トウ・ボン川沿いの道。ホイ・アン
定年後をどうやって暮らそうか、と思案している方々へ
避寒地 その5 ヴェトナム
ホー・チ・ミン・シテイー、ハノイ
ヴェトナム - 南から北へ
ヴェトナムの地名は、高校生の時からいくつか記憶している。サイゴン、ハノイに続いてデイエン・ビエン・フー、フエ等。もちろんヴェトナム戦争(ヴェトナムでは「アメリカ戦争」と呼ぶ)のおかげだ。ヴェトナムの地名が毎日のように新聞に載った。何処がどれだけ破壊されたか、という記事だ。アメリカ軍が最新の兵器を投入して、ヴェトナム解放戦線(the Việt Minh Front)の兵士をシラミ潰しに潰して行く戦争だった。しかし潰しても、潰しても、なお出て来てアメリカ軍に反戦した。彼らがゲリラ戦法で遂にアメリカ政府を諦めさせたのは1975年だった。1954年に始まって以来21年間続いた戦闘だったが、実はこれだけでは無い。戦闘は1887年にフランスの植民地支配に反旗を翻したのに始まるのだから、88年間に渡った戦闘だった。どれだけの意志と生命力があれば、このような戦闘が続けられたのか。行ってみなければ、なるまい。
住居 |
今回は、南と北を比較したい、という点がはっきりしている。そこでホー・チ・ミン・シテイー(サイゴン)とハノイに1週間づつ滞在し、二つの都市の中間は電車で繋ぐことにした。各々の滞在が短いのでホテル住まいにし、食事も外食で通すことにした。
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ホー・チ・ミン・シテイーのホテルは、玄関の間が書斎のようになっているのが気に入って予約した。街の中心地から車で10分位の所にある。着いてみると、「書斎」は写真で見た通りにギッシリ本が詰まっていた。そばに置いてあるソファに座って、好きなだけ読んでも良いようだ。テーブルには日替わりの果物が盛ってある。「お召し上がりください」というわけだ。心憎い。主人は韓国人だそうだ。最上階はレストランになっていた。見晴らしが良い。甍(いらか)の波の中にパゴダが聳えている。東アジアだ。ホッとする。昼食に選んだのは、これ又東南アジアらしい太めの春雨に新鮮な野菜が刻み入れてあって、ソースもアッサリとして喉に優しい。「甍の波」を眺めながら、ゆっくりと遅い昼食を楽しんだ。
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ボルネオのクチンとホー・チ・ミン・シテイーは、南シナ海を挟んで、向かい合う形になる。熱帯雨林のおかげで、クチンは高温多湿で川が多かった。ホー・チ・ミン・シテイーはどうか。高温多湿であるのは同じ。川については、メコン河が滔々として海に流れ込んでいる。雨の日は年間150日位と半分の日数。さらに大きな違いは、雨季と乾季が逆なことだ。クチンが乾季に入る5月辺りから、ホー・チ・ミン・シテイーでは雨季に入る。クチンでは雨季がその頂点に達する1月には641mm降る。ホー・チ・ミン・シテイーの方は、6月には312mm降る。クチンの最大雨量の半分以下ではあるが、それでも豪雨が降る時の満潮時には、サイゴン川(Sông Sài Gòn)やドンナイ川(Sông Đồng Nai)の水位はどの位になるのか。クチンと違ってホー・チ・ミン・シテイーは巨大都市だ。広さは東京とほぼ同じで、人口密度は東京の1km2当たり7,322に対して4,097人という規模だ。にもかかわらず、過去には街の4分の1が水に浸かったことがあるそうだ。ホー・チ・ミン・シテイーの地図を見て先ず目に入るのは、河口の外に巨大なマングローブの「森?」があることだ。その下は恐らく三角州を成しているのだろうが、将来は街そのものがマングローブに化してしまうのだろうか?ハノイはどうか。ハノイでは、一日の平均気温は23度でホー・チ・ミン・シテイーは27度。雨天の日数は同じ位だが、雨量はハノイの方が年間で266mmと心持ち少な目。いずれも豊富な水と温かい気候のおかげで三期作が可能な土地だ。作物によっては四毛作も可能だ。イギリスにあるオリエンタル食品店に行くと、ニラや万能ネギに加えて、珍しい青菜が数々ある。殆どヴェトナムから輸入したものだ。
https://en.wikipedia.org/wiki/Ho_Chi_Minh_City https://en.wikipedia.org/wiki/Hanoi https://worldpopulationreview.com/world-cities/ho-chi-minh-city-population |
地勢
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ヴェトナム北部、中国との国境にはユーナン高原(Yunnan-Guizhou Plateau)が聳えていて、インドシナ最高峰のファン・スィ・パン(Phan Xi Păng, 3,147m)がある。他方海辺には、石灰岩が作り出す奇岩の群れが、独特の景観を披露する。伝説がある。ヴェトナムは国境が高峰で囲われているので、侵入者は常に海からやって来た。繰り返し襲われるヴェトナムの人々を可哀想に思った*玉皇帝は、龍とその子供達を助太刀に送った。龍が地に舞い降りて海に火を吐き出すと、海底は岩に覆われて沢山の島を作った。すると侵入者は島々に視界を遮られた上、海底に潜む岩にぶつかって沈んでしまった。戦いの後、龍とその子供たちは無数の緑の島が緑色の海に浮かんでいる景観が気に入って、この湾に留まることにした。土地の人々は、龍とその子供たちに助けてもらった記念に、それぞれ湾を*「Hạ Long(龍の降臨)」その北東の地を「Bái Tử Long(仔龍に感謝を捧ぐ)」と名付けた。また彼らが尾を休めた地を「Vibạch long vĩ(白い龍の尾)」と呼ぶ。旅行者が「美しい」と称える土地だ。
ヴェトナムは二つの大河が海に流れ入る位置にあって、他国とは北も西も山に隔てられ、東と南は海に向かう自然が造った城塞だ。しかも全土が緑に染まる沃土だ。こんなに美しい緑の土地が、88年間に渡って戦火に明け暮れたというのだから、痛ましい限りだ。しかしシチリアもそうだった。沃土で、古代ローマ帝国の時代から穀倉地帯として人々を養っていながら、2,500年間アチコチの植民地だった。今も、北イタリアに比べて、いかにも貧しい。 *「玉(ぎょく)」は古代中国では翡翠を意味した。 *ヴェトナム語では、龍は「Long」ではなくて「Rồng」だと辞書には書いてある。いつか、誰かが間違えて「R」を「L」にしてしまったのだろうか。 https://en.wikipedia.org/wiki/Geography_of_Vietnam https://kids.nationalgeographic.com/geography/countries/article/vietnam https://en.wikipedia.org/wiki/Annamite_Range https://en.wikipedia.org/wiki/Rail_transport_in_Vietnam https://en.wikipedia.org/wiki/Imperial_City_of_Hu%E1%BA%BF |
歴史
ヴェトナムには、旧石器時代(3万8千年前〜1万6千年前)に人類が住み始めたというのだから、日本に人類が住み始めた頃に一致する。始めに北部のホン河流域に居住し、銅器時代及び青銅器時代(BC500)には、かなり精巧な道具や兵器を鋳造していたことが明らかになっている。中国からの侵入者に立ち向かった聖ザホン(Thành Gióng)という若き英雄は、その馬共々鉄の武具に身を固め、鉄の刀をかざしている。紀元前500年から100年の間の伝説だから、ローマ帝国が台頭した頃だ。しかし紀元前111年からは千年間、中国の勢力下に置かれた。10世紀に入ると、中国では偉大な唐の時代が終わって宋に移行する。その過渡期の内乱を好機に、再び自らの王朝を開いたのは939年。ただし文化的には儒教や仏教を仰ぎつつ、戦略的には次第に南下して幾つかの王朝を併合し、1830年代には現在のヴェトナムの形をとる。
しかし16世紀初頭からは、ヨーロッパ人が次々に東南アジアに現れる。まずポルトガル。そしてスペイン、オランダに続いてフランス、イギリス。彼らは香料や資源が目当てで東南アジアの地を植民化した。ヴェトナムも1887年にフランスの植民地にされ、独立を保ったのは僅かにタイ一国。何故タイは独立を保てたのか。東側のインドシナ(ヴェトナム、カンボデイア、ラオス)がフランスに、西側のビルマ(現ミヤンマー)はイギリスの植民地にされて、その間に挟まれたタイは、フランスとイギリスの鬩ぎ合いの中立地帯の役割をなした形だったからだそうだ。
20世紀に入ると、大東亜共栄圏建設と銘打って、日本が東南アジア諸国に進軍する。結果は、西欧の総引き上げを生み、又日本の敗戦によって全ての国が独立を得るが、ここに一つの危機感が生じた。共産主義に対する欧米の危惧だ。ラオスとカンボデイアが共産政権をとり、インドネシアとヴェトナムも、それぞれスカルノとホー・チ・ミンに率いられて共産主義を目指した。そこでアメリカが介入する。ヴェトナムを南北に分断して、南ヴェトナムをアメリカの翼下においたのだ。これに反発したヴェトナム人が、南北ヴェトナムの統一と独立を目指して21年間のヴェトナム・アメリカ戦争が始まった。結果は周知の通り、アメリカが撤退した。
https://en.wikipedia.org/wiki/Vietnam
https://en.wikipedia.org/wiki/European_colonisation_of_Southeast_Asia
https://www.metmuseum.org/toah/ht/11/sse.html
https://www.y-history.net/appendix/wh1602-013.html
しかし16世紀初頭からは、ヨーロッパ人が次々に東南アジアに現れる。まずポルトガル。そしてスペイン、オランダに続いてフランス、イギリス。彼らは香料や資源が目当てで東南アジアの地を植民化した。ヴェトナムも1887年にフランスの植民地にされ、独立を保ったのは僅かにタイ一国。何故タイは独立を保てたのか。東側のインドシナ(ヴェトナム、カンボデイア、ラオス)がフランスに、西側のビルマ(現ミヤンマー)はイギリスの植民地にされて、その間に挟まれたタイは、フランスとイギリスの鬩ぎ合いの中立地帯の役割をなした形だったからだそうだ。
20世紀に入ると、大東亜共栄圏建設と銘打って、日本が東南アジア諸国に進軍する。結果は、西欧の総引き上げを生み、又日本の敗戦によって全ての国が独立を得るが、ここに一つの危機感が生じた。共産主義に対する欧米の危惧だ。ラオスとカンボデイアが共産政権をとり、インドネシアとヴェトナムも、それぞれスカルノとホー・チ・ミンに率いられて共産主義を目指した。そこでアメリカが介入する。ヴェトナムを南北に分断して、南ヴェトナムをアメリカの翼下においたのだ。これに反発したヴェトナム人が、南北ヴェトナムの統一と独立を目指して21年間のヴェトナム・アメリカ戦争が始まった。結果は周知の通り、アメリカが撤退した。
https://en.wikipedia.org/wiki/Vietnam
https://en.wikipedia.org/wiki/European_colonisation_of_Southeast_Asia
https://www.metmuseum.org/toah/ht/11/sse.html
https://www.y-history.net/appendix/wh1602-013.html
現状 ホー・チ・ミン・シテイー(サイゴン)
予約したホテルの案内メールに、「以下の二つの会社以外のタクシーは使わないように」という注意書きがあった。フッカケられるのだそうだ。ネットを覗くと、「ヒッタクリが多い」とも出て来た。歩いているとオートバイが横合いを掠めて、バックなり何なりをヒッタクッて行くのだそうだ。「スリも多い」と出てきた。特に「携帯が狙われる」とあった。そこで先ずマーケットに行って布製の薄いポシェットを買って、使う額だけの現金と携帯を入れて首から掛け、その上にTシャツを着た。そして時計なり指輪なり、余計なものは一切身につけない事にした。35年前のナイロビもそうだったのだ。駐在していた友人の忠告、「見せびらかすためのような物は身につけるナ。貧しさに喘いでいる人たちを苛立たせるだけだから」。
ホー・チ・ミン・シテイーの表通り。
夕食時になった。ホテルは大通りを一本入った所にあって、レストランやらカフェやらが幾つか並んでいた。南国風に設えた一軒に入ってメニューを頼むと、ウエイトレスが頻りに話したがる風があった。でも誰もまともに英語が話せない。アメリカ人が去って45年が過ぎている。無理もない。ヴェトナムの義務教育制度は、5歳児の幼稚園から中学に相当する15歳迄の10年間と定められ、1998年に施行された。ヴェトナムが統一され、平和が訪れて、教育制度が整うまでに23年がかかり、さらに22年が経った。今日ヴェトナムの教育程度を国際基準に照らすと、科学が70ヶ国中8位で、数学が22位。シンガポールに次ぐ優秀さだそうだ。英語教育は、幼稚園時から英語に親しみ、2012年からは小学校の3年生から英語が必修になった。発達言語学に照らすと、6歳から9歳までが音細胞確立の臨界期で、構文については9歳から11歳だから、政府の方針は国際基準に沿っているようだ。
しかし英語については、問題は誰が教えているか、だ。英語が母語の教師でなければ、年少者への指導は難しい。言語学の世界では、発音上ヴェトナム語の修得が最も難しいとされている。これは英語圏の言語学者の発言だから、英語とヴェトナム語の関係が前提になっている。しかし一般に、中国語をはじめヴェトナム語も含む音調言語(tone language)の修得は、日本語やフランス語のような音節言語(syllable language)および英語のような強勢言語(stress language)を母語とする者には難しい。音調言語の音の違いは微妙なのだ。日本語では「ha-shi」を例にとると分かり易い。「ha-shi」は「橋」、「端」、「箸」の三つの言葉のどれなのかは、アクセントの有無および何処にアクセントが置かれているかで決まる。2音節しかない言葉の、微妙な音の違いを聞き分け且つ発音し分けるのは、慣れていなければ容易ではない。逆また然り。音をたくさん聞き分ける人の耳には、私たちの発する音は漠然としていて判断に迷う。同時に、四つの音調を聞き分ける彼らにすれば、四つ音調の内のどの音で言えば良いのか迷う、つまり不安定な音で話す事になる。
しかし英語については、問題は誰が教えているか、だ。英語が母語の教師でなければ、年少者への指導は難しい。言語学の世界では、発音上ヴェトナム語の修得が最も難しいとされている。これは英語圏の言語学者の発言だから、英語とヴェトナム語の関係が前提になっている。しかし一般に、中国語をはじめヴェトナム語も含む音調言語(tone language)の修得は、日本語やフランス語のような音節言語(syllable language)および英語のような強勢言語(stress language)を母語とする者には難しい。音調言語の音の違いは微妙なのだ。日本語では「ha-shi」を例にとると分かり易い。「ha-shi」は「橋」、「端」、「箸」の三つの言葉のどれなのかは、アクセントの有無および何処にアクセントが置かれているかで決まる。2音節しかない言葉の、微妙な音の違いを聞き分け且つ発音し分けるのは、慣れていなければ容易ではない。逆また然り。音をたくさん聞き分ける人の耳には、私たちの発する音は漠然としていて判断に迷う。同時に、四つの音調を聞き分ける彼らにすれば、四つ音調の内のどの音で言えば良いのか迷う、つまり不安定な音で話す事になる。
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イエメンに住んでいた時、ヴェトナム人の女性にあった。彼女は英語で話しているつもりなのだが、誰にも分からない。アメリカ人も、イギリス人も、オーストラリア人も、オランダ人も、そして日本人の私にも。彼女の英語が分かるのは、ジョーデイー訛りで話すニューカッスル出身の彼女の夫だけ。分かりにくいジョーデイー訛りと分からないヴェトナム訛りの英語で、彼ら二人は分かり合えているのだから愛情というのは偉大だ、と私たちは感心していたものだ。ヴェトナムの英語教育を報告した論文を垣間見たが、やはり状況は低迷している。それは、日本の英語教育をみれば容易に推察できる。
ホテルのレストランで働くウエイトレスは、大学生のアルバイトで英語が話せた。アルバイトをすることは、英語の練習にもなっていただろう。専攻は商科で、コーヒーの貿易が卒論のテーマだそうだ。 https://locobee.com/mag/2021/03/30/vietnam-education/ https://d1wqtxts1xzle7.cloudfront.net/45929479/a10-with-cover-page-v2.pdf?Expires=1642329975&Signature=KRwNVoNyvAKKlZiZo6M61e82IdX8jLteoy2sa1mxAv0KYd2eplMTY28Bf8E2roPByksi-4gG2wfGdZvC-USxwnXAhibjISE3ziCgPXJuRZrShXmdBV6uEWzXzJCIyjhuraqnG~1V-VhNB2zlXnurS3vnVstOKcE1Vz108tVjrJs093crGISTBWiRMgJSD022MPRwlcMSJgUPts1Oy4LK3iG89Vq5b8VsQfR~eEbm5keoj-QrnWqC4OHSMastzwClXpZbMQCDYI7D1uu953bTbA~D5nlQswRt2w7BAwXdAde0jIWxNkLemqoyjxLtGzttewVX0myWAB1AoMM7xaGhYw__&Key-Pair-Id=APKAJLOHF5GGSLRBV4ZA |
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ホテルの受付では、各種のツアーを受け付けていた。私は*トライショウで、ホー・チ・ミン・シテイーを3時間半かけて巡るツアーを申し込んだ。午前中の涼しい時間を選んだのだが、2時間で息が詰まってしまった。暑さにではない、排気ガスに参ったのだ。ヴェトナム最大の都市で1千万人近い人口を抱えながら、ホー・チ・ミン・シテイーには公共交通機関が無い。止まっているバスは一度見た。しかし動いているバスを見たことは無かった。観光客はタクシーで動くが、住民はオートバイで動き回る。男も女も、老いも若きも、一人一人がオートバイで一千万都市を走り回るのだから、唖然とする程のオートバイの群れが走り回っている。そして排気ガスを振り撒いて行く。それを彼ら自身が周知していて、自衛策にヘルメットは当然、サングラスとマスクも勿論、日除けの帽子に手袋、スカートを履いている若い女性は膝掛けで衣服の裾を補い、...。しかし政府に抗議してデモをするとか、路上で演説をブツとか、そういう事に彼らは時間を費やさない。あくまでも現実の今日を生きるために、自力・自衛で動き回る。その一人一人が自然に群れを成して動いている。どんなセンチメンタリズムも拒否している。ヴェトナム人のバイタリテイーだ。私はそういう群れに圧倒されて、しかし賛仰の思いで眺めた。ただ彼らを眺めるために通りに出て立った。こうやって生き抜いて行くのか...。
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もう一つ、彼らのバイタリテイーを見た側面は、食事だ。食事をする時は気持ちの良い場所で、できれば景色の良い窓辺で、清潔な食卓を前に ... 等というゴタクを彼らは言わない。市場で働く人は自分の店舗の売り物の狭間で、レストランで働く人は歩道に梱包用の木箱を出して、ドッカリ座って食べる。そして食べるものはサンドイッチを摘むとか、蕎麦を流し込むとかいったイイ加減な食事ではない。四角い盆に4品。主菜と、ご飯と味噌汁の類のスープ、そして常に一品は新鮮な青菜の一束が載っていた。バランスの取れた十分な食事だ。それをシッカリ食べる。人が見ているとか、通りがかりの人に邪魔ではないか、といった雑念は彼らの頭には浮かばないようだった。
ホー・チ・ミン・シテイーには歴史的な場所が幾つかある。しかしトライショーのオジさんは、その何れにも行かなかった。彼は近辺の街角の、店が並んでいる所をグルグルと回っただけだった。野菜、果物、魚、肉、金物、金魚等。自宅に戻って写真を並べながら、しかし私は野菜も金魚も見ていたのではない、街角に立つ人々を見ていたような気がした。そして人々の表情も。写真を撮る私を射るような目で見る表情もあった。
ホー・チ・ミン・シテイーには歴史的な場所が幾つかある。しかしトライショーのオジさんは、その何れにも行かなかった。彼は近辺の街角の、店が並んでいる所をグルグルと回っただけだった。野菜、果物、魚、肉、金物、金魚等。自宅に戻って写真を並べながら、しかし私は野菜も金魚も見ていたのではない、街角に立つ人々を見ていたような気がした。そして人々の表情も。写真を撮る私を射るような目で見る表情もあった。
*トライショウ:客の座席を自転車の後部に取り付けた乗り物。自転車の前輪と客の座席に取り付けた2輪とを合わせて3輪で走るので、この名で呼ばれる。ちなみにリクショウ(rickshaw)は日本の人力車と同じく、自転車無しで、人力で走る。
勢いタクシーに乗ることが多かった。運転手の一人が語った。「高いから市内には住めない。毎日10時間以上年中無休で働いても、暮らしが立つか立たないか。2歳の息子がいるけれど、起きている時に会うことなんか無い」。一度だけ、推薦の2社以外のタクシーに乗ったことがあった。案の定、3倍の値段をフッカケて来た。「毎日乗っているから、値段を知っている」と正しても受け付けない。私も引き下がらなかった。「こういう事をするから、指定以外のタクシー会社は使うなという忠告が出回るのだ」と言ってもダメ。しかし結局、私の方が折れた。彼がどんなに切羽詰まっているかが、彼の全身から伝わって来たからだ。
勢いタクシーに乗ることが多かった。運転手の一人が語った。「高いから市内には住めない。毎日10時間以上年中無休で働いても、暮らしが立つか立たないか。2歳の息子がいるけれど、起きている時に会うことなんか無い」。一度だけ、推薦の2社以外のタクシーに乗ったことがあった。案の定、3倍の値段をフッカケて来た。「毎日乗っているから、値段を知っている」と正しても受け付けない。私も引き下がらなかった。「こういう事をするから、指定以外のタクシー会社は使うなという忠告が出回るのだ」と言ってもダメ。しかし結局、私の方が折れた。彼がどんなに切羽詰まっているかが、彼の全身から伝わって来たからだ。
戦争証跡博物館正面
戦争証跡博物館(War Remnants Museum)を訪れた。3時間かけて展示を見て、出て来た時にはドッシリと重い荷を背負わされた様な気分で、文字通り足をズリながら出て来た。言葉には表しようの無い数々の場面が写真に映っていた。10年間に渡って、上空から枯葉剤(オレンジ・エージェント)が緑のヴェトナムに散布され続けた...。人ばかりか、木も、大地も、水も、異形と化した。生まれて来た子供も、異形だった。ヴェトナム人の子供ばかりか、アメリカ帰還兵の子供も、異形だった。写真を撮り続けた写真家(日本人)が居て幸いだった。この博物館が、世界で最も多く訪れられている一つである事実も幸いだ。
アメリカ政府とヴェトナム民衆の間には大きな「行き違い」が存在していたようだ。アメリカ人は共産主義を阻止するつもりで戦っていたが、ヴェトナム人は自国の統一と独立のために戦っていたのだ。たとえどんな理由があったにしろ、他国の人間が彼らの国を統治する自由を冒してはなるまい。博物館の訪問者歓迎のウエブ・サイトの言葉を借りると、
ヴェトナム人は圧倒的な勝利と、そして平和と人民の自由と主権と領土の保全の回復を1975年4月30日に見た。
April 30, 1975 saw the overwhelming victory of the Vietnamese people, and the restoration of peace and the
nation’s freedom, sovereignty and territorial integrity.
アメリカ政府とヴェトナム民衆の間には大きな「行き違い」が存在していたようだ。アメリカ人は共産主義を阻止するつもりで戦っていたが、ヴェトナム人は自国の統一と独立のために戦っていたのだ。たとえどんな理由があったにしろ、他国の人間が彼らの国を統治する自由を冒してはなるまい。博物館の訪問者歓迎のウエブ・サイトの言葉を借りると、
ヴェトナム人は圧倒的な勝利と、そして平和と人民の自由と主権と領土の保全の回復を1975年4月30日に見た。
April 30, 1975 saw the overwhelming victory of the Vietnamese people, and the restoration of peace and the
nation’s freedom, sovereignty and territorial integrity.
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サイゴン川(メコン河)の河口近くに林立する超高層ビルの群れは、10年ほど前に始まった外国融資の結果だろうが、私の目には資本主義の象徴の様に見えた。しかし中国にも同様の光景があるらしい。もしかしたら超高層ビルの群れは、イデオロギー闘争が過去のものになったことを意味しているのかもしれない。二つのイデオロギーが融和するなら、その方がいい。
https://www.wideee.com/landing-page/war-remnant https://www.google.com/search?q=population+of+ho+chi+minh+city&rlz=1C5CHFA_enGB882GB882&sxsrf=APq-WBuwtgpT8hZmk8wy_efbhefUfijWLQ%3A1643749403926&ei=G6D5YZ-FOJLB8gKsrJ34Bg&oq=population+ho+chi+minh+city&gs_lcp=Cgdnd3Mtd2l6EAEYADIGCAAQBxAeMgYIABAHEB4yBggAEAcQHjIICAAQBxAFEB4yBggAEAgQHjIGCAAQCBAeMgYIABAIEB4yBggAEAgQHjoHCCMQsAMQJzoHCC4QsAMQJzoHCAAQRxCwAzoHCAAQsAMQQzoKCAAQ5AIQsAMYADoSCC4QxwEQ0QMQyAMQsAMQQxgBOgwILhDIAxCwAxBDGAE6BwgjELACECc6BwguELEDEA06CgguEMcBEK8BEA06BAgAEA06CAgAEAgQBxAeOggIABAIEA0QHkoECEEYAEoECEYYAVDUFliQNmD-QmgCcAB4AIABY4gBqAaSAQIxMZgBAKABAcgBE8ABAdoBBggAEAEYCdoBBggBEAEYCA&sclient=gws-wiz |
最後に一つ。ホテルの近くに大きめの野外レストランがあった。何度か行った。何を食べたか覚えていない。ただ自分を巷の人々の中におきたかったから行ったのだという気がする。明日はサイゴン(*ホー・チ・ミン・シテイーではない)を去るという日も、夕食を食べに行った。私としては珍しく肉の一品を選んだ。するとボーイさんは「家の肉はみんな山羊だけど、いいの?」と聞いた。そこが山羊肉専門の店だったのを初めて知った。_私はイエメンで山羊を食べている。イエメンでは祝い事があると山羊を潰して家族、友人、近所の人々を招いて振る舞った。_どういう訳か、その夜はコック長が客席の真ん中に出て来てバーベキューを始めた。恰幅の良い、全身で笑みを運んでいるような人だった。陽気に歌いながら、手捌きも鮮やかに、取り囲む子供たちに焼けた肉を与えたり、自分も摘んだり、ボーイを呼んでは近くの客のテーブルに届けさせたり、大盤振る舞い。客は50人位も居たろうか、その誰もが、一つになったような一時だった。「この人たちは、一緒にいる事を楽しむ人たちなんだ...」。
*ホー・チ・ミンに感謝して古い都のサイゴンをホー・チ・ミン・シテイーと改名した事に誰も依存は無いらしいのに、根強くサイゴンという名が正式な場所でも今だに使われる。ホー・チ・ミンへの感謝とは別に、何世紀にも渡って存在してきた古い都のサイゴンという名に愛着があるのだろうか。
最後に一つ。ホテルの近くに大きめの野外レストランがあった。何度か行った。何を食べたか覚えていない。ただ自分を巷の人々の中におきたかったから行ったのだという気がする。明日はサイゴン(*ホー・チ・ミン・シテイーではない)を去るという日も、夕食を食べに行った。私としては珍しく肉の一品を選んだ。するとボーイさんは「家の肉はみんな山羊だけど、いいの?」と聞いた。そこが山羊肉専門の店だったのを初めて知った。_私はイエメンで山羊を食べている。イエメンでは祝い事があると山羊を潰して家族、友人、近所の人々を招いて振る舞った。_どういう訳か、その夜はコック長が客席の真ん中に出て来てバーベキューを始めた。恰幅の良い、全身で笑みを運んでいるような人だった。陽気に歌いながら、手捌きも鮮やかに、取り囲む子供たちに焼けた肉を与えたり、自分も摘んだり、ボーイを呼んでは近くの客のテーブルに届けさせたり、大盤振る舞い。客は50人位も居たろうか、その誰もが、一つになったような一時だった。「この人たちは、一緒にいる事を楽しむ人たちなんだ...」。
*ホー・チ・ミンに感謝して古い都のサイゴンをホー・チ・ミン・シテイーと改名した事に誰も依存は無いらしいのに、根強くサイゴンという名が正式な場所でも今だに使われる。ホー・チ・ミンへの感謝とは別に、何世紀にも渡って存在してきた古い都のサイゴンという名に愛着があるのだろうか。
現状 南から北へ
南から北へ走る電車に乗った。私の切符は早朝6時発。ホテルを通して買ったが、直接駅で買う方が安い。駅で買うのに手こずってはいけないと思ったからだが、そういう心配はいらない。そして6時キッカリに電車は動き始めた。イギリスの電車より正確、日本並み。もちろん切符はオンラインで買える。(私はオンラインを忘れていた!)寝台車は一つのコンパートメントに二段ベットが二つ備えてあって4人乗車できる。白いシーツが敷いてある。窓辺のテーブルにはランプと花(造花)と入れ物用の籠が置いてある。オーケー。不安事項はトイレ。ウエット・ワイプをドッサリ持参。これは座台(西洋式)が汚れている場合の清掃用。トイレも出発時はオーケー。しかし時間が経つにつれて、汚れ出した。座台に靴の跡がついていた。座台に立ってしゃがむのだろうか?
駅弁を買いたいのだが、何を買ったら良いのか分からない。マゴマゴしていると、イライラされる。仕方がないから食堂車へ行った。食堂車は一番後ろ。延々と歩いた。お陰で列車が5つの段階に分かれていることを我が目で確認する事になった。一番前はマットレス付きの寝台車。次はマットレス無しの寝台車。続いてリクライニングの座席、そして木のベンチ。最後にエアコン無しの木のベンチ。やっと辿り着いた食堂車は、まあオーケー。麺類の一椀を注文した。味はともかく、清潔度が案じられた。案の定、下痢。食事は車内弁当を予約しておくべき。日本の駅弁の楽しみは、世界に類を見ないのではあるまいか。
駅弁を買いたいのだが、何を買ったら良いのか分からない。マゴマゴしていると、イライラされる。仕方がないから食堂車へ行った。食堂車は一番後ろ。延々と歩いた。お陰で列車が5つの段階に分かれていることを我が目で確認する事になった。一番前はマットレス付きの寝台車。次はマットレス無しの寝台車。続いてリクライニングの座席、そして木のベンチ。最後にエアコン無しの木のベンチ。やっと辿り着いた食堂車は、まあオーケー。麺類の一椀を注文した。味はともかく、清潔度が案じられた。案の定、下痢。食事は車内弁当を予約しておくべき。日本の駅弁の楽しみは、世界に類を見ないのではあるまいか。
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食後のコーヒーを紙コップに入れてもらって、ゴタついた食堂車を出て、「エアコン無しの木のベンチ」に座った。窓外の景色に目を遣りながらコーヒーを啜っていると、視線を感じた。社内に目を向けると、若い娘さんが私を見ている。三つほど離れた席だ。目があった途端に、彼女はハッとしたような素振りをして、やおら私の席に来て座って、「わたしは、にほんごが はなせます」と言った。飾り気のない、少年のような姿のその人は、「わたしは、3ねんかん にほんで はたらいて いました」と続けた。工場のような所で働いていたらしい。日本語がスラスラと出てくる。「にほんが とても すきで、また いきたい。でも いまは コショウを そだてている...」。一生懸命日本語を学んだのだろう。明瞭な発音だった。構文もシッカリしていた。工場でも、きっと懸命に働いたのだろう。胸に熱いものが込み上げてくるような、直向きな人だった。私に何を望んでいるのだろう。私に何が出来るだろう。どんなに手助けしたかったかしれないが、別れの挨拶をして自席に戻った。日本はヴェトナムと協力・提携して開発援助をしているようだが、彼女にも再び機会が与えられるのだろうか。
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現状 ハノイ
駅前の広場に出ると、タクシーが沢山客待ちしていた。値段を聞くと、市中まで150,000ドング(¥756)だという。時間にして11分の道のり、ホー・チ・ミン・シテイーでは¥300位だった。「高い」と言うと、プイッと行ってしまった。他の運転手を捕まえた。彼も同じだった。途方に暮れていると、電車で2日間世話をしてくれたボーイさんが、仕事を終えて出て来た。彼に頼むと、100,000ドング(¥500)で交渉してくれて、それで手を打った。駅から市中に行くのは、おそらく一度だけ。ホテルに着けば、ホテルがタクシーを頼んでくれるからフッカケられる事はない。何も¥250が惜しくて拘るのではない。旅行者の足元を見てフッカケるのを止めないと、「注意書き」が何時までたっても付き纏う事になる。旅行のガイド・ブックにも書かれる事になる。彼らは自分の首を締めているのだ。マレーシアも、35年前はそうだった。しかし今は、飛行場のタクシー依頼カウンターで行き先を言って、値段を書いた紙片を受け取ってタクシー乗り場に行く、という仕組みになった。これではフッカケられない。観光事業の発展を奨励する政府が、タクシー業界に介入した結果だ。
ハノイ旧市街。
ホテルでも一悶着あった。通された部屋には窓が無かったのだ。私は贅沢は言わないが、窓のない部屋には暮らせない。変えてもらった。「追加料金、頂きますよ」と受付嬢。事情が分からなかったので、2晩しか予約していなかったのは幸いだった。移った部屋は、正面に面した大きな部屋で、もちろん大きな窓が二つもあった。ふーっと大きな溜息が出た。電車の中では34時間半空腹と下痢に悩み、駅ではタクシーの運転手にそっぽを向かれ、やっと着いたホテルの部屋には窓が無かったのだ。窓のある部屋で気持ちが落ち着いて、「さて、外を歩いてみよう」。
ホテルは旧市街にあった。ハノイの旧市街は博物館のようだった。傾きかけた伝統の建物あり、細々としたレストランや、カフェや、色々な店がギッシリ寄せ合って立っていた。数件先の可愛らしく飾った小さなレストランに入った。同じく可愛らしいウエイトレスが出て来て、美味しくて珍しいヴェトナムの食事を出してくれた。2日間続けて通った。蒸したての大きな肉まんや餡まんも立ち食いした。色々戸惑う事もあるが、東南アジアに来ると、何と言っても深い安心感が生まれる。食べ物のせいだろうか。
ホテルは旧市街にあった。ハノイの旧市街は博物館のようだった。傾きかけた伝統の建物あり、細々としたレストランや、カフェや、色々な店がギッシリ寄せ合って立っていた。数件先の可愛らしく飾った小さなレストランに入った。同じく可愛らしいウエイトレスが出て来て、美味しくて珍しいヴェトナムの食事を出してくれた。2日間続けて通った。蒸したての大きな肉まんや餡まんも立ち食いした。色々戸惑う事もあるが、東南アジアに来ると、何と言っても深い安心感が生まれる。食べ物のせいだろうか。
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ホテルを変えた。やはり旧市街にあってホアム・キエム湖(Hồ Hoàn Kiếm)の近く、歩いて行った。ホテルの前に着くと、何というか、気持ちが浮き立った。映画の中に入り込んだような気分になったのだ。小さなホテルは行き止まりにあって、隣はレストラン、向かいはカフェ。全体の雰囲気が非日常的に感じられた。何故か。ホテルは円柱の背後に大理石の床を敷いてシャンデリアが掛かっている欧風だったが、隣のレストランはもちろん異国情緒溢れる東南アジアの造りで、迎えのカフェにはフランス菓子が並んでいるが、建物は木造りで日本の大正時代の建物みたいだった。こうした混在した要素が、行き止まりの一画をまるで映画のセットのような雰囲気にしていたのだ。緩やかに弧を描いた階段を登ってホテルに入ると、そこではアオザイに身を包んだ案内嬢が優雅に迎え入れてくれた。そうか、ヴェトナムは19世紀後半から67年間フランスの植民地だったから、欧風と東南アジアが混在しているのだ。しかしチグハグではない。融合して且つ洗練された雰囲気だった。ホテルの持ち主は日本人のビジネスマンだそうだ。
ホテルの前にトライショーが留まっていた。30分間、旧市街や湖の周りを走ってもらった。日の沈む少し前、涼風を含んだ中を、湖の辺りを巡りながら思い巡らした_私は乗り物が好きだ。ボートはもちろん、汽車も好き。イエメンに駐在していた35年前の夏、ケニアを1ヶ月旅して回った。その時、ナイロビ・モンバッサ間の汽車が、実によくできているのに感心した。窓外の眺めもさることながら、私は汽車に感心した。子供達も、窓外なんかソッチ除けで車室の「探検」に余念がない。壁に付いた取手を引くと、もちろん上段のベットが出現。窓辺のテーブルを上げると、洗面台が蛇口付きで出てきた。まるで手品、といった具合。しかし何より心に残るのは、タイの北部チャン・ライ(Chiang Rai)に滞在していた時、チャン・サエン(Chiang Saen)から*ゴールデン・トライアングル迄、2台のトライショーを連ねて親子4人、メコン河に沿って走った40分間の旅が何にも増して懐かしい。トライショーは音も無く走る。その静かさとメコン河が繰り返し脳裏に蘇る。私が一番好きな乗り物は、メコン河沿いのトライショー。 *ラオス、カンボジア、タイの三国がメコン河沿いに会する一点。 |
フレンチ・レストランの入り口。
フレンチ・レストランに予約を入れた。モロッコで食べたチキン・グラタンが、暑さも疲れも吹き飛ばすほど美味しかった。タジーンも食べたが、私はグラタンの方が気に入った。ここでもフランス料理が美味しいに違いないと睨んだ。レストランは、落ち着いた上品な雰囲気に造ってあった。今時のフランスでは見られないような、古風なフランス風だった。私の席の近くに、小柄な4人の日本人男性が、見るからに慣れない手付きでナイフとフォークを握って、互いにその不慣れを照れるように笑い合っていた。堂々とした風采のフランス人(?)のウェイターが、こちらは物慣れた風に給仕をして回っていた、内心行儀の悪さを見下す思いを秘めながら(?)。私はフランスで美味しい料理を食べたことは数えるほどしか無い(生牡蠣は料理ではない、こじ開けただけ)が、ここは誠に美味しかった。しかし何を食べたかトント覚えていない。私も無礼なものだ。
物価 |
ホテル代は、平均して1日6,500円。三星ホテルの一部屋としては、安くはない。食事は全て外食で計¥27,500。食と住の経費を1日平均で出すと¥10,000を少し超える。交通費即ちタクシー代も、1日¥1,000近い。他方、ツアーは安かった。メコン河の支流を*サンパンで旅するツアーは昼食込みで¥4,000。やはりメコン河の、河口近くまでクルーズ船に乗って夜景を楽しむツアーは、夕食込み(酒類別)エンターテイメント付きで¥3,000。ハノイでは、急ぐのでなければタクシーの代わりにトライショーが使えたかもしれない。30分で¥500だった。衣服も安い。絹のジェケットが¥5,000。デザインも仕立ても良かった。更紗の生地を選んでセパレーツを仕立ててもらったが、これは¥7,000。フランス料理は3コースで¥4,000。
*中国やマレーで見られる舟底の平らな舟。名前は広東語の三板(サンパン)即ち三枚の板で出来ている事による。底に1枚、その上に2枚を立てて舟形にしてある。 ホテルの向かいのフレンチ・カフェでタートを、送り出してくれたホテルのボーイさんに一つ、トライショーのおじさんに一つ、そして自分に一つ買って、¥800相当を払った。ボーイさんは笑って、「ありがとう」と言った。トライショーのおじさんはタートを手に、キョトンとして、そして何か言いたげな表情をした。... 40年前、インドのカルカッタに滞在していたある日、街でケーキを買ってホテルに戻った。部屋では掃除夫の少年(14・5歳)が掃除に来ていたので、ケーキを一つあげた。少年はベッドに腰掛けて、ケーキを掌に載せて、もう一方の手でそれを撫ぜながら、「ケーキ、ケーキ」と呟いていた。数日後、近くの飯屋でダール&ライスの一皿を食べている彼を見た。ダール&ライスは1皿30パイサー。当時の日本円に換算すれば¥8。ケーキは一つ¥28。少年が掃除夫をして幾らの賃金を得ていたのかは知らないが、あの時は罪な事をしたとは思わなかった。でも今回は反省した。おじさんはタートなんか、どうでも良かったろう。大きな肉まんが1つ¥50だから、代わりに肉まんを5つ買ってあげたら、家に持って帰って家族と食べたかもしれない。あるいは、私が彼に払った金額は¥500だったから、それにタート分をチップとして上乗せすれば¥780になる。そうした方が良かったに違いない。トライショーのおじさんの表情は、そういう事を言っていたような気がする。 ホー・チ・ミン・シテイーで寿司屋に入った。十分食べて¥1,855。握り、巻物、と分業式で大量生産の構えだったが美味しかった。その分業風景が客席から全て見えた。彼らの手早さに驚いた。器用なものだ。客の中には日本人が何人もいた。 さて、例によって他国との比較だが、比較が意味あるものになるように、今回のヴェトナムの旅は20日間滞在したとすれば、という仮算を()に入れて載せた。 (下記の数字は全て¥) ヴェトナム クチン カスカイス パフォス パレルモ 住居費 (152,320) 181,830 260,568 262,912 214,650 食費 - 9,564 97,960 46,452 38,796 飛行機 (69,360) 71,949 24,490 23,700 41,658 交通費 (18,290) 21,794 17,380 66,044 12,084 外食 (54,880) 16,592 16,000 12,640 16,695 入場料 ( 449) - 11,000 948 4,770 遠出費用 (21,000) 50,218 - - 29,733 ___________________________________________________________________________________ 合計 (315,850) 351,947 427,398 412,696 358,386 |
文化 |
ヴェトナムは一千年の間、中国の影響下にあった。しかも中国の文化が最盛期を見た唐の時代をその後半に含んでいる。中国から独立して自らの王朝をたてた10世紀前半以後も、文化的には儒教及び仏教を引き続き文化の中枢に置いている。従って文字も漢字を踏襲している。それは、中国から仏教が伝来して、仏典に書かれていた漢字を日本人が借用したのに似ている。しかし日本語が中国語とは異なった言語であるように、ヴェトナム語も中国語と同じではない。日本語を表記するために日本人が漢字を単純化して仮名文字を生み出したように、ヴェトナム人も自らの言語を表現するために、漢字を捩ったような文字を加えていった。*ノム文字(chữ Nôm)である。 日本は鎌倉時代になると和漢混淆文を使うようになるが、ヴェトナムでは20世紀まで、正式な文字としての漢字(chữ Hán)は存続した。他方ノム文字の併用は、20世紀に入って*ヴェトナム語のアルファベットに、とって代わられる。1918年12月28日、900年間使われて来た伝統のノム文字は、公式の文字としての地位を失った。おかげで、1930年代には文盲率が80%から95%だったものが、23年後には30%に減っているから、妥当な判断だったのだろう。漢字に比べて、アルファベットは簡略だ。
*Chữ Nôm (𡨸喃, International Phonetic Alphabet: [cɨ̌ˀ nom] 17世紀にポルトガル人の伝道者が、便宜のためにラテン文字を基本にして作り出した表音文字。 |
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訪れれば良いと思える所が幾つかあった。ホイ・アン(Hội An)はその一つだ。海岸地帯の、真ん中から少し南下した所に位置している15世紀に造られた貿易の町だ。最盛期には南シナ海最大の貿易港で、輸出品の陶器が遠くエジプトにまで送られていたことが明らかになっている。日本人商人も多く出向き、16世紀には日本人町がトウ・ボン川(Sông Thu Bồn)の周囲にでき、「日本橋(Japanese Bridge)」を架けて便宜をはかる。1617年には徳川家康の腹心だった三浦按針ことウイリアム・アダムズ(William Adams)が、貿易の任を得て訪れている。しかし18世紀に入ると、外国貿易に反対する住民が反旗を翻したのを機に、貿易の中心は近隣のダ・ナン(Đà Nẵng)に移り、ホイ・アンは忘れられた町になる。その結果「忘れられた町」はその姿をよく保存することになって、現在は東南アジアの古い建築物の見本になって観光客を集めている。かつての国際貿易港の盛衰を、この町がどのように見せているか、興味あるところだ。
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フエ。紫禁城の門の一つ。
フエ(Huế)は古都だ。紫禁城があり、天子が住いした。ここには王宮の建物が現存し、住人も誇り高い。グエン(Nguyễn)王朝の天子ザーロン帝(Gia Long)が着手して息子のミン・マン帝(Minh Mạng在位1820−1841)の代で完成した『大南寔錄』と題した年代記が残っている。1558年に始まって1777年までの12代に渡る天子の記録に加えて、その配偶者、子弟、行政官、義人、さらには隠者、女性の殉教者、反逆者という多様な人々の伝記も収録されているらしく興味をそそられる。またフエは生活スタイルの発信地でもある。アオザイ(ao dai)はヴェトナムの伝統的な衣装として知られているが、これは18世紀のフエの王宮で装われた衣装が元になっていると書いてあった。なるほど農婦や漁師の衣装としては優雅であり過ぎて、実際性を欠く。フエの料理の中心的食材は野菜だそうだ。これは仏教の殺生を避けた教えによる。精神的支柱としては仏教、道教、儒教等が尊ばれたが、最も大切なのは天と地に捧げる供物で、王都から寺院まで、象に乗った天子が煌びやかな行列を組んで毎年供物を捧げに参拝したと伝えられる。
サ・パの眺め。
翻って、サ・パ(Sa Pa)の町は1,500mの高地にある。周囲の山々は棚田が頂上にまで作られていて、それが幾重にも重なって遠くに霞んでいく。これも、不思議だと言えば、不思議な風景だ。こんな風景を生み出すのに、一体どれだけの手間が掛かったのだろう。美しく作ろうとして出来た風景ではない。山ばかりの土地で、水田が作れない。その不可能を可能にした努力の賜物として、この風景は生み出された。人間の努力の無限を示しているような風景だ。
https://en.wikipedia.org/wiki/History_of_writing_in_Vietnam
https://en.wikipedia.org/wiki/Ch%E1%BB%AF_N%C3%B4m
https://en.wikipedia.org/wiki/H%E1%BB%99i_An
https://www.keisen.ac.jp/blog/heritage/2013/06/post-48.html
https://en.wikipedia.org/wiki/%C4%90%E1%BA%A1i_Nam_th%E1%BB%B1c_l%E1%BB%A5c
https://www.google.com/search?q=ninh+binh&rlz=1C5CHFA_enGB882GB882&sxsrf=APq-
振り返ると
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振り返ると、サイゴンではバイタリテイーが渦巻いていたという印象が残る。他方ハノイには落ち着いた雰囲気を感じた。電車の中から見た細長い海岸地帯は、南部の緩やかに広がる水田が北に向かうある一点から植物も風景も変わった。その間にあったホイ・アンもフエもニン・ビンも、今回は通り過ぎた。サ・パに足を伸ばすこともしなかった。おまけにハノイ滞在を3日に短縮して、ヴェトナムを去った。何故か。携帯電話をスラレたからだけではない。
早々に次の目的地の日本に向かいたかったが、台北に降りて娘の住まいに立ち寄った。「素通りするのか!」と娘になじられたのだ。時は3月の半ばに差し掛かろうとしていた。台湾では桜の季節だった。山間に宿をとって、娘を伴った。桜は満開だった。宿は家族経営で、食事も「お袋の味」だった。他の滞在客は週末で去っていたので、月曜日の朝は家族の朝食に私達母娘も相伴した。同じ鉢から惣菜を取りながら、半世紀以上も前に、やはりこうして家族で朝食の膳に付いた記憶がうっすらと甦った。この人たちは私達みたいだ、言葉は通じないけれど。 帰途のタクシーを降りてマンションの入り口に向かいながら、娘が如何にも呆れたという口調で言った。「ここの人達は誤魔化したりしないのヨ。何でそんなに警戒してるの」。そういう事だ。ヴェトナムでは警戒しなければならなかった。そういう事に疲れたのだ。 1年後、サ・パにも、ニン・ビンにも、フエにも、ホイ・アンにも訪れた娘の撮った写真を見ながら、再びヴェトナムを訪れたい気持ちが湧いている。娘は生後6ヶ月の息子を背負って、離乳食用に小型の電気釜も持って、インドシナ三国、タイ、マレーシア、ボルネオ、インドネシア、そしてニュージーランドはキャンピング・カーで経巡ったのだから、大したものだ。 (2022年1月31日脱稿) *私が撮った写真はホー・チ・ミン・シテイーの分以外は携帯電話の紛失とともに消えたので、掲載には娘の撮った写真で補った。 |
