのに気づいた。頭の中で一生懸命英語のセンテンスを並べて話しているのだ。私にも覚えがある。廃れた駅のバーテンをしているが、広い世界に出て行きたいと願っている姿勢が感じられた。日本の庭園が好きなのだそうだ。繊細な感覚の持ち主らしい。話が弾んで、1時間は瞬く間に過ぎた。「お話出来て良かったわ」。「僕も」。心温まる気分で、彼の将来が開けることを願って別れた。
 
電車は空いていた。海岸線を走るのを期待していたが、窓外は見る見る闇に沈んで何も見えなくなった。何処をどう動いているのか見えないままの1時間は長い。しかしやっと着いた。家の貸し手がカターニアに車で迎えに行くと言って来たが、€100(¥14,200)だと言うので断った。はて、ここのタクシーは吹っ掛けて来るだろうか。パレルモでの経緯を思い出して、俄然心配になる。街灯も思うように無い暗がりに、人が何人か蠢(うごめ)いていた。タクシーの運転手らしい。その内の一人が声をかけて来た。値段を聞くと、€15(¥2,400)と言う返事。運転手さんは親切な人だった。目指す家について、私の荷物をブーツから取り出して、閉まっている扉を押し、ベルを鳴らし、しばらく待って、世話人に電話をして、「30分で来るそうだ。じゃあ、俺は行くヨ」。電車代が€7.5(¥1,200)。タクシー代と合わせて¥3,600。
運転手さんに教えられた角を曲がると、広場に出た。素晴らしい噴水が夜空を飾っていた。その周りをレストランやカフェが取り巻いて、野外に出したテーブルに沢山の客が、思い思いのグラスを持ってお喋りをしていた。ああ、イタリアに来たんだ!私も席を取って、世話人が来るのを待とう。12月の夜9時に、野外で食事ができるなんて嘘みたいだ。​
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アルテミス(ダイアナ)の噴水

​住居

翌朝。木窓を開けると、日差しが燦々と降り注いで来た。時計を見ると既に9時。イタリアはイギリスよりも1時間早いのだ。私の日課は、毎朝7時半ぐらいに目が覚めてお茶を入れ、それをベッドに持ち込んでゆっくり飲みながら、昨日の事を思い返したり、今日の予定を立てたり、ぼんやり窓の外を眺めたりする。そうして8時半頃ベッドを這い出して、朝の体操を30分して9時になる。でもイタリアではもう9時。お茶も、ぼんやりする時間も、その日の予定を立てることも、体操も全部飛び越えて朝ご飯?そんな慌てふためいた暮らしは、とっくにお払い箱にした。定年して良いことは、時間に融通が効くこと。朝ご飯も、昨夜の噴水の周りにあったカフェで食べよう。
 
カフェに入ると、朝10時前という時間に、沢山の人が朝のコーヒーを飲んだり、朝ご飯のコルネを頬ばったりしている。これから仕事に出るらしい男達も(遅刻しないのかな?)、奥さん達のグループも(朝の片付けは放ったらかし?)急ぐ様子は全然無い。ところで若い女性が一人、男達がするように、カウンターの前に立ってコーヒーを煽った。一気に飲む、強いエスプレッソだ。(ふむ、自立した女だな。)朝ご飯の帰り、明日の朝ご飯用にハムを買うつもりでデリケテッスンに入ると、前掛けをしながら奥から出て来たのは、何と先刻の「自立した」女性。「あら、先刻カフェでコーヒー飲んでたでしょ?私もあそこで朝ご飯食べてたの...」と言いそうになって、ハテ、イタリア語の過去進行形は...?相手は不思議そうに私を見ている。ヤレヤレ道はまだ遠い。
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オルテジアの通り
​家に戻って、改めて眺めまわす。この家に、これから1ヶ月暮らすのだ。玄関脇にソファがある。ゆったりとした大き目のやつ。その向かい側には革製の古いチェストが置いてある。その上に観光案内のパンフレットが何枚か載っている。貝や珊瑚の置物も。(でも本物じゃない。)チェストの脇には、かつて船上で使ったランプが幾つか並んでいる。(これも飾り物用に昨今作ったもののよう。)ソファの上には魚が群れを成して泳いでいる。壁は海に見立ててあるようだ。つまり、この家は海をテーマに、水色と白で統一して飾り付けてあった。キッチンの戸棚を開けると、皿小鉢もみんな水色。全部イケア(IKEA)のラベルが付いていた、皿も小鉢もソファも飾り物も敷き物も何もかも。イケアのものは堅実に作ってある。娘もイケアが大好き。ただ、一品物ではないのが明瞭で、つまり個性が遠ざかってしまうので、一寸寂しいだけ。
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玄関の間。居間として設えてある。
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ソファの向かい側に置いてあるチェスト。
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居間の奥に食卓が置いてある。
​寂しいのは家具だけではない。植物がたくさん置いてあるのだが、全部プラスチック。庭に置いてあるのまでみんな。ふんだんに陽が注ぐイタリアのコートヤードにプラスチックの植物とは、私の個人的な好みではあるが、これは寂しい。連れがやって来て先ず言及したのも、コートヤードに置いてあるプラスチックの鉢植え。彼も植物が好きなのだ。でも仕方がない。家具付きの貸家で、1週間か2週間の休暇で滞在する若い人達が、植物の手入れをするとは思えないのだ。だからと言って緑が全然ない家は、もっと寂しい。だからプラスチックの植物ということになった!
ところで、つくづくと家の造りを眺めてみたのだが、この家は、元々は天井の高い玄関ホールだったのではないか。そこに2階と3階を立ち上げた、と見えるのだ。というのも、1階から3階まで吹き抜け。どの部屋も独立していない。ドアがあるのは浴室だけ。上手く改造したとは思うものの、プライバシーの保持はあまり期待できない。2階の部屋も寝室になるはずだが、ドアが無いので2組目のカップルを泊めるには躊躇がある。まあ、子連れの家族が2階を子供の寝室にして滞在するなら構わないかもしれない。しかし階段の造りが子供用ではないから、小学生位なら大丈夫かな、といったような条件が色々と付く。パレルモのアパートにも、天井の高い玄関ホールがあった。そこは単に玄関ホールとして使っていたが。
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中二階にある二つ目の居間。ソファはベッドにもなるので、二つ目の寝室?私は自分用の居間にしていた。連れは階下を使用。
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階段。これでは幼い子供には危ない。
​1週目は私が一人で暮らして、「我が家」にする備えに勤しんだ。それはいつもの事だ。何処へ行けば何が買えるか、食糧や調味料の買い置きをしたり、家庭機器の使用法を心得たり、掃除はどうすれば良いか等々、家事万端に目を配るという仕事。そうしたことが全て整った処に連れは到着するというわけ。それでは不公平ではないのかと仰る向きもお在りだろうが、そもそもこの旅行記の初っ端に「夫も全てを分担するつもりで事に着手すべき」みたいなことも書いたが、実は私一人の方が私にとっても楽だと認識したのだ。二人でウロウロするより、一人でウロウロする方が単純で済む、という事。

オルテジア

​オルテジアが大好きになった。先ず家の角を曲がると、そこが前述の噴水のある広場。噴水は20世紀初めに、ギリシャ神話の一話に因んで創られた。話は、恋した男とそれを嫌う女の話。*狩の女神アルテミスに仕えるニンフに恋をした川の神がニンフを追い回したが、ニンフはアルテミスに仕え続けるために逃げた。しかし川の神も諦めずに追いかけたので、ニンフはアルテミスに助けを求めた。するとアルテミスはニンフの姿を水に変えて地中に隠した。ニンフは地下水になってオルテジアに辿り着き、海の側に淡水の泉として落ち着いた。その謂れある泉は殊更に甘い水だと、*キケロが讃えている。もちろん今だに大切に保存されている。水は緑色で、一寸飲む気にはなれないが...。噴水の構図はアルテミスを中心に据えて、その前に、逃げ回るニンフを悩ましい全裸の姿で横たえさせ、アルテミスの背後には追いかける川の神を欲情に燃えた醜い男の姿で潜めさせ、周囲には上半身は少年で下半身は魚の妖精達が魚や馬を乗り回して戯れている姿をあしらってある。ルネッサンス様式のこの彫像群は、広場の中心の噴水に、昼も夜も洗われて立っている。
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アルテミス (狩の女神で処女神) を中心に、右にアルトウーザ (ニンフ) 、左に     アルフェウス (川の神) を配置。
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アルトウーザとアルフェウスの物語を歌う詩篇。
​広場の名は、これ又オルテジアに馴染み深いアルキメデスの名をとって、アルキメデス広場。アルキメデスはオルテジアの名家の出身で、アレキサンドリアに留学した時以外は、オルテジアで生涯を暮らしたらしい。もちろん彼の発明品を並べた博物館が、教会堂広場の背後にある。展示品は当然の如く、観覧者の驚異を呼び、観覧者を感心させ、ついでに観覧者の知恵試しを図ることになっていた。私が面白かったのは、ピラミッド。彼はピラミッドを幾つかの塊に分割して、バラバラに置き、ピラミッドを再構築するパズルを創った。最初は4つに分割したものに始まって、次第により多い数に分割してあった。最初のは知能検査程度の難易さだが、二つ目、三つ目になると至難な知恵試しになって行き、私は40分位そこにいたように記憶する。中学校の理科の授業を復習した気分になって出てくると、係の人が「随分時間がかかりましたねえ」というようなニヤニヤ顔で私を見た。連れが来ると、もちろん引っ張って行って、今度は「知恵比べ」。彼も面白がって、しかし私よりも時間が掛かりましたねえ。ケケケ。
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シラクーザ大聖堂(Duomo di Siracusa)
​オルテジアの大きさは、南北に歩けば私の足で40分、東西だと25分といった感じ。つまり、えっ、もう海?と驚く程小さい。だから何でも小さく出来ているかというと、そうでもない。初めて教会堂広場に迷い出た時には、その広々とした大きさにビックリした。教会堂も大きいが、それをより大きく見せているのは、その前に広がる広場だ。何度行っても圧倒された。教会堂は元々はアテーナイの守護神アテネの神殿だったのを、キリスト教の教会堂に作り替えたものだ。中に入ると、神殿の柱だった部分を塗り込めて教会堂の壁にした事が見て取れる。息子もギリシャ神話が好きだった。彼が伴侶とその娘同伴でスペインからやって来たので、その向きを説明すると、神殿なら見に入るけど、教会堂になってしまってるんだったら入らなくてイイ、という返事。実は私もその類。
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大聖堂内部。ギリシャ様式のエンタシスの柱が並ぶ間に石を埋めてキリスト教会に作り変えた。
イスタンブールでアヤ・ソフィア教会堂に入った時、壁のフレスコ画を石膏で塗り潰した跡が痛々しかった。モハンメッド2世がイスタンブールに侵攻して、やらせた事だ。そして彼はその向かい側に、これ見よがしに、それよりも大きなモスクを建てた。6本のミナレットを控えた通称ブルー・モスクだ。私はその前に立った時、ドームはイスラム軍の兜みたいだし、ミナレットは槍のように空に向かって突き立ててあって、その戦闘的な姿に寒々とした。同様の思いが、この教会堂に対してもある。美しく、気高いマリア像を祀ってあるのだが。なぜ他の神を否定するのか。キリスト教もイスラム教も一神教だからだが、それは分かっているのだが、彼らが他を否定する姿勢は凄まじい。私は小学生の時に初めてギリシャ神話を読んで、神様達が、泣いたり、笑ったり、やきもちを妬いたりするのが可笑しくて、そしてそんな在り方に、安堵したものだった。そういう神様達の像を、中世のキリスト教徒はみんな川に投げたり壊してしまったりした。

​遺跡

市場の近くには、アポロの神殿跡がある。いや、順序からして、アポロの神殿跡近くに市場が出来た、というべきか。こちらの方は、運良くキリスト教信者に放ったらかしにされて遺跡として残っている。町の真ん中に「石ころが転がっている」と私は思ったが、連れはしきりに感心している。「どうやって、こんな大きな石を運んだんだろう?」という訳。「たくさん奴隷が死んだのヨ」と、私は真面目に受け応えをしなかったが、これはアルキメデス並みの知恵があって初めて出来た事だろう。おそらく、丸太と梃子でも使ったのだろう。イラクリオンの考古学博物館に、丸石と梃子を使って巨大な物を動かしている図があった。ギリシャ文明発祥以前の史実だ。
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太陽神アポロの神殿跡。アポロとアルテミスは双子の兄妹。
本島に渡れば、街の北西にギリシャ・ローマ時代の遺跡が大規模な形で保存されている。全体が公園として囲われていて、ゆっくりと1日を過ごすことができる。交通機関がないわけではないが、私達はオルテジアから橋を渡って、テクテクと歩いて行った。採石場あり、巨大な洞窟あり、ギリシャ及びローマの野外劇場あり。野外劇場は通例の通りだが、巨大な洞窟は「デイオニシオスの耳」(Orecchio di Dionisio)と呼ばれる。画家のカラヴァッジョ(Caravaggio)がここに案内されてこう呼んだことに始まる。ここは元々採石場だったのが、深さ(高さ?)23m、長さ65mのS字型の横穴を掘ってシラクサ市民のための貯水場になっていた。現在でも、丘の上には古代の水飲み場が健在している。
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古代の泉。今でも飲めそうな くらいに澄んでいる。
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通称デイオニシウスの耳。良く響く。
ところで何故「デイオニシウスの耳」なのかだが、地震で貯水設備が使えなくなった後、ギリシャのデイオニシウス1世(BC432-367)はここを牢獄に使って、洞窟の音響効果を利用して囚人の会話を盗聴したからである。拷問に喘ぐ囚人の呻き声に耳を傾けたとも伝えられる。残虐で、疑い深く、しかも執念深い、暴君の中でも最悪の類... と資料には書いてある。

​デイオニシウスはシチリア一帯を征服してギリシャ西部最強の植民地となし、*カルタゴの影響を排してシラクーサを建設した云々...。歴代のローマ皇帝を頭の中に並べているのである。賢帝と呼ばれる皇帝は、およそ70人を数えるローマ皇帝の中で、ほんの数人。つまり稀有。残念なことだ。
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旧採石場。石灰岩に含んだ水が滲み出て、滴を落として数千年?地面には水溜りができていた。
​旧採石場に立って見回した。石が直線を描いて切り取られたらしいのを見上げた。どうやって切り出したのだろう...と思ったからだ。どんな道具を使って?しかも見上げる姿勢で?チェーンソーがあったって容易なことでは出来ない規模だ。奴隷の群れを想像した。エジプトのピラミッドも、数々の神殿も、宮殿も、奴隷が居て初めて建ったものだ。いつか誰かが言った。「現代には、偉大な建物は建設されないのサ。奴隷が居ないからね」。

​こんな所で、来る日も来る日も過酷な労働に喘いで生きるより、死の方が望ましいと思っただろうに。カルタゴ人は、ローマに攻められて城が陥落した時、死を選んで、城壁上から身を投げた。


https://en.wikipedia.org/wiki/Dionysius_I_of_Syracuse​
『ローマ人の物語』塩野七生著

市場

写真魚屋がエビ、イカ、魚2尾で計€21 (¥3,350) だとサインしている。
編集するにはここをクリックします。

​市場に行ってみた。魚屋と八百屋がズラリと並んでいて、私はウキウキしてしまう。私が通ると、「買わないかい?」とばかりに、魚屋が視線を投げて来る。「イラッシャイ!」「アリガト」「サシミ」と、知っている日本語の単語をありったけ言って見せる魚屋のおじさんも居た。彼は高級魚専門。オルテジアの高級魚はカジキマグロ。1センチ位の厚みの切り身を€10で売る。二人分の照り焼きが出来る。素晴らしく美味しい。連れはワクワクして「スゴいな、スゴいな」と言いながらウロウロする。彼は食いしん坊なのだ。
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カジキマグロ
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アーテイチョークの山
​魚屋は店を構えていたが、八百屋はみんな板を出した屋台で、品揃えした規模のもあるが、2・3種の野菜を売っているだけの店も少なくなかった。季節は丁度アーテイチョークの旬。山のように積み上げて、さすがにデッカイ立派なのがある。が、大きいだけではダメ。手に持ってみて重みがあって、ガクが閉じているのが良い。食べる所がないみたいな、アンナモノの何処が良くてイタリア人は買って行くのだろうと思っていたが、旬の物は香りがあって、歯触りも良い。湯掻いたお湯は、スープになる。レストランで勧められて注文してみると、薄切りにしたアーテイチョークにパルメザンチーズを大振りに削ったのが出て来た。それに塩とオリーブオイルをかけただけ。美味しかった。アーテイチョークとパルメザンチーズの相性が絶妙なのだ。
​肉屋はないのか?肉屋の前に立ってワクワクするといったことは、私には無い。が、全然食べないわけでもない。2軒の肉屋が、市場の通りの外にあった。もう1軒は市場の通りにあった。但し間口が狭いので、うっかりすると見逃す。中に入って行くと、接客中の女将さんが私に気づく。その相手の女性客も、体が少し緊張したようだった。私はソーセージが買いたい。ただイタリアのソーセージは長いままトグロを巻かせて売っている。ハテどの位の長さで注文すべきか。ショーウィンドウの縁を使って6本分を測った。私の番になると、女将さんは、「ハテ言葉が分かるかしらン」という顔をした。「ヴォレイ・レ・サルチッチェ。(ソーセージをください)」。女将さんは、それは分かったらしいが、「でもどの位?」という顔をした。私は2本の人差し指を70センチ位の間隔に開けてショーウィンドーの縁に置いて「コメ・クエスト。(これくらい)」と言った。すると先刻の女性客が女将さんに何か言ってくれた。「ショーウィンドーの縁を見て。さっき測ってたの」とか何とか。女将さんも私が縁で示している意味が分かって、「オ・カピート!(分かった!)」と言って微笑んだ。私は女性客に向かって「グラツェ、セニョーラ」。この人は、私が入って来た時から心配してくれていたのだ。
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魚と玉ねぎの背後にあるのはキノコ2種。セロリ、パセリ、タマネギと合わせて€5。魚類はカジキマグロも合わせて€31。日本円なら計¥5,742。
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人の顔のような形のナス。
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ワインショップのご主人。
​食事時に困ることが一つあった。ワインの栓抜きが梃子の原理を使っていない単純な物しか家にはない。加えてシチリアのコルクは乾き切っていることが多い。何と言ったって、どうしたって、抜けない。ワインセラーの代理店に行って「栓抜きをください」と言ったら、家にあるのと同じ物を出して来た。他に行く。今度は「売り物用のは無いんです」。そこでスーパーに行く。無い。そこでGoogleしてみる。「コルク栓の抜き方、五つの秘訣」が出て来た。その内の一つに「瓶をしばらく寝かせてコルクを湿らす」というのがあった。一晩寝かせた。やっぱり抜けない。そこでワインを買った店に瓶ごと持って行って、コルクを抜いてもらうことにした。落着。でもワインを抜く度に行くの?でも、まあ、今日のところはこれでいい。ところで、そこの主人は親切な人だった。数日後、私が行くと、用意してくれていたのだろう、梃子の原理を使った栓抜きをくれたのです。それも「差し上げます」と言うのだ。連れが来て「栓抜き、持って来なかったヨ。凶器になるからセキュリティー・チェックで取られちゃうんだ」。(フン、私の苦労も知らないで。自分の方がたくさん飲むくせに。)

アプリティーボ

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大聖堂前のカフェ。
​何よりも楽しんだ一事がある。アぺリテイーボの一時。連れは仕事があるから、昼間はコンピューターを叩いたり、ズームで会議に参加したりと忙しい。けれども4時近くになると、仕事を切り上げて散歩に出た。ひっそりとした東側の海沿いを歩いたり、賑わう西側の海辺に出たり、大通りと並行してウネウネと続く裏通りにある店を覗いたり、港に出て船を眺めたり、夕陽が落ちて行くのを見守ったり。カフェは行く所、何処にでもあった。眺めの良い所を選んで、ちゃんとテーブルと椅子が置いてある。イタリアの夕方4時はハッピー・アワー。カクテルを注文するとツマミが添えられる。この4時のツマミは儲け抜きで(カクテル€8+ツマミ=€10)、チップスが出て来ることもあるけれど、大概は店がそれぞれの工夫を凝らす。夕食前の、この1・2時間を、私がどれだけ愛したか知れない。
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ヒッソリとしている東側の通り。
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港に面した立派な街並みの西側の通り。

港の変遷

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シラクーザ港
​オルテジアには港が二つある。西側の港は自然港。どんなに大きな船でも、タンカーでも、何でも、かんでも、幾らでも入れる。初めて見た時、360度見回して、これが港?防波堤が無い!これで海からの波を防げるのかナ?と、先ず不安に思った。私のボートが木の葉のように小さいからだろうか。もし巨大なタンカーの船長なら、むしろ安心するのだろうか。これが英語のハーバーに該当する類だろうか等と、イギリスのチチェスター・ハーバーを頭に浮かべて考えた。チチェスターは河口に出来た自然港だ。だから一寸様子が違うので、私の頭は納得しない。
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シラクーザのマリーナ。円で囲んだのは緑と赤のビーコン。
北側にあるのは、マリーナと呼んで良いような小さい規模。漁船やレジャーボートが並んでいる。マリーナの入り口近くに、高級らしい佇まいのレストランがある。が、閉まっている。冬はお客が少ないからかナ?しかし、ゴミが散らかっている、デッキが壊れている、デッキを支える手摺が錆びている、全体に寂れた感じ。改めて見回すと、マリーナ全体がそうだ。停泊しているボートの方も、塗り替えた方が良くはないか?いや、せめて洗っただけでも、もう少し何とかなりそうなものだ、と思えるのばかりが並んでいる。イギリス、フランス、イタリアと、これ迄見て来たマリーナとは一寸雰囲気が違う。マリーナの入り口に立つ赤と緑のビーコンに目を遣った。色が、ありったけ剥げている。これでは遠目からは見えまい。港で一番重要なビーコンがこんな様では、マリーナの運営はどうなっているのか知れたものではない。
​マリーナは三つに分かれていた。レジャーボートが並んでいる辺りを歩いて入り口を探した。ゲートは閉まっている。錠がかかっている上に、太い針金で結えてある。長期間の閉鎖だ。ビーコンに近い方のポントウーンに行こうとして入り口を探したが、見当たらない。仕方が無いから漁船の並んでいる方に戻って来て、様子だけでも聞いてみようと入り口に入った。事務所は無い。あるのは、物置風の小屋だけ。足音が聞こえたのだろう、目の鋭い、皺だらけのお爺さんが出て来た。私はイタリア語で込み入った話はまだ出来ない。「英語で話しても...」終いまで言わせずに手を振って、「ソロ・イタリアノ!(イタリア語だけ!)」。
 
シラクーザの港は2,700年間の歴史を誇る。ギリシャからスパルタ人やコリントス人がやって来て、寄港地として港を整え、街を造って、シラクーザはアテネに匹敵する程に栄えた。紀元前500年頃のことだ。キケロが書いている。「シラクーザは、ギリシャ第一の、しかも最も美しい街である」と。その後ローマ帝国に吸収され、東ローマ帝国に移行した時には、一時は首都(663−669)であった。歴史は続く... 。ローマが消滅して、シチリアは400年間のアラブ支配に移行、その後ノルマン人が南下してノルマン時代になり(1038)、神聖ローマ帝国の一部になり(1194)、スペインと結び(1298)、16世紀と17世紀には大地震が起きて、シラクーザの街はその姿を永久に変えた。その上18世紀になるとペストが流行り、19世紀にはコレラが蔓延したのを機に、シチリア革命(1848)が始まって、イタリア統一の流れに合流して行った。いや、世界全体の流れが変わって、シラクーザは既に過去のものとなっていた。
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大晦日の夕暮れ。
​大晦日の夕方、息子の家族と西側の海浜に出た。夕陽が少しづつ、少しづつ、沈んでいく時間だった。私達全員、一寸ハイパー気味の6歳のアリシアまで、何故か知らないが、海の前で、30分位沈黙して立ち尽くした。何故だったろう。翌日、息子に聞いてみた。「平和な風景だったからじゃないかナ?」と、彼。シラクーザに変遷を強いる要素は、もう絶えたようだ。
 
https://en.wikipedia.org/wiki/Syracuse,_Sicily

食=物価

​私の避寒地滞在は、食に関しては、市場に行って地元で育った食材を使って自分で料理するのが基本。しかし外食もしないわけではない。特に始めの1週間は、調味料も食材も何処に行けば何が買えるのかを知らないから、外食になる。同時に土地の味というものを知るという意味でもこれは有効だ。もちろんイタリアといえども、あんまり美味しい料理は出て来ないのだが、それでも試してみなければ分からない。パレルモ滞在の時には散々だったが、今回はどうか。着いた夜、世話人が来るまでの間、アルテミスの噴水の前にあるカフェでスパゲティーを食べた。不味くはなかったが、2度は行かない。その隣のカフェで息子達とピザを食べた。何故かとろけるチーズではなかった。でもアンテイパステイはとても美味しかった。もちろんアンテイパステイだからハムやチーズを盛り合わせたものだ。多分自家製であるよりはデリケテッスンで仕入れた物だろうが、添えられて来た4品のレリッシュが美味しかった。こちらは明らかに自家製。オリーブをペースト状にした物、マッシュトポテトにクリームか何かを加えた物、玉葱やら胡瓜やらを酢で和えたもの、最後の一品は思い出せない... 何だったっけ?(殆ど連れが食べてしまったので記憶が乏しい。)いずれもハーブをふんだんに使ってあった。
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イタリアのハーブ
写真タコを軽く茹でて、オリーブオイルとレモンを絞りかけてサラダにした一品。
​教会堂近くのレストランで前菜にタコを注文した。メニューには無かったのだが作ってくれた。タコの足を軽く茹でて薄切りにしてオリーブオイルと酢をかけて、デイル(dill)をあしらった一品だった。これは美味しかった。シチリア人はよくタコを食べるらしい。主菜はオルテジア風ピザ。ありとあらゆる具がのっていた。美味しかった?そーだなあ、何というか ... 例えば、お好み焼きに豚肉とイカと海老とスイートコーンとほうれん草とズッキーニとハムが入っていたら、どういう味がするか想像して欲しい。料理は、取り合わせの良し悪しということを忘れてはいけない。そもそも具沢山では、ドウがパリッと焼き上がるという訳にはいかない。トマトペーストとチーズだけをのせたマルガリータが美味しいのは、具が少ないだけに、ドウがパリッと焼き上がっているからだ。

写真バジルを添えて、イタリアの国旗と同じ3色にアレンジ。
「ここには本格的な釜戸があるよ」と、連れがある時散歩の途中で言った。「今日はあそこに行ってみようヨ」と言う。なんの飾り気も無い、およそイタリアらしくない内装で、学校の給食室みたいに長いテーブルを店いっぱいに入れてある。そこにギッシリお客が入っている。それが全員男。えっ、ドーシテ?中には席が無いので、私達は店先に置いてあったビストロ用のテーブルについてワインとマルガリータを頼んだ。連れは牛乳のモッツァレラで、私はバッファローのモッツァレラ。「給食室」は工場にあるようなガラス張りで、内部がすっかり見える。それにしても色んな男がいるものだ。太いの、細いの、老いたの、若いの、労働者風の、サラリーマン風の、男の見本市みたいだ。その誰もが仲良く楽しそうに、次から次に焼き上がって来るピザを分け合って食べている。珍しそうに目を見張って彼らを見ている私達に、手を振って来る人懐こい人も何人かいた。私達のピザが焼き上がった。持って来てくれたウエイトレスに「あの人達ナニ?」と聞いたら「自転車乗りのグループよ」。座がひらけて出て来た人達の一人が、「レース?とんでもない。ちょっと、ここんとこをへこませた方がいいと思ってネ」と、自分のお腹をさすりながら言った。やっとパンデミックが終わったんだ。で、ピザは美味しかった?うーん、パリッとはしていた。でも、ドウにローズマリーと塩を振りかけだけの方が、私には向いている。結局、私はあんまりピザが好きじゃないんだ。連れは残りを箱に入れてもらって、翌日温めもしないで食べていた。彼は好きなんだ。

写真白身魚のクルード 
​スタイリッシュな、さすがイタリアと思えるレストランが、通りの奥にあった。連れが町にある通りの全てを歩いてみたい人だからこそ見つかった店だ。窓際に席を占めて、さてメニュー。魚介類の盛り合わせがある。「生の魚」と書いてある。刺身のことだ。€30。飛び切り高い。この高そうなレストランで、一番高い一品。迷ったが、注文した。主菜は牛肉。最後にダブル・エスプレッソ。牡蠣と海老が一つづつ盛り合わせの中に入っていた。海老が殊更に新鮮で甘い。皿の上では桃やパイナップルの切り身が随分場所をとっている。まあ、生魚と合わないわけでもない。で問題の魚だが、フランス風の叩きにしてある。ちょっと考えた。で、ほんのチュッピリ摘んで口に入れた。で、即、ナフキンで拭い取ってオシマイ。主菜の牛肉は焼き過ぎで食べられなかった。フランス風を真似てみたのだろう、刺身も取り入れてみたのだろう、しかし表面を真似て終わっていた。二人で€120を払って、私は牡蠣と海老を一つづつ食べただけで出て来た。

​最近はクルード(Crudo)と呼ばれて刺身を洋風に盛り付けたものが流行っている。クルードはスペイン語でもイタリア語でも「生」と言う意味で、ラテン語から来ているようだ。色々検索してみると、創意工夫の取り合わせや盛り付けがゾロゾロ出て来て楽しくなる。

写真
こちらはマグロだろうか?
写真手品並みのスパゲッティ。
ある日イタリア人のシェフが、テレビの料理番組でレモン一つと玉葱だけでスパゲティーを作って、番組の出演者に試食させた。誰もがその美味しさに驚いた。フライパンにオリーブオイルを入れて弱火で温めながら玉ねぎの薄切りを入れて、オイルに味をつける。次にレモンの皮を摺り下ろして、これもオイルに加える。オイルが十分に玉葱とレモンの味を吸った頃合いに、硬めに茹でたスパゲティーを加えて混ぜて、塩・胡椒を振り、刻んだパセリとパルメザンチーズも振りかけて、レモンを少し搾りかけた。私も作ってみたが、美味しかった。パセリの緑とレモンの黄色が互いを引き立てて、見た目も綺麗だ。連れが「レモンと玉葱だけ?」と言って、どうしても腑に落ちないという様子だった。栄養価は、チーズでタンパク質とカルシュウムを、スパゲッティーで炭水化物を、レモンとパセリでビタミンやミネラルを摂って、オイルで脂肪分を摂るので六代栄養素を全て摂取することになる。材料費は¥100?尤もイタリア人のシェフは、シチリアからレモンを取り寄せていたので¥200?シチリアに行けば、レモンなんか、何処にでも実っていて無料。それに木で熟しているから甘みがある。シェフ中のシェフ、ミシェル・ロウが、何処の料理が好きかと聞かれて、イタリア料理と答えた。理由は「自分達が良く知るものを料理しているから」。

写真ブレザオラ。レモンとオリーブオイルを振りかけて食べる。
​​最後の一つ。店の看板に「スロー・フード(slow food)」と書いてあった。更に「この店は観光客用ではありません。ちゃんとした人々の店です」とも。連れは断然気に入った。どーしても行きたがった。彼が明日帰るという日、レストランには懲りていた私だが、付き合った。入ってみると、言うなれば居酒屋風。高級感は無し。オーケー。家庭料理かな?お袋の味だったりして ... 。メニューは手書き。成程、これじゃあ時間がかかる。所々間違えて書き直してある。いよいよ素人っぽい。客は私達だけ。「観光客用じゃない」等と書いてあるから、敬遠されているのかナ?注文を取りに来たのは、「お袋さん」かもしれないけれど、若い目。40代かな?女の子が一人、中央の大テーブルに一緒に座っている。当の「お袋さん」は、成程ゆっくり話す人だ。「何がお勧め?」「アーテイチョーク」。旬だからナ。「じゃ、それ」。「プリモは...」「リゾット、サフランの」と連れ。「あら、良いわね。私も」。「セコンドは 〜とっ。 海老のカルパッチヨ?」私には想像出来ない。日本人は海老は丸ごと食べるから、それを薄切りにするという感覚が掴めない。「牛のカルパッチョはありますか?メニューには無いけれど」。「ええ、できますよ」。「じゃ、決まり」。「リゾットは15分位かかるからセコンドにして、カルパッチヨとアーテイチョークをプリモにしましょう」と女将さん。日本人の習慣から、ご飯を先に食べるよりは、酒のツマミが先に出て来る方が有難い。文句無し。

写真何も入っていないリゾット。
食前酒を飲みながら、確かに時間がかかってるなア、まだかなアと思い始める。女将さんは出ていって、ピザを持って帰って来た。そして食べ始めた。こういうところは確かにプロの感じからは遠ざかる。食前酒が空っぽになって久しくなってやっと皿が出て来た。しかし文句は引っ込んだ。「これは旨い。アーテイチョークにパルメザンを削ってのせてある。あとは塩・胡椒とオリーブオイルだけ。香りが良い。独特の風味がある。で、カルパッチョは?おや、これはブレザオラ(干し肉)じゃないか。しかし紫レタスが添えてあって、ブレザオラも紫色。見た目に綺麗だ。紫レタスの微かな苦味も釣り合う。心憎いなあ。すっかり満足して、はて、次のコースはいつ出て来るのかナ。15分はとっくに過ぎたけど...。私は特にセッカチではないが、待つのが苦手だ。しかしサフランをたっぷり入れた、おそらく玉葱だけで炊いた、少し緩い目のリゾットは、何と言っても絶品だった。スープストックが良いのだろう。が、しかし、しかしだ。このいい加減引き伸ばしに引き伸ばした待たされ方に、というかテンポの違いに、私は参ってしまった。やはり頃合いのテンポというものはある。

​イタリア料理は美味しいということになっている。確かに美味しいものがある。しかしパスタにしろ、ピザにしろ、つましい食事だ。貧しい庶民の食べ物だからだ。スタンレー・トウテイがテレビ番組の中でイタリア料理を集約して「つまりは、どれもこれも玉葱と人参とセロリを刻んで入れているだけじゃないか。それを北イタリアならバターを加えて、南イタリアならトマトを入れて、つまりあるものを入れて、煮たり焼いたりしているだけだ」と。それなのに美味しい。何故か?手近にあるものを、土地で採れたものを、手をかけて作っているからだ。美味しいイタリア料理は、庶民の台所でこそ作られるようだ。

人々

​1ヶ月いると馴染みができる。大概は店やカフェの人達だ。魚屋、八百屋、酒屋。スーパーの人も。いや、馴染みではなくとも、オルテジアでは見知らない人達に気に掛けてもらったような気がする。
 
孫息子の誕生日が近づいたのでプレゼントを買った。さて送るために封筒が必要だ。しかし郵便局では売っていない。何処に行けば買えるのか?大きい本屋は文房具も置いている。で、本屋に入って探してみると、各種の文房具はあるが、封筒は無い。店員さんに聞くと、数軒先の店にあるという。ニュース・エージェントだ。新聞や雑誌、タバコ等を売っている。日本でなら、まあ昔のたばこ屋のような店だ。今ではコンビニのような店というべきだろうが、コンビニのようにコンビニエントではない。ともかく行ってみた。あった。だがカードの器械の接続が悪くて、しばらく待たなければならないと言う。「それなら現金で払いましょ」と私。すると店員さんは大喜びで(?)「ありがとうございます。私は英語が下手くそで(申し訳ない)」とまで言う。私のイタリア語がカタコトなのを咎める風は毛ほどもない。

 郵便局に戻ると、何人もの人が待っていた。私も待っていると、何故か私が抜かされた。すると、私を越して呼び出された人が、私の方が先だと言ってくれた。で、私が窓口へ行って「切手をください」と言うと、何やら長いセンテンスが返って来た。どうやら「普通郵便か、あるいは書留か」と言ったような事を聞いたらしい。すると、30代始め位の男性が飛び出して通訳してくれた。すると待っていた人みんなが安堵したような風だった。私の郵便物に時間がかかりそうだったのが、そうでもないらしいから安堵したというよりは、私のために安堵してくれたような雰囲気だった。
 ​
アルキメデス博物館に行って12月28日は開館するかどうか尋ねた。クリスマス直後というのは、アチラコチラが開いていない。「アプリ・ヴェントウット・デイチェンブレ?」一語一語を言うというよりは、一音節づつ考えながら言った形だった。係の人は「あー、ヤレヤレ」という顔をしながらも我慢して聞いてくれて、おまけに「ヴェントット」と発音の間違えも直してくれて... 。恐縮です。

​酒屋(ワイン・ショップ)のご主人へは、お世話になったお礼に、去る前日挨拶に行った。「又いらっしゃいますか?」と彼。「いえ、もう来ないと思います」。私はひたすら東を目指しているのだ。終着地はサントリニ島。「わしの遺骨はエーゲ海に投げてくれ」。父が逝って22年。初めの10年はそばにいて欲しかったのだ。しかしもう良い加減、約束を履行した方がいい。私の現在の年齢を考えれば、グズグズしている暇はあんまり無い。現在訪れている所も、全て見納めとして当然だ。写真を撮らせてくださいとご主人に言うと、恥ずかしそうに立った様子は、控えめな人柄を示しているようだった。

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牡蠣の立ち食い屋の兄 (あに) さん。
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一風変わった物を売っている店。連れはお土産を全部この店で買った。
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アルキメデス博物館の入り口。
​​最後にもう一人、いや3人と言うべきか。「ボートでオルテジア島巡りが出来るみたいヨ」と私。「良いね、行こうヨ」と連れ。一人¥20。予約して行ってみると、客は私達だけ。父親が予約を受け付けて切符を売り、祖父がボートを操り、息子が英語で案内役を務めていた。仲の良い家族なんだナ。イタリアでは、大家族主義が目立つ。友人の息子がイタリア人と結婚した。花嫁の家族は事ある毎に集まっては、一緒に時を楽しむ。祖父という人は、若い時にアメリカに渡って土木業で小金を貯めた。それを持ち帰って土地を買い、家族ばかりか、親戚一同がその土地に移り住んで一緒に土地を耕して暮らしている。土地を離れたのは、友人の息子の花嫁一人だけ。ボート・ツアーの親子3代に話を戻すと、1代目は、いかにも「覚悟の決まった人」という印象を与えた。やっと60代に入ったという年齢だろうか。3代目の説明で、オルテジアの周囲は岩場が殆どだから、「地の利」を知らないと水面下に潜んだ岩にぶち当たる事になる、のを知った。これは怖い。目印は、水面上に所々見えている岩だというのだから、容易ではない。いよいよ呼び物の洞窟巡り。海蝕で崖のあちこちに洞窟が出来ている。間口3mから4m位、奥行き10mから15m程の洞窟内に、長さ5m、幅2mのボートを入れるのだから「えっ、入るの?!」と疑った。いえ、入ったのです。しかも、中でUターンまでして。
 
いくらなんでも、こんな狭い洞窟内でUターンするなんて、ムリ!しかし、したのだ。ボートを前後に動かしながら、洞窟内の凹みを上手に利用して、同時に突き出た箇所を避け、少しづつ、少しづつ、角度を変えて。それにしてもだ、舟頭舟尾いずれも岩との間は、わずかに10cmあるかどうか。しかし乗っていて、ボートの動きが安定している事を感じた。すごい腕だ。私も、こんな確実な自信を持てるようになるのだろうか。港に戻って来て、降りる段になって、何とか一言その人に言おうとしたのだが、そして相手も言葉を受けようと私に対したのだが、肝心の一言をどう言って良いのか分からない。イタリア語でどころか、英語でも、日本語でも出て来なかったろう。仕方がないので「グラッツィエ」とだけ言ったら、苦笑された。海で生きて来た男と私とでは、経験も覚悟の程も桁が違う。当たり前のことだ。
 
息子達が来て、彼らもボート・ツアーに行きたがった。再び、私も同伴した。ボート・ツアーの親子3代が、岩壁に並んで待っていた。今回は12人の客が乗ってボートは満席。しかし1代目は、2代目と言葉を交わしていてボートに乗らない。3代目だけが乗ってヘルムを取った。「えっ?!」。まだ20代だろう3代目に、1代目の腕の確かさはあるまい。出来るのかな?彼は英語で説明をしながらヘルムを操る。心なしか、前回よりは説明が少ないような気がした。一人二役は、やっぱり荷が重いのか?きっと洞窟には入らないのだろう。が、入るらしい。ボートが揺れた。その揺れは、ヘルムの揺れを写していた。危うい?3代目が歯を食いしばっているのが、感じられた。私も舟頭と舟尾に目をやり、何時でもボートを守れるように手を伸ばして身構えた。ボートはUターンを始めた。これはヘルムの確かさの査定だ。
 
少しづつ、少しづつ。より小刻みに、より多くの回数を重ねた。が、回りきった。ヘルムが「フット」安堵したように一瞬止まった。その時「こっち見て!」。カシャリ、と私のカメラが、エドワルド(3代目)の晴れ姿を撮った。1代目の様ではない。しかし上出来!彼にとっては家業を引継いだ記念の一
瞬。凱旋したかのような笑顔が、私のカメラに残った。が、関門はもう一つある。舟頭を着岸させて、ボートを固定しなければならない、客が全員無事に下舟出来る迄。シングルハンドだから、綱を岩壁のバラードに掛けて固定する訳にはいかないのだ。私のボートはファイヴァーグラスで出来ているので、軽い。綱無しで岩壁につけることなどは出来ない。しかしこのボートは木造りだから重量がある。出来るのかな?エドワルドは慎重に角度を選んで、岸壁の角に舟頭を入れるように、ボートを定めた。「パーフェクト」と、彼が自分に呟いた。ボートは着岸して、ボートの突端が丁度良く岸壁の角に収まった。客は次々に下舟して散って行った。私はエドワルドがリバースして港を横切って行くのを、一人見送った。既に遠く小さくなった彼が、岸壁を振り返って、そして私を認めて手を振った。私も手を振り返した。世代交代が、成功したのだった。
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ボートツアーの切符売り場。2代目が座っている。
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ハート型の洞穴。
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洞窟の内部。
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洞窟の内部から外を眺める。
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ボートを操る1代目。
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初の操縦をこなした一瞬の3代目。

家主

​この「オルテジア」の章で、私は土地の人々について多くを書いた。それだけ親しみを感じたからだ。大都市のパレルモとは確かに違う。小さい島だけに、繰り返し同じ人に会う事になったからだが、人々の姿勢にも他を気遣うところがあった。但し例外が一つあった。家の不備を報告した私に対する家主の態度が、違法行為に等しいものだったのである。
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錆が湧いたラック。
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錆びついたラックにカップが伏せてある。
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ウソ偽りの貼り紙。
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ゴミ回収日も張り出して、厚顔無恥も甚だしい。
私はキョトンとした。次にオヤ、マア。そしてギョッ。看板に偽りがあったのである。3階にある浴室にはシャワーがあった。しかし2階の浴室にはシャワーは無かった。トイレだけ。「キョトン」。次に3階の寝室に大きなテレビがあった。しかしアンテナに繋がっていなくて、何も映らない、何も聞こえて来ない。電気技師が来て、何処にも繋がっていない線を引き出して見せてくれた。「オヤ、マア」。キッチンの戸棚には皿を立て掛けられるラックがズラリと並んで収まっていた。「これは好都合」と思いきや、ラックに錆がビッシリ浮き上がっている。「ギョッ」。緑青はまだ湧いていなかったが、こんな処に食器置くの?電気技師がついでに教えてくれたのだが、「キッチンの横の収納庫の壁に取り付けてある管が水漏れしている」。なるほど、収納庫のドアを開けると強い臭気が鼻をついたのはそのためか。
 
これらを当然報告して善処してくれと言ったら、家の持ち主は「2階にシャワーがあるなんて書かなかった」、「テレビは私がチェックした時にはちゃんと写っていた。あなたが壊したんでしょう。修繕代はあなた持ちよ」、「ラックは通常のより少し長いので取り替えられない」。これらを通訳して伝えてくれる世話役嬢の英語が、これ又分かりにくい。彼女は「you」と書くべきところを「she」と書くので、私のことを指しているのか、誰か他の人のことを言っているのか迷う。迷うが、内容から推して私のことだろう、と察しなければならないのだから時間が掛かる。収納庫については、ドアに鍵をかけてしまった。
 
これらに加えて、細かい事を言い出せばキリが無かった。一つ挙げれば、電球の球。アチコチ代わる代わるキレる。その度に世話役嬢が駆けつけて来て、隣家に電球を「借り」に行く。電球なんて安い物だ。1ダース買って置いといてくれれば、私が自分で代えられる。しかし頑として、そうしなかった。隣家が留守の時には、代えてもらえなかったのだから笑ってしまう。しかし笑えない事が一つあった。「ゴミ処理については常々心を砕いているので、厳重に規則を守って欲しい」とキッチンに張り紙がしてあった。この点に関しては、私も深く同感するので世話役嬢に相談すると、「全部一緒にビニール袋に詰めて、通りにある公共用の、例えば公園なんかに備えてある、アレに入れておけばいいわ。家の前にも二つあるでしょ」。これには居心地が悪かった。これでは海が汚れても不思議ではない。家そのものは趣味よく設てあるのだから、通常の手入れを心掛けていれば大して費用が嵩むわけでも無いのに、それをしない。代わりに嘘偽りを言って知らん顔をする。残念な事だが、その姿勢は1ヶ月の間に変わる事は無かった。
 
ポルトガルのカスカイスに滞在したのを始めに、キプロスのパフォス、パレルモ、ボルネオのクチン、ヴェトナムのホテル3軒、バリのタバナンの住まい は全て、看板に偽りがあったことも、設備に不備があった事もなかった、たとえ電球一つにしても(yasukodrifter.co.uk 参照)。しかし7番目のこのオルテジアの家では、大小様々の不備が露見して、改善したのは二つだけ。一つは、二つ目のバスルームにシャワーは無いと記述を訂正したのと、キッチンにある換気扇のフィルターを取り替えたこと。世話役嬢はこの家の係になって3年になるというが、フィルターの替え方も、たまには替えなければならない事も知らなかった。油でベトベトに汚れた換気扇を私が外して洗い始めても、手を出す様子は無かった。こういう家主が数ある中にはいる事を、借りる時には知っておくべきであるようだ。しかし前もって知る手立ては無い。出来るのは、リヴューを注意深く読んで判断するのみ。

さて、結果を数字で表すと、下記のようになる。但し、連れはイタリアに来ると外食したがるので、1週間で外食費が7万円を上回った。これでは私の平常の暮らしを反映しないので、彼が滞在した1週間は外した。反面、息子親子は私の手料理で満足したので計上して、下記の数字は3週間分。
(下記の数字は全て¥)
 
        住居/総経費         73%        41%    48%     52%      61%             64%    60%


                    オルテジア    バリ          ヴェトナム        クチン        カスカイス         パフォス       パレルモ
       住居費        316,680      126,712      (152,320)           181,830             260,568            262,912          214,650
       食費              74,266   ( 32,875)         -                        9,564               97,960               46,452.           38,796
       飛行機          19,090      50,836           (69,360)             71,949             24,490              23,700.           41,658
       交通費            3,834      18,886           (18,290)             21,794                17,380              66,044            12,084
       外食              14,484   ( 20,541)          (54,880)             16,592                16,000              12,640            16,695
       入場料            6,816     1,164            (     449)           -                   11,000                    948              4,770
       遠出費用          -      59,462         (21,000)            50,218                      -                        -                  29,733

       _________________________________________________
       合計             435,170   310,476          (315,850)          351,947          427,398            412,696          358,386      

換金レート:€1=¥142(2022.12月現在)

上記の数字を見ると、オルテジアとパレルモとの違いが興味を引く。パレルモ滞在は2016年の3月だったから、オルテジア滞在とは約7年の隔たりがある。それを念頭に置いて考えると、住居費は、寝室が二つの一軒家と寝室が一つのアパートとの差だと思えば、「まあ、そうか」と頷ける。しかし食費の違いは歴然とする。パレルモではスパゲティーばかり食べていたのは確かだが、特に節約していた訳ではない。パレルモの住居はアラブ人が多く住む地域だったので安かったのだろうか。引き換えオルテジアには観光客が集まる。高価なカジキマグロが売れるくらいだ。「そういうことか?」。笑ってしまうのは飛行機代だ。ロンドン・パレルモ間は、ロンドン・カターニア間に比べれば便数も多いから安いはずなのに、7年前はロンドン・パレルモ間は、去年のロンドン・カターニア間の倍額だった。今サイトを見たら(2024.1.24 現在)、アリタリア航空で往復¥30,000と出てきて、7年前と去年との中間。飛行機代の変動が、如何に目まぐるしく変わるかを語っている。交通費はどうか。パレルモの方が¥12,000で、オルテジアの3倍になっている。どちらの土地でも徒歩で動いていたのだから、これは飛行場や駅への行き来に使ったタクシー代。パレルモでは市内と飛行場との距離は31kmで30分かかる。シラクーザ駅からオルテジアの中心までは2kmで10分もかからない。これが二つの土地の、交通事情の違いだ。

合計の経費が再び40万円台に上がった。こうして見ると、カスカイスとパフォスが、7年前とは思えない程高かったのか。項目別で見ると、カスカイスでは食費が、パフォスではレンタカーが高くついた。全体的には、パレルモを含めてヨーロッパでは住居費が総経費の60%を超えている。バリでの生活費を算出していたアメリカ人某氏は、バリでは住居費に40%から50%を割かれると書いていた。私の東南アジアでの住居費も彼の数字を合致している。それがオルテジアでは70%台に上がった。さて、続くマルタとイラクリオンではどのような結果になるのか、興味あるところだ。 
​                                            (2024年1月24日脱稿)
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