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パエストウムの神殿

定年後をどうやって暮らそうか、と思案している方々へ

​マニャ・グレチア(Magna Graecia)
アレキ
、アグロポリ、アッチアロリ、パエストウム、カメロータ、
​スカーリオ、サプリ

​イタリアの古い港では、ポントウーンが複数の経営になっているのはサルデーニアの章で書いた。例外もある。だから一々確かめなければならない。どうして整理をしないのか。尤も整理が必要なのはポントウーン経営だけではない。言語もそうだ。日本には国語審議会がある。日本に住んでいた時には、送り仮名をしょっ中変えるだけで無駄な機関だと思っていたが、イタリア語のメチャクチャ振りを知った今は、考えが改まった。国語審議会に長年悪態をついて来たのを反省して、謝罪すらするかもしれない。
 
中学生になって英語を習い始めた時、時制なる概念がある事を知った。英語では12あるとする説と仮定形も含めて16あるとする説がある。日本人には、時制の理解が難しいと先生が説明してくれた。何故か?日本語には、概念としては3つしか時制が無いからだ。語形で見れば2つしか無い。過去と現在のみ。未来がないのは寂しい気がするが、勧誘とか、推量・推定の助動詞を使って補っているから不便はない。それがイキナリ12に増えたのだから、これは理解力の問題であるよりは、哲学的概念の問題だ。でもまあ、英語の時制は理論的に説明されている。しかしイタリア語を学び始めて、時制の形式があり過ぎるので、ある日数えてみた。21あった。呆れた。そのくせ、近い未来は現在形で通すことが多いのだから、もう一度、呆れた。そして実際に使っているのは英語の数ほどもない。誰も使わない形式をいまだに数の内に入れているのだから、又また、呆れた。
 
数年前、パレルモに滞在した折にバス旅行に参加した。ガイドの説明は、何かというと、古代ローマ帝国崩壊以後、改良やら修繕らしき事はムッソリーニ台頭迄なかった事実を繰り返した。彼女自身それには補足が必要だと思ったらしい。「5世紀に西ローマ帝国が崩壊した後、イタリアは幾つかの公国に分散して、それが19世紀後半になって今日の形に統一されました。つまりイタリアが一国として行動できたのは、近年の僅か200年ばかりの間なのです。幹線道路も、古代ローマ帝国以来のものが修繕もされずに現在も使用されていて云々」。見方によっては、古代ローマの土木技術が如何に優れていたかの実例になる。ただ、その優秀さが文法には継承されなかっただけである。何故か。何故キケロやカエサルの文筆力が継承されなかったのか。「帝国崩壊後、イタリア語は民衆の(有体に言えば無教育な人々の)口語から派生して今日に至るからだ」と説明した論文を見つけた。この論文を読んで、現代のイタリア語の有り様の所以を納得した。

アレキ(Arechi)

写真整然としたマリーナ
ここも最近できた「雨後の筍」。何でも揃っている。そして高い。
 
クーラントの手持ちがないのが気になっている。マリーナにあるチャンドレイに行くと、ボルボのは無いと言う。サレルノに行けばあるかもしれないが... 。サレルノ迄行くのは躊躇された。そこで受付に頼んで付属のボートヤードに少し分けてもらえないかと問い合わせてもらった。倍の値段をふっかけて来た。オマケに手間賃まで加算して。単に4対6で水割りするだけなのに。そこでサレルノ迄出向く事にした。

​その気になってみればバスが通っていて、目指すチャンドレイに難なく着いた。しかしボルボのは無いそうだ。誰も扱いたがらない製品を何でボルボは指定するのか?そもそもボルボの整備工からして手間賃が高い上に傲慢ときている。段々ボルボが疎ましくなって来た。でも折角来たのだから代用できるクーラントを買って、漏斗(じょうご)も欲しいのだがと言うと、漏斗という言葉が通じない。Googleも分からないらしく、発音をナント(ロート)と読ませていた。そこで主人とお客と私の3人が手真似で問答を始めた。「ああ、じょうご!」「そう、じょうご!」とやっと分かり合えた時にはすっかり古馴染みになっていた。「おいくら?」「え、いいの、いいの。漏斗はサービス」。

​アグロポリ(Agropoli)

写真町の真ん中にある広い通りは勾配が増すと階段になり、登りつめると海を見下ろす。
​名前の末尾が「...ポリ」となっていてギリシャ風だ。紀元前500年頃からギリシャ人がイタリア南部を盛んに植民した時期に中心になった港。サレルノ辺りから始まったシチリアも含んだ一帯はギリシャ人が多く住んだので、マニャ・グレチアとラテン語では訳されて「ギリシャ語が話されている地域」を意味しているが、原語のギリシャ語では「偉大なギリシャ」を意味しているそうだ。歩いてみて目についたのは、旧市街の中央に広々と築かれた階段で、ギリシャ劇場の観覧席を思わせた。上り詰めた所には何があったか。もちろん海が広がっていた。樹木を迂回して路面を敷いたりベンチを置いたりするのはイタリアではよく見かけるので、それらをギリシャ風だとするのはちょっと無理のような気がした。一時は母国ギリシャからも独立した立場を築いて周辺のイタリア人に少なからぬ影響を与えたそうだが、時が下ればローマ帝国に併合もされているので、イタリア風と融合して分かち難くなっている方が自然だ。グレコ・ローマンという言葉すらある。しかし2500年経った今でも、土地の言葉にはギリシャ語の名残があるという記述があった。少なくとも地名には垣間見られる。ともあれ、アグロポリの町全体は、何というか、心魅かれる佇まいだった。

写真
道に勾配があると、階段を作り、あるいは坂にして石畳を敷き、木があると、道を迂回させる。
写真
潜り塀の向こうにも道が続いている。
写真
緩やかな曲線と勾配を見せて道は続く。
​ ポート・オフィスに、いかにも「年来の舟人」と思わせる老人が座っていた。長年潮風に当たって焦茶色に日焼けした肌が、彼の人生を語っていた。そして固く閉じた唇、真っ直ぐに遠方を見遣る眼差し、安定した手足の置き方も。その横で娘が慌ただしく英語で私の停泊事務を取り扱う... 。彼は足を引きずっていた。船の上で暮らすと怪我をする。打ち身、切り傷、擦り傷、骨折も、常の事だ。今は帆の上げ下げも殆どが電動だが、20年前に私が訓練を受けた時は、帆は手で引き揚げ、手で巻いた。重労働だった。事故も多かった。老人の風貌からして、漁師だったのではあるまい。海と共にどんな日々を送って来たのか聞いてみたかったが、私のイタリア語では無理だ。残念なことだ。

​
https://en.wikipedia.org/wiki/Magna_Graecia
https://www.google.com/search?q=magna+graecia+origin
写真
要塞の名残り。

アッチアロリ(Acciaroli)

パエストウム(Paestum)

カメロータ(Camerota)

スカーリオ(Scario)

サプリ(Sapri)

写真
この光景が、何故懐かしく思えたのか分らない。夢の中ででも見たのだろうか。中央の右寄りに、深く幌を出したカフェが見える。
​着いた途端、その風景に一種の懐かしさを感じた。こちら側にはポートに付き物の舟道具屋やレストランが並んでいたが、向こう側には幌を深く張り出したカフェや木陰を作る木々が植っていて、どこかで見たような風景だったのだ。ともあれ翌朝から毎日、「幌を深く張り出したカフェ」に朝食を食べに行った。サレルノ湾を超えた途端、停泊料が半額になったのが私を寛がせる一因になったのは否めないが、それだけではない。ここはヘミングウェイが『老人と海』の構想を得た港なのだそうだ。あの小説はキューバが舞台だが、ギリシャ人が移民して築いたというイタリアの漁村と何か通じる点でもあるのだろうか?見回したが分からない。ただヘミングウェイの大きな写真が、埠頭に広々と構える本屋に飾ってあった。
写真
本屋の内部にヘミングウェイの写真が貼ってあるのが見える。
​停泊していた3日間の間、何度か通り過ぎて、そしてハタと思いついた。埠頭には漁船がずらりと並んでいたが、中には大きさは公園の池に浮かべる貸ボートくらいしかないのが何舟かあった。そこに漁師に必要な全てが収めてある。こんな小さなボートで、どのくらい沖まで行くのだろう。小説に描かれたサンチアゴのボートの描写が脳裏に甦った。発想の端緒は、こういうボートだったのかもしれない。あれは、マア、悲しい話だが、少年の心優しさと老いたサンチアゴのあくまでも雄々しい精神を伝えて、励まされる。ヘミングウェイが繰り返し描いた男の姿だ。老いた漁師がジャイアンツの話をしたのは、どんなカフェであり得たろう。
写真
公園にある貸しボートの大きさしかないのに、漁師に必要な物が全て整って収まっている。手入れも良くしてあるのが一目瞭然。
写真
こちらも大きさは同様。雨囲いもついている。波が高くても飛沫を被らないで済む。
ここにはポート・オフィスという建物は無くて、係員が小型の車でやって来て伝票を切って行く。モーバイル・オフィスという訳だ。でも一晩 €40という安さ。嬉しい限り。南下すればする程安くなるのカナ?しかしポントウーンという物が無い。つまり岸壁に直接つけなければならない。1m以上の高さがあるから渡橋がいるけれど、私のボートは小型なので付いていない。「じゃあ、横付けにすればいい」と係員。私のボートは全長9mだから、ヨットなら通常のスターン留めなら3隻は収まる。夏場なら決してあり得ない優遇。
写真
要塞塔を左手に海岸通りを望む。
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木陰で果物を売っている人。誰もいない通りで売れるのかと気遣われたが、編み物をしていた。涼しい木陰で編み物をしながら、果物が売れても良し、売れなくても良し、というところか?
​ギリシャに惚れ込んだ友人がいる。ペロポネソス半島の山手に廃屋を買って、自分達で建て直して貸家にしている。自分達もしょっ中行く。その彼らが「パエストウムに行くなら写真を撮って来て」と注文して来た。何もイタリアにあるギリシャの遺跡に行かなくてもイイと思っていた私だが、「注文が来た」なら、行かずばなるまい。何とパエストウム行きのバスは、私が停泊していた、文字通り数歩先から発車していた。こんな嘘みたいに好都合な事は生まれて初めてだ。バスは時間通りに発車して、山の中腹あたりを進んだ。クネクネと山沿いの高みを行く道から眺める風景は、海を見下ろす形だ。濃い、青い海だ。目が覚めるようだ。アマルフィからは少し離れているが、これはアマルフィ・コーストの眺めだ。その海の上を、矢のように走る小型のクルーザーがあるとすれば、それは私のボートだ!と、脳裏に思い浮かべて満更でもなかった。
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ポセイドン神殿。ポセイドンは海を司る。天空を司るゼウスの弟の一人。もう一人の弟は冥界の王。
​野原の、一見何も無い所で降ろされた。誰もいない。広々とした平地を、風が吹き抜けて行くだけ... 。静かだ。三つの神殿が立ち、浴場、プール、広場、アンフィシアター、バジリカ、野外会議場、財務管理所、市場の建物などの公共の建造物が立つ背後に、パンフレットによれば、整然と住居が並んでいたはずだった。どれも四角い中庭を囲んで、周り廊下のように部屋が並んでいる。
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ヘラ神殿。ヘラはゼウスの妻で、結婚や出産を司る。
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ポセイドン神殿、遠望。
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アテネ神殿。アテネはゼウスの頭から生まれた娘で、知恵の女神。ギリシャの首都、アテーナイの守護神でもある。
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アンフィシアター
​しかし遮るものが何も無い平らな土地は、洪水に見舞われて湿地に化した。それはマラリアの発生を生み、加えてサラセン人の襲撃にあって、人々は広大なパエストウムを捨てた。
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​以後1777年に発見される迄の千年に近い年月を、大理石ではない、砂岩で建てられた建物が今も残っているのを不思議にも思い、神殿はもちろん紛う事なきギリシャ様式だから、イタリアの真ん中でギリシャを見出したようでもあって少し戸惑いした。古代には、現代のように国別の区分が明確ではなかったのかもしれないと思いながら。
写真
多くの人々が行き交い、賑わっていた過去を想像しながら、風吹き抜ける野を、しばし見つめた。
写真
遺跡の入り口。
​Guide to the Archaeological Site Paestum from Building Site to Temple
https://en.wikipedia.org/wiki/Paestum
写真
木陰で、教師の説明を聞く子供達。
写真マリーナ。左端近くに煉瓦色の建物の端が見えているが、ここにオフィス、トイレ、シャワー、洗濯室などが収まっている。
​ちゃんとしたオフィスがあった。受付嬢にもマネージャーにも英語が通じた。トイレもシャワーもあって、夜間の守衛までいた。町も歩いたし、写真も何枚か撮った。が、記憶が薄い。良くも悪くもない町という事なのかもしれない。しかし有難いことが一つあった。シーズンが始まる6月15日迄にボートの置き場所を見つけなければならない。後10日だから、今日辺りから値段や条件を聞き始めた方がいい。アッチアロリでさえ、夏は倍の値段に跳ね上がるのだ。カメロータは安心してボートを置いておけるマリーナだが、さて、御値段はいかに。
 
ところで、どのマリーナも停泊料を公表しない。それはフランスでもイギリスでも同じで、「行ってみて初めてワカル」という仕組みだ。何故だろう。但しイギリスやフランスは政府の下部組織が管理しているので、値段も設備もほぼ一定しているから支障は無い。イタリアがそうでないのは既に何度か憤激、驚愕、号泣混じりに書いた。値段はマリーナの都合によって上げたり下げたり勝手気まま。トンデモナイ値段をふっかけられても、じゃあ、隣のマリーナに行こう、という可能性が少ないだけではない、隣はもっと高いかもしれないのだ。ところで、彼らは近隣の港湾施設の調査等はしないらしい。それで都合の良い場合もある。設備が整っているのに破格に安い値段というのもあるのだ。それなのに「大枚を巻き上げて」と思われているのではないかと言い訳がましい顔までするのだから、私の方は内心ほくそ笑むことになる。
 
で、カメロータの返答は「ありません」。そうだろう、これから掻き入れ時が始まるのだから。「でもドライランドで良いんですけど」と私。シーズンが始まれば誰もがドライランドからボートを引き出して水に浮かべる。その逆をする物好きはいない。だからドライランドは空になる。そこが私の狙い。場所があるばかりか、きっと安いに違いない。すると側で聞いていたマネージャーが「ここにはドライランドは無いけれど、サプリにはあるから聞いてみましょう」。「ある。値段は3千」。8月の末までの2ヶ月半の保管料だから、1日 €40 (¥6,500)。安い!カメロータは岬の突端にある。その岬に隠れるようにポリカストロ湾(Golfo di Policastro)があって、サプリは湾の奥にある更に小さい湾に面した、安全この上ない水辺。
 
€1=¥162

写真海を見下ろす形で、小綺麗な遊歩道ができている。
​サプリへ行く途中に、スカーリオという町がある。私の虎の巻が絵葉書のように美しいと愛でる土地だ。町の背後は急勾配の林になっていて、小さい谷間には夏でも清水が流れているのだそうで、本に書いたら観光客に荒らされてしまうかもしれないのを案じて前回の編纂時には書かなかったのだそうだ。私は何故か林に行くのを忘れたので(ボートの保管場所を見つけて、安心して気が抜けた?)清水の流れは見逃したが、確かに小綺麗に装った町並みだった。手作りの工芸品を売る店があって、その斬新なデザインに一頻り見惚れた。虎の巻には珍しく名前入りでピザ・レストランの紹介をしていたので行ってみた。親子兄妹が揃って働いている店で和やかな雰囲気だったが、味の方は今一つだった。

写真
イタリア人は町を植物で飾る。植物がよく育つ土地なのだろうが、住民の心尽くしでもある。クリーム色の自転車も飾りになっているではないか。
​蛇足だが、係員はちょっと変わった身なりの人だった。半ズボンにTシャツなのは彼も同じだが、金鎖やら金の指輪やらをドッサリ付けていたのだ。飾りというより、金が好きだから身につけているといった感じ。重いだろうに。
写真サプリのマリーナ。建物から突き出ている太い棒は何だ?あれも飾りの一種?トムが教えてくれるには、テントをかける予定なのだそうだ。なるほど!白いテントが張り上げられたら、見事に斬新なデザインが相成る!さすがイタリア!でもそれは何時のことか?
もう動かなくて良い ...。去年プロチダに着いた時にもそう思った。あの時は冬場にボートを置ける場所をやっとの思いで見つけたからだし、今回はとんでもない散財を免れたからだが、それだけでもない。足首を折り、パンデミックで更に3年を見送った。折れた足でローマに辿り着いた時から数えれば5年が経っている。了年75歳。ヨット乗りが引退するのは70歳辺り。クルーザーはもう少し続けられるが、シングルハンドはシンドクなって来ているのかもしれない。
 
舟付けの手伝いに出て来たのは、場違いな服装の中年の女性。隣に停泊していたヨットの持ち主も手伝いに出て来て、その彼に向かって彼女は喋り続ける。舟付けの手伝いなどはそっちのけだ。こういうタイプが、私は苦手だ。しかしイタリア人について覚えておいた方が良い事が一つ。彼らは自分の非を受け入れない。一言でも批判的な言葉を言われると、商売なんかはそっちのけにして放ったらかされる。だからオダテ上げて事を運んだ方が良い。
 
ポートは西側が自治体経営で、数人の男達が出入りしていた。東側は個人の経営で、私は知らなかったが、待っていてくれたのは個人経営の方。こちらは先刻の女性が一人で、舟付けから受け入れ事務まで全てをやっているようだった。ちゃんとした建物が立っているのに、中は空っぽで不用物が転がっていて、その前に二坪程の仮設事務所の中で事務処理はなされた。担当者は一言も英語を話さないし、話すつもりもない。舟付けの手伝いもイイ加減だったが、事務にも慣れていないようだった。まるで「経営者の奥さんが引っ張り出されて来ました」といった感じ。私は2ヶ月半ここにボートを置いておくつもりで来ているのに、保管の場所や条件を確認することもできない。
 
途方に暮れてボートに戻って来ると、隣人が出て来て英語で事情を説明してくれた。「事務所にいるのは経営者の奥さんで(やっぱり!)、経営者は後で来るから、彼が来たら僕が通訳をするから契約条件の詳細を確認すれば良い」。親切な人だ。名前はトム。外科医だったが、病院の経営陣にウンザリして早期退職したそうだ。奥さんは大学で教鞭を取っているからローマの自宅に、彼はサプリにやって来て一人でデッキに座ってキンドルを読んでいる。毎日奥さんを待って暮らすわけにもいかない、と言うのだ。まあ、そうだろう。しかし奥さんも、彼が退職したから彼女も、と言うわけには行くまい。「もう7年待っている。彼女が引退する頃には、僕は車椅子に座っているヨ」と笑ったが、あながち冗談でもないらしい。

写真
この女性は、人々を飢えから救ったのだそうだ。
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擦り切れて光ったお尻。
誰かがクスクス笑っている。デッキに出てみると、トムがポントウーンに立って何かしている。バケツを足元に置いて、糸に針をつけて小魚を釣っていたのだ。そばに行ってみると、面白いほどよく釣れる。餌はパン屑を水面に撒き散らしただけ。トムが私に糸を持たせてくれても、魚は次々に食いついて来た。余程「世慣れない」魚に違いない。20匹も釣れただろうか。大き目のをトムに渡して、小さいのは、捌いて揚げて、搾りたてのレモン汁に蜂蜜を入れて、マリネにした。夕方はトムに連れられて町にある海辺のレストランでアペリテイーボを楽しんだ。ツマミはもちろんフリタッタ・ミスト(エビ、イカ、魚の唐揚げに各種のデイップを添えたもの)に私はスプリッツを注文し、トムはジン&トニック、イギリス人みたいに。トムは釣り好き。差し渡し1mのマグロを釣った時の写真を見せてくれた。マグロは食べたの?イヤ、漁師に売った。おや、漁師はラクをしたわねえ。_父も釣りが好きだった。糸を垂れて、ビクビクッと伝わって来る手応えがゾクゾクするのだそうだ。その一瞬のために、夜中から朝方にかけて積丹(シャコタン)半島まで車を飛ばしたものだった_時間はゆるゆると流れて、夕陽が落ち、闇が濃さを増した。トムは右膝が痛む。痛み止めが無ければ歩けない。長年立ち詰めの仕事をした結果だ。「医者の不用心」と日本でも言う。

ともあれ、痛み止めの錠剤を口に放り込んで近辺を案内してくれた。その一つがこの銅像。この女性のお尻を撫ぜると飢えから救われるという言い伝えがあるのだそうだ。お陰で彼女のお尻は擦り切れてテカテカ光っている。「触るのは男達ね」と私がチャチャを入れると、「そんなことはない、女達だって触っていく!」とトムは本気になって言う。生真面目な人だ。​
トムは奥さんが一緒じゃなくて寂しかった。私は連れが来られなくてつまらなかった。二人共、穴埋めをしてくれる友人ができて嬉しいというわけ。翌朝は、トムの行きつけのカフェに朝食を食べに行った。彼は午後の電車でローマに帰る。そこで私は昨日漬け込んだマリネでランチを用意した。プリマ・ハムでメロンを巻いて、今朝カフェで買ったオリーブ入りのパンも添えて。「僕、今日帰るから、冷蔵庫にはトマトしか無かったんだ」。友人同士、補い合う可きです、はい。「スイー・ユー・イン・セプテンバー」。           
​                                (2024年10月19日脱稿)
                                                                                                                                                                  
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