色んな所で暮らしてみたい!
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 (Grand Port)

定年後をどうやって暮らそうか、と思案している方々へ

​​避寒地 その8  マルタ

​​「マルタなんて、つまらない所だヨ」と連れ。「あら、そう?」「うん、会議で行ったことがあるんだ。泊まってたのは修道院でね。小学校が付属していて、教育関係の会議だったんだ。ヴァレッタ(Valletta)にも行ったし、ムデイーナ(Mdina)にも行った。時間を見つけてラバット(Rabat)に行った時には、みんなと別れて、一人で南端のデインギー・クリフ(Dingli Cliff)迄ズンズン歩いたんだ」「えっ、歩いたって、随分な距離?」「うん、まあね」「どうして歩いたの?」「うーん、色々あった時期でね。共同経営者に裏切られて裁判沙汰にしてたりしてて...」。

住居

マルタ島といえば、先ず、海を前にしてキリスト教会のドームが前面に位置する写真が脳裏に浮かぶ。小さいながら一国を成し、カトリック教徒に縁が深い。地図を見ると、マルタ島の北西に、さらに小さいゴゾ島(Gozo)というのが、コミノ(Comino)という無人島を挟んで存在する。つまり、正確にはこの三つの島が一国を成しているというべきだ。住居に定めたマンションはサン・ジリアン(San Giljan)にある。マルタ島北部はギザギザの地形で、湾が沢山ある。その一番大きく複雑な潟状になっている湾に、首都のヴァレッタが築かれた。その西隣に、サン・ジリアンの湾がある。夜着いてマンションの中に入ると、正面に、湾を前にした夜の街があった。翌朝、再び同じ地点に立つと、街は光り輝く水の上に浮かんでいた。「つまらない所」と言っていた連れも、私が送った写真を見てイチコロ。早々にやって来た。

ところで、ちょっと注意を勧告したいのは地名の綴りだ。私は San Jilian's に住居を予約したつもりだった。ところが確認通知には San Giljan と書いてあった。「えっ、間違えた?」。慌てて検索してみると、写真は同じ場所を映し出して来た。調べてみると、San JIlian's は英語の綴りで、San Giljan はマルタ語の綴りだと分かった。同様の混乱が シラクーザ でもあった。オンラインで検索すると、Syracuse と出てくる。しかし時には Siracusa と出てくる。前者は英語の綴りで、後者はイタリア語の綴り。何でイタリアの地名を英語の綴りで書いて、英語の発音で読まなければならないのか?もちろん誰だって外国語の地名を原語で発音するのは時には簡単ではない。でも日本人は原語で読むように努力してきた。(但し、イングランドを「イギリス」と呼び間違えて今日に至る。「イギリス」という国は日本人の頭の中にしか存在しないのである。)綴りを勝手に変えたりもしない。が、イギリス人は自分達の言い易いように呼ぶし、自分達の納得するような綴りに変える。オンラインは90パーセントが英語で流れているから、英語の綴りがマカリ通る。地団駄踏んでも、マカリ通る。

逸話がある。40数年前、友人達がやって来ておしゃべりをしていた。すると誰かが「ヴィエナ」と言った。私が「それ何処?」と尋ねると、全座が一瞬沈黙した。そして夫が「ドン・ユウ・ノー、ザ・キャピタル・シテイー・オブ・オーストリア?」「もちろん知ってるわよ。ウィーンよ」。同様に、ピタゴラスは「パイサゴラス」で、キケロは「シセロ」。
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マンションのベランダから見える夜景
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マンションのベランダからの眺め
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シチリア南東とマルタ島

目的地へ

シラクーザからマルタへ行くには二つの方法がある。通常はシラクーザからカターニアに電車で行って、カターニアからヴァレッタへは飛行機で飛ぶ。電車は1時間、飛行機は季節によって大幅に違うけれど、直行なら40分で飛べる。例えばシラクーザを朝8時44分に発ってカターニアに10時過ぎに着き、11時半のフライトで飛んでヴァレッタには正午過ぎに着く。電車の値段は10ユーロ前後で一定しているが、飛行機の値段は季節と飛行機会社によって様々。エアー・マルタが時間的にも無難で、€100を目処にすれば、まあ大丈夫か。夏場ならフライトは色々あるが、冬場は限りがある事を計算に入れるべき。もう一つの方法は、シラクーザから電車で更に南下してポザッロ(Pozzallo)に行けば、フェリーでヴァレッタに行ける。フェリーの値段は60ユーロで、通常1時間45分の航行。私は後者をとった。未知の経路を行く方が面白いし、何と言っても距離的に無駄が無い。但し、夏場なら午後4時半から8時半迄に4便出るが、冬場なら午後6時と6時半の2便しか出ない。
 
​予期せぬことがあった。ポザッロのフェリー・ポートにはネットが無かったのだ。私はオンラインで切符を買って€20の上乗せを払っていたのだが、携帯のデジタル・チケットしかない。それでもフェリー・ポートの窓口に行けばチケットを印刷してくれるのだが、私の場合はしてもらえなかった。デジタル・チケットに書いてあったパスポート番号に、何故か数字が2つ余計に付いていてパスポートの確認が取れなかったからだ。そんな事ってアリ?と言いたいところだが、チケットが届いた時に確認しなかった私もイケナイ。窓口で改めて切符を買うしか方法は無かった。(もっとも予約した会社からは後で全額払い戻されて来た。確認というのは、やっぱりした方が良いらしい。)
 
もう一つ予期せぬ事があった。飛行場と違って、港には明瞭な到着ゲートというのが無かった。少なくともヴァレッタには。街灯も一つあっただけで、暗闇と言ってもいいような、しかも不明瞭な場所で、どこに行けば出迎えのタクシーに会えるのか?そもそもタクシー乗り場が無いのだ。下船した他の人達もタクシーが見つけられなくてウロウロしている。私はマンションの斡旋をしているエージェントのタクシーを予約してあったのだが、何処に行けば運転手を見つけられるのか。すると携帯が鳴った。「僕、運転手だけど、あんた何処にいるの?」。「何処って、下船した場所から他の乗船者と一緒に歩いて来て、フェリー会社の建物の外にいるんだと思うけど」「それじゃあ、僕の目の前を通り過ぎて行っちゃったんだ」。「あなた名札でも持ってるわけ?」「そんなもの持ってないけど」「じゃあ、どうやってあなたを見つけられるの?」「えい、何でもいい。今僕そっちに行くから、動かないで」。

運転手は背の高い、気の良さそうな、よく喋る人だった。運転手仲間のお客が運転手を見つけられなくて途方に暮れていたのを、「実は車がエンコして一寸遅れるけど必ず来るから...」等と説明してお客を宥めていて、やっと自分の車に戻って来た。アラブ人かな?と、容貌から推察したが、マルタ人だそうだ。と言われても、マルタ人がどういう風貌なのかは私には判然としない。過去マルタ人は二人しか知らない。一人は同僚の奥さんで、南欧の顔立ちだった。もう一人はオペラ歌手のヨーセス・カレイア(Joseph Calleja)。彼もヨーロッパ人に見える。が、この二人から「ああ、マルタ人ね」等と納得できるマルタ人の容貌というのは、私の頭には浮かんで来ない。

 
運転手君は、しかし、マルタ人を理解する上で重要な一事を教えてくれた。「マルタでは5つの言葉(言語)が話されてるんですよ。マルタ語、英語、イタリア語、フランス語、アラビア語。初めの4つは学校の教科に入ってるけど、アラビア語は外されちゃった。理由は分んない。人口の40%はアラビア語を話しているのに」。マルタ語は、私には未知だ。英語が話されているのは、最後の宗主国がイギリスだったせいだろう。運転も、イギリス同様(日本も)左側。イタリア語が話されているのは距離的に近いせいだろう。フランス語もフランスに統治された過去の名残だろう。しかし人口の半数に近い人々が話しているアラビア語は学校教科からは外された...。何故だろう?

歴史そして言語

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過去数千年の間にマルタを訪れて去った人々。
過去様々な人種がマルタを通り過ぎた。中近東からフェニキア人(BC 870~)がやって来て、そして去った。次に北アフリカから、カルタゴ人(BC 600)がやって来た。これにローマ人(BC 255~)が取って代わった。十字軍遠征の後、ナイト(1530-1798)にマルタ島が与えられて彼らが拠点を構えた。その数世紀後、ナポレオン(1798-1800)の上陸にあって、ナイトは去った。ナポレオンも去った。19世紀に入って、軍事的拠点としてイギリス(1800-1945)が注目し、駐屯した。第二次大戦中のマルタは、最前線に立たされて、多大な犠牲を払わされた。そして大戦後は、独立の道を選んだ。イタリア語、フランス語、そして英語の存在は、マルタ島の歴史を写している。

https://en.wikipedia.org/wiki/Knights_Hospitaller
https://www.choiceholidays.eu/blog/history/malta.aspx
 
ところでマルタ語というのは、一体どのように発祥し、継承されて来た言語なのか。マルタ語で話している人達が発する音に耳を傾けてみると、アラビア語の響きに似ている。ただ、話し方が穏やかだ。イエメンで暮らし始めて、人々の話し方が喧嘩をしているのかと思った程、熱情的なので驚いた。しかも手を振り回しながら話すので、近くにいると、ヒッパタかれそうだった。先ずはブリタニカを引いてみた。「マルタ語はアラビア語の方言で、アルジェリアやチュニジア(かつてのカルタゴ)で語られるアラビア語に近い。又、シチリアの言語にも強い影響を受けて、マルタ語はアルファベットで記述される唯一のアラビア語である」そうだ。
 
Maltese developed from a dialect of Arabic and is closely related to the western Arabic dialects Algeria and Tunisia. Strongly influenced by the Sicilian language (spoken in Sicily), Maltese is the only form of Arabic to be written in the Latin alphabet.
                                             (ブリタニカ百科事典)

 
ウィキペデイアでは、マルタ語の構成要素に言及している。即ち、「マルタ語の3分の1の語彙はアラビア語で、しかもそれらは基本的な考えを示す語や、日本語で言えば助詞や助動詞といった機能を示す単語である」。これは言語のあり方からしてみれば、基本的にはアラビア語だという事だ。そして「語彙の半数はイタリア語あるいはシチリア方言」と記述は続いているので、アラビア語にイタリアの語彙が流入していった経緯が想像される。
 
要約すると、マルタ語とアラビア語の両方を教科に入れると重複するという事か。言語が習得されていく経緯を考えると、似通った言語を同時に習得しようとすると混乱が起きるという点を重視したのか。又は政治的意向が、言い換えれば、マルタ人はマルタ語を話すという国家的アイデンテイテイーの一要素と位置付けたからか。だから明らかに外国語と認められる言語は教科に入れても、「自国語」あるいは「母国語」を確立するためには類似する言語はあえて避けた上の決定か、まあ、色々と事情があるのだろう。
 
https://en.wikipedia.org/wiki/Late_Middle_Ages

インテリア

​マンションはサン・ジリアンの一等地にあった。良いのは場所だけではない。マンションの室内にも感心した。家具から置き物に至るまで、一貫してモダーンで先進的。壁二面に15枚の絵が、大きいのは80号位から小さいのは0号以下のもの迄、空間を生かして掛けてある。その合間に棚やらコンポジションの様なもの迄収めて。その変化ある配置やバランスの取り方からして、マンションの持ち主は、あるいは美術の心得があるのではないか、と思えた。そして先進的、いや先取的といってもいいのかもしれない。ゆったりとしたソファが置いてあるのだが、そのソファのカバーは縫い付けてあるのではなく、取り外しが出来て洗濯機で丸洗い可能。キッチンの戸棚や引き出しからは、ありとあらゆる便利な道具が出て来た。料理に関心のある人かな?包丁も、立派なものがパン・ナイフはもちろん、出刃包丁や菜っ切り包丁迄ズラリと並んでいる。エプロンには「Don’t make mess with chef(シェフに御託を言うな)」と書いてあった。
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居間。窓際部分のソファでは”足を伸ばして”テレビが見られる。連れは終日”足を伸ばして”コンピューターを膝に置いてハタライテいた。
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食卓のコーナー。テーブルは物理的な条件が揃って台に載っている。ネジで固定されているのではない。(なんとなく不安。)
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至って座り心地が良い。
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これ、マガジーン・ラック。
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不思議な形の一切れの木。自然は芸術家?
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霧吹き、石ころ、ランプ。
私が気に入ったのはグラスだった。シェリー・グラスからブランデー・グラス迄がクリスタルで揃っていて、といった塩梅(あんばい)ではない。折節、形や色が気に入って買ったのだろうグラスが並んでいた。落ち着いた色違いのグラスには朝食のヨーグルトを、アペリテイフのタンブラーにはたっぷり氷が入れられる大き目のを、そして夜のブランデーには、底が二重になった丸味のあるグラスが、琥珀色の液を宙に浮かせたように見せて私の目を楽しませてくれた。このマンションの持ち主は、恐らく独身の男性だろう。何しろ室内の何処にも女の気配が無い。女は来るかも知れないが、そして2・3日泊まるかも知れないが、同居人ではない。寝室には、3冊の分厚い写真集が置いてあった。1冊はオートバイについて。が、他の2冊は室内装飾と家具について。ふむ、もしかして、主人は家具のデザイナー? ​
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朝食の食器
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昼食の食器

メインテナンス

​それにしてもダ、マンションの手入れは、とうてい行き届いているとは言えなかった。先ず、例のソファは埃臭くて座っていられない。昼寝をしようにも、匂いが鼻について目が冴え冴えとしてしまう、プロの掃除婦が掃除しているはずなのに。バルコニーとの境に掛かっているカーテンは何時洗ったのだろう、鼠色だ。しかも裾がギザギザに破れている。どうすれば、こんな風に破れるのだろう?キッチンの換気扇が動かない。結果、コンロの真上に位置する戸棚のドアがメロメロに溶けて、見るからに哀れ。シャワーの床は簀張りになっていたが、木が黒ずんでいた。換気が十分ではないのだろう。立派な肉切り包丁の先も、ボッキリ欠けていた。包丁の使い方を知らない人が、何かをこじ開けるのにでも使ったのだろう。当然エージェントに報告した。
 
翌日、掃除婦/夫が3人でやって来た。男一人に女二人。いずれも30代。女二人はよく働いた。男一人はよく喋った。全員チリ人だそうだ。チリの暮らしもまあまあだったが、マルタでなら親子が一緒に暮らせる。(ということは、チリでは一緒に暮らせなかったのか?)見ていると「四角い部屋を丸く掃く」類の掃除振りで、床も「濡らす」だけで、「拭く」わけではないようだ。お陰で掃除の仕方を説明する羽目になった。彼ら、プロ?それでも全員気の良い人達だった。ところで結果は?彼らが帰った後で、私はソファのカバーを引っ剥がして洗濯機に放り込んだ。1ヶ月を埃の匂いに付き纏われて暮らすのは嫌だったからだ。お陰でカバーの作り方がどんなに手の込んだものだったかが良く分かった。(言い換えれば、フォームをカバーに収めるのはパズル並みで、頭の体操になった。)
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惨めに傷んだカーテン。コレ、日射により焼けた結果。
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ソファのカバーを剥いで洗濯。
写真黙々として繕う便利屋さん。
​更にその翌日、便利屋がやって来た。彼は自分がするべき事を私に確認して、黙々として仕事に取り掛かった。マケドニア人だそうだ。バルコニーの網戸が破れているのも、キッチンの戸棚のドアも、丁寧にシリコンで塞げていった。言うなれば、水漏れのしない糊でくっつけていったわけだ。まあ、応急処置といったところだろう。持ち主が帰って来たら、換気扇を含めてキッチンのユニット全てを取り替え、網戸は張り替え、シャワーの床も取り替える事だろう。そうした修理に幾らかかるか?イギリスとは事情が違うだろうから分からないが、エージェントへの支払いも加えれば、マンションの賃貸で得た料金は殆ど残るまい。破れたカーテン、溶けて変形した戸棚のドア、先が欠けた包丁... 。こう言っては手前勝手に聞こえるが、私なら貸しに出さない。好きで買い揃えたものを蹂躙された様な気になるからだ。こう考えてみれば、初めから貸家にするつもりで家具調度もイケヤで取り揃えたものなら、痛んでも気が楽だ。直ぐに同じもので買い替えられる。

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メロメロに剥げ落ちたドアの裾を、テープで止めてあった。

外国語で働くということ

​​連れが来ると言って来た。何と到着時間は夜中の12時過ぎ。シーズンオフには、マルタの様な島には夜中か早朝にしか便が出ないのだ。オルテジアも同様だった。時間が時間なだけに、エージェントに迎えのタクシーを頼んだ。しかし1時になっても連れはやって来ない。小さい飛行場だから、税関で時間を取ることはない。すると電話が鳴った。「タクシーが迎えに来ていない」と。エージェントに電話を入れると、夜中の1時半だというのに応答があった。若い女性の声で、タクシーの手配を一日間違えたのだそうだ。0時4分着。4分過ぎていても、日付は13日ではなく14日。微妙な時間帯ではあるが、エージェントが日付を間違えるだろうか?相手の女性は外国人らしい。話し方からして、英語に慣れていないようだ。外国に来て、慣れない英語で仕事をしなければならなくて、一生懸命やっているのに苦情が飛び込む... 途方に暮れている姿が想像された。観光客として遊びに来ているのなら多少の英語で事は済む。しかし仕事で必要なら「多少」では役に立たない。英語の訛りから推して、ロシア語が母語の人?ウクライナからの避難者?
 
小さいスーパーがあちこちにある。大概インド人が経営している。寿司屋が何件もある。中国人が開いている店だ。構の大きい店あり、チェーン店あり、様々。寿司とタイ料理と中華料理の3カ国の料理を出している店が近くにあった。経営者は中国人だが、店先で寿司を握っていたのは東南アジア人。彼らの「スシ」は日本人の私には異国的な代物だったけれど、海老と野菜の炒め物が素晴らしく美味しかった。プリプリの海老が新鮮で、瑞々しい野菜がたっぷり入っていた。焼き飯と合わせて€16。中華料理は世界に名だたる地位を得て久しい。しかし昨今は、日本の寿司が根強い人気を得ている。さっぱりとした味、見た目の美しさが好まれるのだろう。これに最近ではタイ料理が加わる。中華料理と似ているが、脂っこさが無い。カレーはインド料理の定番だが、こちらもタイ風にさっぱりとしている上に、ココナッツミルクを使うのも一風変わっている。というわけで、3カ国の良いところを集めて商売繁盛。
写真聖ジリアンの湾。
多国籍の料理を出している店は、マルタでは少なくなかった。着いた翌日、一番見晴らしの良いレストランで美味しい料理を食べようと、近所のレストランを物色した。格好の場所に店を構えているのは何処か。願ったり叶ったりのがあった。私のマンションと同じ並びで、広いテラスを張り出した天井の高いイタリア風の建物だ。名前もラファエロ。迎え入れてくれたご主人に「イタリア料理ですね」と確認すると、応えは「いえ、色々です」。メニューを見ると、成程ピザあり、グラタンあり、イングリッシュ・ブレックファーストあり。念の為確認するなら、ヨーロッパで美味しいとされているのはフランス料理とイタリア料理だ。しかしマルタを訪れる観光客の多くはイギリス人。だからピザとグラタンとイングリッシュ・ブレックファーストがある、という事であるらしい。こちらも国境を超えて、人気ある料理を集めてメニューを作ったという事だろう。
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魚市は何処だ?

何処に住まいを求めても、私は出汁の素だけは持参する。マルタ近海には本マグロが生息するから、凄い刺身を逃してはなるまいぞ、とばかり、今回は醤油もイタリアで買って行った。イタリアには、醤油は何処にでもあった。マルタは小さい島だから醤油なんか無いかもしれないと思ったからだが、ドッコイこれはオオマチガイ。Googleすると、徒歩15分の所に大手のスーパーがあると出た。行ってみると、何と巨大。その向かいには、これ又「負けじ」とばかりに大きな東アジアの食材を並べたスーパーも。もちろん日本の食材も全部あった。出汁の素も。ロンドンより便利。この小さな島で、5ヶ国語が交わされ、ありとあらゆる人種が生活しているからこその利点だ。
​さて、本鮪。魚市は何処だ?「マルサシャロック(Marsaxlokk)が一番」とエージェントが教えてくれた。南東にある漁村だ。車でなら小1時間、バスでなら待ち時間も含めて2時間弱。マルタのバスは島中何処にでも行く。本数も多くて、接続も良い。そして安い。値段は1回乗る毎に€2。サン・ジリアンからマルサシャロック迄は1度乗り継ぎして往復計€8。バスカードを買えば€15で12回乗れる。魚市は朝7時位から準備が始まって、商売は午前中で終わる。是非1泊するように勧めていた人がオンラインに居たので、迷わずホテルを予約。「魚市迄の距離は30mです」と、ホテルから案内があった。その朝3時半にやっとサン・ジリアンのマンションに着いたヨレヨレの連れを引っ張って、マルサシャロックに着いたのは午後2時に近かった。
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どの舟にも、船頭には目が描いてあった。
​海辺にはレストランが居並んで、土曜日のことではあり、何処も満席。湾の西側にはタンカーが停泊している。かなり大掛かりな貿易をしているのか?鄙びた漁村を想像していたのだが...。レストランの昼食も大掛かりだった。大皿にのせた魚介類の盛り合わせが行き交う。食べる前に、先ず写真を撮っているカップルがいた。「こんな凄いご馳走を食べたんダ!」と思い出にするためか、「凄いだろう」と見せびらかすためか?隣の席には家長らしい中年の男性を中心に妻や子供達や母親が座っている。大皿に載せた尾頭付きの魚が二皿運ばれて来て、用意された配膳台の上で、ウエイターが捌いていく。先ず魚の中央にナイフを入れ、三枚に下ろして、白い身だけを取り出して次々に銘々皿にのせていく。鮮やかな手捌だ。レストランの見せ処。そして当然飛び切り高い。何故?日本人は尾頭付きでも上手に食べてしまうが、欧米人は尾頭付きが出て来ると、どうやって食べて良いのか分からないらしい。そこでウエイターが訓練されて、「手捌き料」も代金に入っているからではないか?と私は睨んでいる。私なら自分で魚を選んで、自分で焼いて、自分で捌く。だって最も簡単な食べ方だし、代金も10分の1で済む。
 
私達は唐揚げの盛り合わせを注文した。イカにエビに魚。それにレモンを搾りかけて。しかし下味は付いていなかった。海から上がって来た物を、ただゴロンゴロンと揚げただけ。料理ではない。それで€100以上の勘定書きだった。しかし、イイ。これがマルサシャロックに来た本命ではないのだから。本命は、魚市!
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マルサシャロックの港の朝が明けていく。
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漁船だろうに、漁に行った気配はない。
​翌朝、魚市の準備に間にあうために5時半に起きて身支度をして出かけた。ホテルではまだ誰も起きていない。静まり返った暗い道に、私達二人の足音が響く。30mを歩き切ると、暗闇の中にトラックが何台も止まっていて、沢山の人が無言で動き回っていた。夜明け前の厳粛な空気が漂っている。叩き台は既に用意され、海の幸がドンドン並べられていく。しかし、待てヨ、冷凍物もある。漁師が海から引き上げて来たものが並べられている訳でもない。漁船の行き来など、全然無い。トラックで何処かから運ばれて来たものが売り捌かれるらしい。が、私の懸念など吹き飛ばすようなものが並んでいった。
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イカを見栄えよく並べるのに余念がない。
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スゴイ獲物。本鮪の大トロ。
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カジキマグロばかりか、鮭まで並んでいた。
​黒鯛、差し渡し25cmといったところ。2尾で€10(¥1568)。1尾は刺身に、1尾は塩焼き用。ギョ、何だアレ?見た事もない物がある。25cm位の長さの棒状に切って山盛りにしてあるのは、本鮪の大トロに違いない。5本買おうと思ったが、大きな塊だ、食べ切れなくても困る。思い直して3本頼むと、売り手の兄(あに)さんはオズオズと、まるで吹っ掛けていると思われるのを恐れているように、「8ユーロ」と言った。私は€80でも迷わず買っただろう。衛生上、刺身にはできないが、生姜をたっぷり入れて甘辛に煮た角煮なら良いだろう。
 
30cm位の鱸があった。親父さんが大切気に2尾の鱸を手元に置いている。今日の商売の目玉商品なのだろう。1尾€23。「買い!」鱸と黒鯛の刺身に、さてもう一品あった方が良い。甘エビがあった。連れの好物だ。山盛りになっている。ざっと両手で掬ってもらって€4。マンションに戻って1尾1尾殻を剥くのに2時間かかった。ロンドンの日本食品店で買えば4舟分に相当する量だ。イギリスでなら£36(¥6,511)也といったところ。この買い物が、その後の私達二人の3週間の食生活を類のない高みに引き上げてくれたのは、言うまでもない。
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左手から、本鮪の大トロ、黒鯛、甘海老、そして鱸。
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刺身プラターに変身した。
​何が一番美味しかったかって?もちろん鮪。日本では到底手に入らない代物。角煮にした最後の残りを梅干しのお握りに添えて飛行機の中でのお弁当にした。包みを開けると、鮪の匂いが香り高く辺りに漂った。慌てて蓋をしたかって?とんでもない!横でカップラーメンを啜っている人と一緒に各々の昼食を満喫した次第です。もっとも格式の高さでいえば、千利休の茶席に出された鮪の一品と、駅の蕎麦屋で啜る掛け蕎麦との違い位はあったかもしれない。

物価


(下記の数字は全て¥)
                 マルタ   オルテジア     バリ           ヴェトナム        クチン        カスカイス         パフォス       パレルモ
  住居費         307,971     316,680      126,712      (152,320)           181,830             260,568            262,912          214,650
  食費      52,728       74,266            ( 32,875)             -                         9,564                97,960              46,452            38,796
  飛行機           17,628    19,090      50,836           (69,360)             71,949             24,490              23,700.           41,658
  交通費       5,616      3,834      18,886           (18,290)             21,794                17,380               66,044            12,084
  外食               18,408    14,484   ( 20,541)          (54,880)             16,592                16,000               12,640            16,695
  入場料              17,238      6,816     1,164            (     449)           -                   11,000                    948              4,770
  遠出費用       8,892     -            59,462         (21,000)            50,218                      -                        -                  29,733

  ________________________________________________________
  合計             428,481     435,170   310,476          (315,850)          351,947           427,398            412,696          358,386      

換金レート :  €1=¥156(2023.1月現在)https://www.poundsterlinglive.com/history/EUR-JPY-2023

こうして並べてみると、先ずクチンでの食費がカスカイスのそれに比べて、文字通り一桁違う。クチンでは出来合いの惣菜や近所のレストランが安くて買い食いをしていた。カスカイスでは豊富な大西洋の海の幸を買い込んで料理していた。それにしてもカスカイスの食費は、一日3千円を超える。しかも7年前の値段だ。最近引っ越して来た隣人はポルトガル人だったので聞いてみると、「カスカイスはリスボン在住の金持ちが避暑に行く所。だから良いものがあるけれど、物価はポルトガルで一番高いんじゃないかしら」。

交通費を見ると、パフォスがダントツ。公共交通機関が整っていないから、レンタカーを借りてボラれた結果だ。イマイマしい。しかしこれは「ボンクラしていると、足を救われるゾ!」という警告かもしれない。勉強代だとしておこう。カスカイスではシントラに行ったり、リスボンに何度も行ったりしてこういう値段になった。まあ、相応な値段もしくは安かったというべきだ。が、クチンとバリでは、それを上回る金額になった。公共交通機関が無きに等しくて、じゃあ土地の人に混じって運転するか?というのにはタジタジとして、タクシーで動かざるを得なかったからだ。もちろんタクシーも安い。しかし「チリも積もれば山となる」。

ヴェトナムも物価は安かったが、レストランに座る事が多かった。ホテル住まいだったからだ。その結果、食費はマルタ並みになった。レストランの値段はマルタの比ではないが、まあ、外食は高上がりだという事だろう。

入場料。パフォスの入場料が安かった事は書いた。それにしてもマルタの入場料に比べると、桁が二つも違う。マルタの入場料は列挙すれば以下の通り。

国立戦争博物館 €20(1日がかりの見学で、ヨレヨレになる。)
マルタの騎士館 €6.5
封切映画 €5.5
聖ヨハネ凖司教座聖堂(ヴァレッタ) €15
聖ポール大聖堂(ムデイーナ)€10

どれも妥当な値段だ。つまり、パフォスが安いという事だ。それは分かっていた。しかし数字にして並べると、改めて驚く。「レダと白鳥」のモザイクも例外なく安かったのだ。

二都物語

​​といっても、私がここで指すのは、パリとロンドンならぬ、ヴァレッタとムデイーナ(Mdina)。イスラム教徒の攻勢に対して結成された十字軍(The Order of Knights of the Hospital of Saint John of Jerusalem)の本拠は、その初めイエルサレムに置かれたが(12世紀)、その後キプロス、ロードス、マルタ、そしてペテルブルグへと転々とする。ロードスの代わりにマルタが本拠地とされた時、十字軍の騎士達は首都のムデイーナを排してヴァレッタに新たな首都を築いた。1500年代の事だ。内陸部に位置するムデイーナと違って、ヴァレッタは海に面している。自国を守るためだけなら首都を安全性の高い内陸に置くのかもしれない。しかし地中海全体を舞台にして攻勢に出るなら、はたまたイスラム軍に対抗する十字軍の本拠地を築くなら、内陸に引っ込んでなどいられない。海辺に陣取って、存分の指揮を取れる体制を整えるべきだろう。特にヴァレッタの地形は単に自然港なだけではない。ヴァレッタの旧市街がある真ん中の半島を取り囲むように、長く細い半島が、ざっと数えて5つも両脇に突き出ていて、入ってくる敵の船を何重にも挟み撃ちが出来る地形だ。不思議といえば不思議な地形で、自然の技としても稀有だ。
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バレッタ湾
また新旧の首都が築かれた理由を示しているかのように、ヴァレッタの聖ヨハネ凖司教座聖堂とムデイーナの聖パウロ大聖堂を飾る様は歴然として異なる。ヴァレッタの教会堂は、戦死した騎士達を華々しく称えることに主眼を置いているので、勢い戦闘的で殺伐としたものになる。飾りのモチーフも、剣を交えてあったり, 骸骨をあしらってあったりする。それが聖堂の広い床を埋め尽くしている。対照的にムデイーナの大聖堂には戦闘的な色合いは無い。ごく普通に見る、キリスト教の大聖堂である。
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聖ヨハネ凖司教座聖堂内。床には殉死した騎士の墓碑が埋め込んである。
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ムデイーナのセント・ポール大聖堂内部。
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聖ヨハネ凖司教座聖堂の入り口。堂内の絢蘭たる造りに比べて質素な外観。元々は堂内も質素だったと説明にあった。
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セント・ポール大聖堂の外観。
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十字軍が建てた病院への入り口。病棟ほどにも長い
​ところで、見逃せない一事に触れておくべきだろう。マルタの住人は、十字軍の騎士達がやって来て、ヴァレッタに首都を築いたことをどう見ていたのだろう。イスラム軍からの攻撃を防いでくれるありがたい存在だったのだろうか。十字軍の本拠がイエルサレムにあったのは200年に一寸足りないくらいだ。キプロスには10年に満たない。ロードスには200年余り、マルタには270年で、最も長い。騎士達が行く所には病院が設置され、最新の医療が騎士にも兵士にも均等に施された。もっとも病室の在り方は一寸違ったそうだ。騎士も兵士も「鰻の寝床」式の病棟だったのは同じだが、騎士にはベッドの脇に個人用のトイレが付いていた。兵士達は5人で一つのトイレを共有した。トイレは、一寸見たところは戸棚のように見える。でも扉を開けると便器があって、その上方には窓が開いていて中庭に通じていた。つまり換気装置が付いていたのだ。中庭には花々が咲き匂って消臭剤の役割もしていた。ヴァレッタの旧市街のように土地に限りのある所では、庭があるのは贅沢だった。
 
https://en.wikipedia.org/wiki/Kingdom_of_Jerusalem
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かつての十字軍の病棟。床に沿って並ぶ低いドアはトイレ。
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ヴァレッタ旧市街の外壁。
270年が過ぎて、ナポレオンがマルタに上陸した。無抵抗の上陸だった。騎士達が戦うのを嫌がってサッサと逃げてしまったからだ。意外な事実は、これだけではない。住民達がナポレオンの上陸を歓迎したのだ。何故か。騎士達はキリスト教国のエリート達の集まりだった。初めの頃は両親の片方が貴族出身なら十字軍の騎士になれた。そのうち双方の両親が貴族でなければなれないことになった。更に時が過ぎて祖父母の代でも貴族でなければ資格を得られないことになり、最終的には4代続いた貴族でなければ、といったエリート中のエリートでなければ十字軍の騎士にはなれなくなってしまった。4代続いた貴族という存在がどういう人々なのか私には想像がつかないが、まあ、傲慢なのだそうだ。しかも彼らは、マルタ島の住民にとっては「外人」で、助けになってくれるならいざ知らず、我が物顔に闊歩されるのではたまらない。しかも長く続いた特殊階級は退廃していたそうで、軍事的にも先見の明を欠いていたと、博物館員が説明してくれた。まあ、色々な見方があるのかもしれないが、「騎士が敵を見て逃げた」という事実には弁解の余地が無いではないか。
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バレッタ旧市街の共和国通り。
​じゃあ、ナポレオンはマルタの住民にとって英雄だったのか。実は彼、マルタの財宝を根こそぎ集めて船に乗せ、その船はナイル戦争の最中にエジプトの海に沈んでしまったと言うのだから、もったいない事をした。尤もこの財宝の行方については他の話も伝わっているのだが。住民の方も、彼の正体に直ぐに気づいたらしい。ヴァレッタでは、財宝というような物は確かに見なかったが、ムデイーナの博物館には素晴らしい物があった。ナポレオンは、ムデイーナには宝探しに行かなかったのだろうか。銀器、細工物、絵画、陶器等が延々と展示されていた。そのどれもが平和な時代に珍重される物ばかりだった...と書けば、美化したように聞こえるだろうか。ムデイーナの静かな佇まいが、実は私を魅了したのでした。
 
timesofmalta.com

ムデイーナ

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銀器
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木彫
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      絵画
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陶製の置物
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博物館入り口
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博物館内部
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博物館のコートヤード
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ドアの取手
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ドアの取手
ムデイーナの城塞都市の中には、目を楽しませてくれるものが幾つもあった。ドア、石畳、ウネウネと続く路地。カフェも色々なスタイルで店を出していた。私は見晴らしの良いカフェに座って、マルタ風のサンドイッチに白ワインを注文した。ところでイギリスの伝統的なサンドイッチは小さい。「大口」を開ける必要はない。「頬張る」という形にもならない。二枚のパンに具を挟んで、4つに切ったものを3つ食べるのが私には丁度いい。しかしマルタ風は「大口」を開けて「頬張っ」て、やっと半分食べて息が切れてしまった。大食いの人を「馬ほど食べる」と評して、母はクスクス笑ったものだ。私は人がイイので笑いはしないが、マルタ風は「育ち盛りの男の子」のメニューだと言っておこう。その店の階下に、ガラス戸の付いた大きな本箱の様なケースがあった。そこに大型のケーキがズラリと並んでいた。思わず数えて、16種。それを「頬張る」人が沢山いたのは言うまでもない。
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カフェ
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レストランの入り口
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通り道
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通り道
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家屋

ヴァレッタ

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旧市街の通り
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図書館入り口
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図書室への階段
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図書室
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旧市街の家並み
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旧市街の建物をモダーンに改造したクラフトショップ内部。
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旧市街の小画廊
地中海の島々が大国の間で苦渋を舐めて来たことは周知だ。地中海だけでは無い。東南アジアもそうだ。南海の楽園バリ島然り。日本も危ういところだった。現在は台湾が衆目を集めている。が、バリ島、日本、そして台湾は独自の活路を試みた。バリ島は、その類まれな景観美を以って観光業を目指した。日本は富国強兵で立とうとしたが、第二次大戦で挫折した後は経済大国を目指した。台湾は世界最大のトランスフォーマーの生産国になった。高度なトランスフォーマーの90パーセントは台湾で生産されている。いや、台湾しか生産できない。だから中国を含めて世界のどの強国も台湾を破壊できない。これら三つの島はいずれも目指した道で成功した。
 
マルタ島の目指す道は何か。第二次大戦中のマルタ島はヒューマンシールになって(されて)4年間を耐えた。人々は地下に潜って4年間を過ごした。乳飲子が幼稚園に上がるまでの年月だ。小学生が高校に上がる年月だと言い換えてもいい。幼い子供達は陽の光を知らないで育ったのだ。爆音下の生活しか知らないで大きくなったのだ。地図を見るまでもない。敵国のイタリアは飛行機で40分、船でI時間45分の近さだ。イギリスがマルタを格好の戦略基地とみなしたのは明察だった。ではマルタ人は疎開させて貰えたのか。疎開する場所なんか無かった。小さい島なのだ。終戦になってヨーロッパの国々(ドイツとイタリアを除いて)は通りに出て祝った。マルタはどうだったのだろう。祝う光景を写した写真は展示室にあったろうか。
 
小さい国が生き延びる道は、平和な世界にしかない。第二次大戦後マルタが選んだ道は、独立して世界の仲裁国として立つ道だった。
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トライトンの噴水
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