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ポルトフィーノの入江をカステロ・ブラウンから見下ろす。

定年後をどうやって暮らそうか、と思案している方々へ

イタリアン・リビエラ
​
サン・レモ、インペリア、サン・バルトロメオ・アル・マーレ、アラッシオ、ロアーノ、 
フィナーレ・リグレ、ヴァラッツエ、アレンツアーノ、サンタ・マルゲリータ、キアーバリ、ポルトヴエーネレ、 
ヴィアレッジオ、フィレンツェ、シエナ、モンテ・プルチアーノ、ラパッロ、ポルトフィーノ

​リビエラ・リグレ   Riviera Ligure   

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フィナーレ・リグレの海辺。リグリア地方では、山間部が海の際まで迫り出していることが多いので、浜辺は概して幅狭い。
​​イタリアのリグーリア(Liguria)地方はジェノアを政庁所在地として、フランスとの国境からラ・スペツィア(La Spezia)迄の海岸線に沿った細長い地域で、背後にはアペニン山脈が控えているので、近隣の山々は1,000メートルから2,000メートルを超える。したがって北方から吹いてくる風は遮られるので、気温は年間を通して温暖。夏の最高気温は30度、冬は平均10度程度で、リビエラと呼ばれて海浜客で賑わう。リビエラはイタリア語で、意味は「沿岸線」。語源はラテン語の「ripa(岸辺)」で、リグーリア地方の言葉では「rivea」となる。それを現在のイタリア語の標準語にして「riviera」になり、リグーリアの海浜地は正式には「リビエラ・リグレ(Riviera Ligure)」と表記されるが、通常は短縮して「リビエラ」と呼ばれる。こう書くと一寸ややこしい気がする。何故ラテン語をリグーリア方言で発音したものを現代の標準語読みに直すのか?ラテン語は古代ローマの標準語だったのだから、ラテン語を現代のイタリア語の標準語に直す方が簡単ではないか。しかし、このややこしさは歴史の経緯を示しているようなので、ヨーロッパの歴史的・言語的視点からすれば自然なのかもしれない。あるいは他の地方には育たなかった言葉なのかもしれない。ともあれ、この辺り一帯はフランス領になったりサルデーニア王国に組み入れられたり、はたまたジェノアに売られたり、所属する国が変遷している。そうした場合、土地の住民はどうするのか。支配者が誰に変わっても、自分達の日々の生活に目を据えて暮らし通すことになるだろう。頼れるのは、自分、家族、隣人、仕事仲間、周囲の人間、即ち土地の人間ということになるだろう。その中で通じる言葉が生き残る、ということではあるまいか。海運に携わる人にはリグーリア方言を知っていることが大切とされる。ここにはジェノアの千年に及ぶ自負が感じられる。
 
話を地名に戻すと、ややこしさは、これで終わらない。世界中に「**リビエラ」があるからだ。世界中のどこもかしこもと名乗り出た「リビエラ」を本来のリビエラと区別する方法として、英語では定冠詞の「the」を付ける。が、事はこれでも終わらない。「リビエラ」と呼ばれる海岸線はフランスのカンヌ辺り迄続くからである。国境線が何度か書き変えられているのだから仕方がない。そこで、より今日的に区別するために、イタリア側のリビエラは「リビエラ・リグレ(Riviera Ligure)」で、これに対してフランスのリビエラは「コート・ダ・ジュール (Côte d'Azur) 」ということになった。が、一般に英語で使われるのは「イタリアン・リビエラ」と「フレンチ・リビエラ」だというのが現状で、苦心して区別を考案した人には気の毒な事だ。

https://detail.chiebukuro.yahoo.co.jp

​サン・レモ San Remo

​サン・レモはイタリア歌謡音楽祭が開かれるので、10代の頃から知っていた。姉がイタリアカブレだったのである。往年のドメニコ・ムドウーニオが私の気に入りだった。「ボナーレ」や「マ〜マ、歌ってくだーさい、あの子守歌… 」。ギターを背中に担いだ、おおらかな印象を与える顔写真がレコードのカバーに載っていた。さて、そのサン・レモへ来た。姉はともかく、私が来るとは予想もしなかった街だ。さすがにハイ・エンドの港。長さ20m級以上のボートを想定して港が設計されている。お陰で1泊€40(¥4,840)も請求された。フランスで€40も取られたのは、アンテイーベでだけだ。私の 親愛感は、いささか減退。
 
連れは頻りに案じている。何をかというと、サン・レモでイタリアに入国したら証明印をパスポートに押してもらわなければならないが、どこへ行けば良いのか。港に出入国管理署があるのか、警察へ行くのか… ?そんな事は考えもしなかったが、それは言わないで、「カピテナリーに行ってみたら分かるんじゃない」と言ってみた。「うん… 」。ハッチを開けるとヤケに暑い。しばらくして、連れが戻って来て言う。「出入国管理署は無い。カピテナリーの受付嬢では分からない。警察は何処かな」、やおらGoogleし始めた。「無かったから、押してもらえなかった」と言えば済むじゃないかと私は思うのだが、彼はそう思わないらしい。出入国管理を扱う部署が警察にあると、Googleが出して来た。港から遠くない。が、出てみると港が広い。暑い。で、着いてみると、小さくて、移民の入国・滞在延期審査をしているようで、観光客は居ない。小一時間待ったが審査を終えて去る人があるわけではなく、事は一向に進むように見えない。連れは諦めた。私は待ちくたびれた。通りに出た。暑い。

​「ここに入ろう」と、連れが呼んだ。入ると、スーツと冷気に包まれた。冷房の効いたコーヒー店だった。生ジュースも作ってくれる。サンドイッチやペイストリーもケースに並んでいる。「何か飲もう!」。「賛成!」。店はイタリアの名に相応しく洒落ていた。大いに気に入った。冷たいコーヒーを飲んで、すっかり元気になった。待てよ、連れはアイス・コーヒーなんかを飲んでいるのではなかった。何だかヒドク洒落たものを注文したらしい。彼はパリに3年半住んだことがあるので、しかも高給をとっていたので、私の知らないものを飲み食いして来た。ちょっと不満… 。再び通りに出た。今度は元気。元気だと、頭も回る。必要なものも見つけられる。携帯電話のカバーも見つけ、サンダルも買い、サラダやハムやチーズも手に入れた。「扇風機を買おうよ」と連れが言う。私のボートはイギリスで使うつもりだったので暖房装置はあるが、冷房は入れていない。スッキリしたデザインの、場所を取らない扇風機を手頃な値段で買えた。若い電器屋さんはイタリアのアダプターをサービスしてくれた。満足。
 
一時の休息と一杯の飲物で、全てが好転したかのようだった。いや、そうだったろう。すべき事をしようと、つい怠り勝ちになるが、体の必要に気付く事は大切だ。
 
換金レート:€1=¥121
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洒落た通りにも洗濯物が干してある。

インペリア Imperia   
​

Pictureインペリアの港
連れが振り向いて言う、「天辺に登ってみよう」。通常のごとく、教会が小高い丘の上にある。そこまで登ろうと言うのだ。見晴らしが良いだろう。「いいわね」と、私。夕暮れ時。彼としては夕日に沈む、この古いイタリアの町を見ようというわけだ。彼はロマンチストなのだ。上り坂を選びつつ、道沿いの家々を眺めつつ ... 小さい鉄格子の窓が半地下の位置にある … 埃にまみれて近寄るのも憚れる … 何世紀分の汚れだろう... あの中に誰が住んでいるのだろう 。広い所に出た … つましい家が汚れを帯びたまま重なり合って広がっている … 普通は、丘の上には立派な家が立っているのに、見晴らしが良いから。でも、あそこは山懐といった場所 … 丘の上でも景色が良いわけではなく、ただ不便なだけ … 。「座ろうよ」、連れが言った。教会の前にベンチがあった。座って近隣の丘を見る。家並みは丘を中心に固って、丘を下るにつれて疎らになって、又次の丘につながって …  上にいくに従って段々家が増えて … それが何処までも続くようだ。こういう風景は日本には無い。丘ではなく山が聳えているので、家々は山懐に集まり、視界も山に遮られるからだろう。
 
日はとっぷり暮れて、薄闇になっている。「もう、行かない?」と、私。「うん、でも、どっち?」と、連れ。「こっち」と、私は来た道とは反対側の方を指す。「どうして?」と、連れ。「だって、この30分の間に、3組の人が登って来たけど、みんなこっちから来て、同じ道を返って行ったもの」。(後で知ったことだが、彼は途中で通り過ぎたレストランに入りたかったらしい。確かに、石垣を上手に利用して設えたレストランがあった。私が彼方の貧しい家々に思いを巡らしていた間、彼は好みのレストランに目を付けていたのだ。人の眼は、各々異なるものを見る。)私の推定は的を得ていた、もし史跡に興味があるのなら。下り始めるとすぐに高くて古い石の壁が目に入った。かつての城塞の一部らしい。通路はぐるりと迂回して、急な、殆ど90度の角度で通路は曲がっていた。高い壁に覆われたその小暗い通路の曲がり角の取っ付きに、何とドアがあって、少し開いていた。私は思わず立ちどまった。そして、ドアの陰に誰かがいるのを見咎めた。貧しい身なりの老女だった。いや、違う!それは、壁に描かれた等身大の絵だった。何のために?
 
こんな所にある絵を、誰が観賞するだろう。光も通らない、こんな所に。いや、これは観賞のためでも、飾りでもないだろう。小暗い急な下り坂だから、私達は小走りになって下りて来た。もし私達が追われていて、城塞に潜り込んだが見つかって、追われてひた走って来たとしたら、時は**世紀、**の戦いの最中、一縷の望みを賭けて、この僅かなドアの隙間に飛び込まないだろうか?が、そうしたら、思いっきり石壁にぶち当たることになる。思わず唸って、床に崩れ落ち、そして追っ手に追いつかれる。そうした為の絵ではあるまいか。つらつらと思うに、この絵を本の中で見たような気がする。どの本だったかは思い出せないのだが、教科書?歴史書?… 「何処で夕食にしよう?」と、連れ。
 
翌朝、思う。それにしても「ヘンな名前だなあ」。「こんなに小さな町なのに、インペリアなんて大仰な名前を付けて」。レストランは幾つかあるが、まともなスーパー一つ無い。ミニ・スーパーでその日の買い物をして 、ただし大したものは無い。飲み水とハムとチーズとパンとわずかな野菜と果物。これで人々が暮らせるわけがない。連れはレストランに行きたがるが、私は経済を考えるので食材が欲しい。何しろ外食は飽きる。しかし何処をどう歩いても、まともな買い物ができる店が無い。無いのは食品店だけではない。銀行が無い。ATMが一つあったが使用不可。ネットのアクセスを可能にするためにモデムが必要だが、ボーダフォンの代理店もオレンジのも無い。不思議な事だ。カピテナリーも通常とは違っていた。港の一番端に2坪程の仮設小屋があって、そこが事務所だと教えられた。出入国管理署はその側にある同様の大きさの、こちらはコンクリートの「小屋」だった。ただし1週間滞在したが、開いていた事は無かった。こんな粗末なカピテナリーを見たことは無かった。ただし良いことが一つあった。停泊料がフランス並みで1泊€18(¥2,178)。

Picture隣町行きのバス
​連れは去り、一人になった。食料不足は解消されず、レストランを見回したが入りたいような店は無かった。港に面したカフェの前で途方にくれていると、汽車を模したバスが止まった。遊園地で見かける類のヤツだ。老人は無料と書いてあった。老人の部類には入らない人も乗っていた。観光客風の家族も乗り込んだ。見送りながら、ハテ、何だろう。実はこれ、隣町に行くバスだった。乗車料€1(¥121)。時刻表を見ると30分おき。待つことにした。

やって来たのは隣の町の広場。何処に何があるのかは知らないが、観光客が降りたので私も降りた。官庁らしき建物がある。レストランがある。広々としている。港付近の狭い通りや込み入って並ぶ古い建物 … ウキウキした雰囲気というのとは大分違う。ところで私の目下の必要は、ボーダフォンの直営店とATMと市場ないしはスーパー。一番近い脇道に入る。あった!ボーダフォン。その数件先に銀行。20分で2件落着。さて3件目。が、市場の立つ日ではないそうだ。スーパーは、ネットによると川を上った所にあるらしい。方向違いだ。諦めて、広場のレストランで昼食を食べてボートに戻った。

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かつてはオネリアと呼ばれ、今はポルト・マウリッツィオと共にインペリアと命名された町の広場。
川を挟んだ二つの町を並べると、どうも腑に落ちない。一方は観光客で賑わっているが、あるのはレストランばかり。ATMも銀行も無い。今時不可欠の携帯電話代理店も無い。隣の町まで行けば事は済むからだと言えばそれまで。しかし町や村の自然な成立というものは、町なり村なりが一つの共同体として必要な機関即ち、役場、教会、学校、郵便局等を各々が備えているものだ。20分バスに乗って等ということではない。この謎は、ネットで明らかになった。二つの町は別々に成立した、各々ポルト・マウリツツイオ(Porto Maurizio)とオネリア(Oneglia)という町だったのを、ムッソリーニが1923年10月21日に周辺の地域も合わせて、インペリアという町にしたのだそうだ。どういう利点があるのか私は知らないが、不利な点があるのは知っている。
​連れがイギリスに帰るという日、彼は頻りにGoogleしている。駅の場所を探しているのだった。彼はニースまで国際電車で行って飛行機に乗るからだ。駅なら、散歩に出た時それらしい建物に私は気付いていた。「徒歩で15分ぐらいの所よ」。しかし彼はスクリーンを眺めながら、「駅は川をかなり遡った所にあるようだよ」と言う。「川は町境にあって、どちらの町からだって、かなりの距離よ。そんな所に駅があるわけは無いでしょ」と、私。結局時間の余裕を持って、散歩がてらに私の「駅」に行くことにした。崖の上を走る線路を見ながら、トンネルを潜って駅に着いた。が、何と、駅の建物には板が貼り付けてあって閉鎖になっている。こりゃ大変!連れが喚き出したのは前例の通り。危機に直面すると、彼は気が転倒して喚くのだ。しかし私も困った。タクシー等は無いのだ。一体誰が閉鎖された駅の前で客を待つだろう。町からタクシーを呼ぶという方法もあろうが、一体何分で来てくれるだろう。連れは歩き出した。40分ぐらい掛かる距離だ。歩きながら喚き続ける、「アイ・カーント・アフォード・ミッシング・ザ・トウレイン!」「アイ・ハフ・トウ・ゴー・トウー・ワーク・トウモロー!」「アイム・ノット・リタイアード・ライク・ユー・アー!」幾ら何でも、恥ずかしくもなく人前で、いい年をした男がこんなに喚くものだろうか。… 人前で?そうなのです。閉鎖された駅の前に私達二人だけがいたわけではなくて、40才前後の清楚な感じの女性がいたのです。彼女が何でこんな所に車で来ていたのかは知る由も無し。が、彼女は英語が分かって、私に向かって「お送りしましょうか?私は病院に行くので、遠回りにはなりますが、急げば間に合うと思いますから」。
 
15分後には駅の切符売り場に立っていた。彼は何故か大人しい。一寸恥かしいのだろう。ところで、駅には切符売場以外に何も無い。キオスクが入るのかもしれない一画はあった。トイレもあった。でもそれだけ。お茶が飲める所はない。外に出て周囲を見回したが、なンにも無い。仕方がないからホームに出て、40分間ベンチに座っていた。まだ建ったばかりの駅だ。何でこんな人里離れた所に、相当な金額を出してわざわざ駅を造ったのだろう。在来の駅の何が不都合だったのかは知らないが、少なくとも歩いて15分ぐらいの場所にあった。唯一理由として考えられるのは、二つの町の中間に位置して両者に公平に不便になったということぐらいだろう。二つの町を一つにすれば、行政経費が節約できるのだろうか。ムッソリーニ氏の意図を聞きたい処だ。
​ところで棚上げにしておいた出入国審査だが、フランス国境を超える前に、誰も、そして何処にも、そんな事をする人も、する所もなかったそうだ。誰が一々出入国審査をしていられよう、国境が至る所にあるヨーロッパのド真ん中で。
 
もう一つ。インペリアという名は、ネットによれば、ポルト・マウリツツイオに近いオネリアの西端を流れるインペリオ川にちなんだのであって、インペリアルという語から取られたのではなかった。さんざんアレコレ考えてクタビレ儲けのようだったが、しかし僅か20年前までは図書館に行って何冊も本を借り出して、あっちの本を読み、思い直してはこっちの本を読み、長時間をかけて調べたものだった。しかしその方が、思考力や想像力を養いはすまいか。じゃあ、図書館に戻る?いえ、ネットでいいです。


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一人になって静かに寛ぐ。

​サン・バルトロメオ・アル・マーレ San Baltoromeo al Mare

​いくら停泊料が安くても、インペリアにいるのは1週間で十分。次に進もう。海図を眺めて、アラッシオ(Alassio) 迄なら午前中遅めに出ても、昼過ぎには着けると思い定めた。決まり。天候も良し。
 
明るく晴れ上がった朝だった。気持ちよく航海して行程の半分ぐらい迄来た時、波が立ち始めた。風力4(Beaufort Scale)といったところか。小さいモーターボートは航行をやめるべき状態だ。真夏のことだから、多分海が早く温まって風が吹き出したのだろう。朝のんびりし過ぎたと後悔しても後の祭り。海岸沿いを数キロはずれると波の静かな海域に入ることもあるが、望遠鏡で見ても、どこまでも白波だらけ。陸地に目をやると、小高いところに教会が見える。海図を見ると、位置からしてバルトロメオのようだった。
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長閑に佇むバルトロメオのマリーナ。
​小じんまりとした、まだ新しいマリーナだった。周りには小綺麗なマンションが幾棟か、肩を寄せ合って立っている。スタイリッシュ。高いかな?€32(¥3,872)。しかし波が高いのだから、値段が高くても仕方がない。ところで、ここのカピテナリーの係員は一人で全てをやるらしい。背の高い、ヤケにゆっくり話す人だ。頭もゆっくり回るらしい。「大男、総身に知恵が回りかね」と言ってはクスクス笑った亡き母の姿が脳裏に浮かんだ。ワルイ人だ。でも彼は親切。それにボートの全てを心得ているらしい。私には、それで十分。届出を済ませて出て来ると、赤いドレスを着た小柄な女性に出くわした。彼女は打って変わって早口。それに、よく喋る。捲し立てる、というべきか。ボートで近隣の見所に案内するイベント屋さん。しまいには、カピテナリーの係員の事まで言い始める。どうやらカピテナリー氏には言語障害があるらしい。 障害があるから痛みが分かる。だから親切になる。反対に、五体満足だと、つい繊細さを欠く。しかしこの二人が向かい合わせのオフィスで毎日暮らせば、お互いに神経に触るだろう事は避け得まい。因果な事だ。
 
海から見えた教会は、サン・ジョバンニ・バテイスタ(San Giovanni Battista)と知る。丘の上にあるようだ。もちろん登って見ることにした。 カピテナリー氏が、天辺にレストランがあると教えてくれた。じゃあ昼ご飯も食べて来よう。

​​旧市街は町の南側に位置していた。町の生い立ちはローマ時代に遡るのだそうだ。旧市街に入ると、道は狭く急な登り坂になって、家々の壁が覆いかぶさるように向かい合う。中世の造りだ。そうした家々が、ポーチや屋上を解放して5.6人が座れるかどうか、という小さい場所でランチ・タイムに観光客を相手に商売しているのを幾つか見た。そうして、かなり登って息が切れて来た頃、ふうっと視界が開けた。素晴らしい眺めの、広々としたテラスにたくさんのテーブルと椅子があって、そこは何とレストランだった。数人の人たちが、眺望を楽しんでいた、好みの飲み物のグラスを持って。もちろん私もその一人になった。ウエイトレスがやって来たのでスパゲティを頼むと、「料理はできない」と言われた。「じゃあ、何ができるの?」。「サラダ」。「どんなサラダ?」。「ジャガイモとインゲン豆とトマト」。「あ、そう… 」。それに白ワインをつけて注文した。誰も不満そうではない。みんな嬉しそうだ。だってこんな素晴らしい眺めなのだから。私も文句は無かった、その時は。
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幹線道路から教会を見上げる。
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狭い急な坂道を登りながら教会を見上げる。
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丘の上に、さらに高く聳えるサン・ジョヴァンニ・バテイスタ。

​坂を上り詰めて教会の前に立った。目を見張った。こんな小さな町に、素晴らしい芸術品が立っていたのだ。しかも、不思議なぐらいの大きな規模で、丘の上に … 。しばし眺めた。中にも入った。出て来て又眺めた。ところで些事ですが、教会の前に、素敵なレストランがあったのです。良いだろうナア、芸術品の前で、ゆっくりイタリア料理に舌鼓を打つって … 。カピテナリー氏の言うことに従えば良かった。
 
https://detail.chiebukuro.yahoo.co.jp/qa/question_detail/q1115541496

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​アラッシオ Alassio

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アラッシオの港。背後の崖に敷かれた古代ローマ時代の幹線道路が今も健在。
​アラッシオに着いて、これぞイタリアの港だ、と思ったことだ。男達が立ち働いている。綱を扱うのが手練れて速い。為すべきことを知っている。私が一言も言わないうちに、ボートはポントウーンに固定された。部品、技術者、付属品、船に必要なものは全てあった。ボートの装備点検も、修理も、保管も頼めた。クレーンが何本か立つ。レストランは一軒だけ。エスプレッソ1杯から食事まで出す。タバコを吹かしながらエスプレッソを煽る男達に混じって、私もコーヒーを頼んだ。もちろん場違いな自分を意識して、邪魔にならないように。
​でも、誰も英語が分かってくれない。レストランのバーテンダーすら。着いた時、目の前のカピテナリーらしき建物に入ったが、男性が一人いて何を言っても通じない。親切そうな顔に笑みを湛えて(ハンサムでもあった)、上背のある彼が小さな私を見下ろしていた。埒が明かないので諦めて、隣の舟道具屋に入った。そこにいた年配の男性にカピテナリーは何処か尋ねたが、もちろん通じない。「忙しいんだ。分かる言葉で言ってくれ」みたいな顔をされた。スゴスゴと出て、数軒先のイベント屋らしきドアを押して入ると、若い女性がいた。尋ねると、停泊料は彼女に払えばいいらしい事が分かった。そして「カピタンなんかここにはいない」事も分かった。フランスでは、マリーナには必ずカピテナリーがあって、カピタンが全てを取り仕切っていた。イギリスでも、名前はハーバー・マスターだが、システムは同じだった。しかしイタリアでは、港の責任者は海上保安庁(Guardia Costiera)に所属していて、停泊料の徴収などは何処かの事務所の片隅でやっている。考えてみれば当たり前の事だ。イギリスもイタリアも海運国だが、地理的条件が違う。イギリスは島国でヨーロッパの片隅にある。しかしイタリアは地中海世界のド真ん中にあって、アフリカ大陸に向かって突き出た位置にある。その南端のシチリアは、古来アフリカへの飛び石と呼ばれて往来頻り。かつては海賊が、今では密輸業者が潜み入り、難民も日々流れ着く。海上保安は最大重要事の一つで、呑気に代金徴収をしていれば済むのではない。したがってイタリアの海上保安庁は主要港に所在し、権威ある存在だ。観光客相手の仕事ではない。言語も然り。ここは地中海世界であって、ロマンス語の国々が隣り合い、アラビア語の国々に向かい合う。ジャーマニックの英語圏ではない。周知の事だった。
 
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アラッシオの海に朝日が上っていく。
事務所の脇にドアがいくつかあった。トイレとシャワーだ。その手前にスクリーンが分刻みに映し出されている。天気予報だ。海流を示したスクリーンもある。詳細な海上情報も貼り出してある。男達が集まっている。レジャーボートの持ち主らしい人も混じっているが、見るからに年来の熟練者。私などが割り込んでいく雰囲気ではない。ウロウロしていると、初老の化粧っ気の無い女性が急ぎ足でやって来た。スクリーンの向かい側に洗濯機と乾燥機が並んでいたのだ。その人は洗濯機の一つを開けて、洗濯物を乾燥機に移す、コインを入れる、ボタンを押す、… 。この人も手慣れていた。夫を手伝って長年舟を操って来た人だろう。その人が振り返って、つくねんと立っていた私を見て微笑んだ。柔らかく、温かい笑みだった。そうだ、私の洗濯袋も一杯になっている。洗濯をしよう!
 
崖が切り立つその根方の数十メートルしか無いような岸辺に、港は造られていた。崖を見上げると、見事な石造りの陸橋が、緩やかな傾斜をもって弧を描いている。古代ローマ時代に建設されて今日に至るまで二千年間、幹線道路として用に耐えてきた道路だ。ローマ人が行く所、道が無ければ道を造り、橋が無ければ橋を架けた古代ローマの遺産だ。
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遊歩道に敷かれた緋の絨毯。(不思議にも汚れていなかった。誰が洗うのだろう?)
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遊歩道の下に漂う海。
​西側には、一転して、延々と海水浴場が続いていた。この辺りからが、いわゆるリビエラらしい様相を呈して来る。レストランは「ここぞ!」とばかり所狭しと並びに並ぶ。手頃な値段のもあれば、気後れするような構えのもあって選り取り見どり。遊歩道には緋色の絨毯まで敷いてある。イタリアらしい、思い切った伊達男振りである。イタリアがもつ、華やかな側面だ。
 
https://en.wikipedia.org/wiki/Riviera
https://en.wikipedia.org/wiki/Maritime_Alps

​ロアーノ Loano

Picture新装して建つロアーノ港。
​港に入ってまごついた。広いのだ。東側はシップ・ヤードになっていて、西側が停泊場。その真ん中に近代的なコンクリートの3階建ての建物がある。建物には、ヨット・クラブの名前がデカデカと書いてある。しかしカピテナリーの表示は無い。カピテナリーが無いのなら、停泊料支払い事務所とか何とか、何でも良いから表示してくれないものだろうか。回り廊下に繋がる階段を登って100メートルぐらいの廊下を、それらしい事務所を求めて往復した。何も無い。人気も無い。こういう時には焦燥感は払い除けるべき。気を取り直して、改めて正面玄関に立って入居者一覧を眺めた。しかし私は何を探せば良いのか。カピテネリア・デイ・ポルト(Capitaneria di Porto)が、お門違いの場所であることはアラッシオで知った。では何を探せば良いのか?一覧を睨んでも見当が付かない。人に聞こうにも、人も通らない。これだから広いところは嫌いだ、と言ってみても始まらない。こういう時には常識が大切。正面玄関に入るとエレベーターがあって、その横に階段がある。それだけ。もし何処に行けば良いか分かっているなら、エレベーターを使うのかも知れない。しかし分かっていなければ、先ずは階段を使って2階に行くのが常道ではあるまいか。そうしよう。2階に登ってみると、左手に入口があって、入ると3人の女性がカウンターの向こう側に座っていた。受付らしい。何の事は無い。要は、近道を取ろうとして回り廊下なんかに登ったからいけないのだ。ちなみに、1階は入り口以外は全てシャワー・ルームやトイレ、そしてカヌーやデインギーないしは舟道具を収容する倉庫になっていた。2階は各種の事務所で3階は会議室や催し物用の広間になっていた。だから催し物がある際は、直接3階に行けるように階段があったのを、後で知った。

​「ボン・ジョールノ」と挨拶したが、しかしそれ以上のイタリア語は知らない。仕方がないから、「英語で話しても良いですか?」と英語で言ってみた。すると「オフ・コース!」と、流暢な発音で返って来た。真ん中の女性が得意気に私に微笑んでいる。両袖の2人はソッポを向いている。居心地は良くないが、だからと言って他に方法があるわけでもない。まだ日本にいた頃、アメリカ人が大きな声で、当然のように英語で誰彼となく道を聞いたりしているのを苦々しく思っていた。外国に来て、自国語で全てが通ると思い込んでいる慢心に腹が立ったのである。ある時、カナダ人の女性に会った。小柄で、可愛らしい人だった。その人が、幾つ日本語の言葉を知っているのかは知らなかったが、「すみません」「ありがとう」「そうですか」「はい」を繰り返し使って会話していたのを心がけの良い人だと感心した事だった。フランスには7年通ったが、どのマリーナでも誰もが英語で話していた。外国人の停泊者が殆どだったのである。又フランスは教育が行き届いているのだろう、何処で英語を習ったのかと聞いても、「学校で」という答えだった。けれどもイタリアに入った途端、外国船はめっきり減った。当然イタリア語しか聞こえて来ない。今後、少なくとも2年はイタリアに来続けるだろう。私もイタリア語を学ぼう。
​新入りがやって来て、私のボートの右側に停泊した。ローテイーンの女の子2人を連れたカップルだ。ご主人は外交的で、英語を話した。女の子の一人は娘で、もう一人は娘の友達だと説明された。娘は父親に似て外交的で、そして良く気も付いた。頻りに英語で話そうともした。友達の方はダンマリ。奥さんは控え目な人で、俯きがちの美人だった。ボートは買ったばかりで、海に出るのも初めてなのだそうだ。私がシングル・ハンドなのを知って、ご主人は目を丸くしたが、直ぐに学ぼうとした。意欲的な人だ。彼のボートはヨットなので、モーター・クルーザーの私のボートとは動きも、したがって構造も違う。ヨットは風に乗って波を切って走るが、モーター・ボートは波の表面を走る。特に私のボートは速度を焦点にして造ってある「ヴェリィ・ファスト・ボート」と類別されるもので、時速50km以上で走ると、波の上をサーフするようになる。ヨットは速くても時速9kmちょっと。文字通り桁が違う。が、私のボートは速度を上げれば上げるほど燃料を食う。つまり、速度は財布と相談の上での決定。その点ヨットは無料。それに静かだ。そして、あの、風に乗った瞬間の感覚を何と表現すれば良いのだろう ... フィッと、風に掬い上げられるように滑り出す、あの瞬間、そして風が帆に孕む、帆が唸る … ヨットを操るのは、少年時代からの夢だったのだそうだ。
​明日は祭日で特別の料理を食べる日だから、ぜひ来てくれと誘ってくれる。でも奥さんは英語を話さないから退屈させる事になるだろう…と私が躊躇していると、「ぜひ来てくれ」。翌朝町に出ると、成る程お菓子屋さんが賑わっている。皆大きなケーキの箱を抱えて出て来る。私も入って、色々な果物で飾った直径30cm程のケーキを誂えた。これにマスカットの産地、フランスのフロンテイニオン(Frontignan)で買った食後酒1本を添えて手土産にすれば良いだろう。「お邪魔します」と隣のボートに乗り移る。食事を共にするというのは、まあ楽しいはずのものだ。ただし幾つか条件がある。先ずは会話。会話さえ弾めば食べるものは、まあ我慢できる。又、食べるものが良ければ、食べるものに会話の花が咲く。あるいは共通の興味があれば、他には何も要らない。しかし今日は、会話のための共通の言語がご主人と私の間にしか無い。共通の興味も、ご主人と私の間にしか無い。奥さんは夫の夢に従って来ているだけだと言っても良いし、娘達はボートの操作云々に興味なんか無い。ヤレヤレ。キャビンの中を見下ろせば、奥さんが立ち働いている。夫が言葉も分からない他人を食事に呼ぶから、奥さんは忙しい思いをする。私は気が咎める。しかし、しかしだ、出て来た特別の料理というのは、何と、マカロニを湯がいてトマト・ソースを絡めただけのもの。そして、それだけ。ふと、パレルモで迷い込んだ家庭的なレストランでのスパゲッティ・カルボナーラのお粗末振りを思い出した。それでも奥さんは慎ましく聞き手に回っているし、娘達も礼儀をわきまえて父親の接客に協力している。健気な事だ。ここは一番、ケーキを振舞って労うだけの義務はある。
 
しかし事はこれで終わらない。「明日、友人達が浜辺でパーティをするから一緒に行きましょう。夜の海で泳ぐんです。」「いえ、だって ... 」「ぜひ行きましょう。ちょっと待って。電話で都合を聞いてみます。もしもし?」気の良い人なのだ。翌日、車で1時間余り行った所はキャンプ地のようだった。ただし広々とした芝生があるとか、水際の林の間だとかいった場所ではない。言うなれば、テントの長屋といった感じの連なりが隙間もなく立て込んでいる所で、眺め等といったものは無い。バーベキューも、通り道にテーブルを出して焼いているだけ。しかしながら、老いも若きも、中年も子供も一緒で、皆が歓迎してくれる。それぞれがソーセージを切っていたり、パンチを作ったり、ナスとトマトのオーブン焼きを出して来たり、肉を焼く火をおこしていたり、子供達は追いかけっこをして… 。何て楽しそうな人達だろう、私はいつも一人で食事をし、日記を書き、本を読んで暮らしているのに。

​ところで、山のように焼き上げられた肉だが、ソースが添えられているわけでも、肉がマリネされているのでもなかった。それでも一切れとってみたが、ゴムを噛んでいるように硬くて、味も無かった。でも誰もが楽しそうにおしゃべりをし、笑い、冷やかし合い、私の隣に座ったご老人はニコニコ顔で、私がイタリア語を分からないのも構わず、しきりにあれこれ言い(後で分かったのだが、相当に卑猥な事を言っていたらしい)、そしてもちろん、歌。それは、それは、情感込めて歌うこと、しきり。

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バケツにパンチを作って皆んなで飲むのがパーテイの始まり。
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食べ物も飲み物も割り勘、ないしは持ち寄り。
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両手を振るって指揮する人、熱情込めて歌う人、大笑いの人。
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​「アツフォガト・アル・カフェ(affogato al caffè)」。ロアーノ港内に並んでいたカフェやレストランの中に小さいバーがあった。そこで濃いコーヒーに一匙のアイスクリームを沈ませたものを、若いバーテンダーが私の前に出しながらその名を教えてくれた。以来、それが私の気に入りの飲み物になった。

​フィナーレ・リグレ(Finale Rigure)

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​その名からは「リグレ海岸の終わり」ということになるが、リグレ海岸は未だ続く。どういう理由でこんな名前なのか?歴史的な理由があるのか?はたまた独裁者の独断が為した結果か?調べてみたが未解決。
​「聞きなさい。強風が吹いたらどうするんだ。ここに沿岸のマリーナの電話番号一覧があるから、持って行きなさい。」「聞くんだ。エンジンが一つしか無いんだろう?もしエンジンが止まったらどうするんだ?」「聞くんだ。… 」。この人は、このマリーナで唯一英語が話せる人だから有難い存在だが、一行言う度に「リスン(listen)」で始める。まるで教師が聞き分けの無い生徒に言って聞かせる時のように。「貴方の物の言い方は、随分失礼な言い方なんですよ」って指摘したいのを堪えて事務所を出て来た。
 
こんな何も無い所に何故6日間も留まったのか、自分が決めた事なのに理由が分からない。しかも第一印象が良かったわけですらない。だって初っ端に、延々と聞き分けの無い生徒扱いされたのだから。しかし、こういう時ってある。ポカッと穴が空いたように、予測なく虚無に捕らわれてしまう時ってある。相棒があれば、そんなムードは即座に吹き飛ばされるが、一人だと捕らわれてしまう。こういう時はどうすべきか?留まった方が良い。こんな状態で海に一人で出て行ったら、先ず機転が利かない、対処出来ない、ヘマだってやる。海でヘマをやれば大事に繋がる。こういう時は、ひたすら日常の些事に励む事だ。「飲み水は十分かな?」「懐中電灯は充電してあったっけ?」「着いた時、ログ・ノートには何て書いたっけ?」「今日は何を食べよう?」気分の浮き沈みは、波の浮き沈みに似て定期的にやって来る。時に大きく、時に小さく。
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海浜にデッキチェアが並ぶ。
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町の広場にあった門。海に向かって立っているようだが、背後に港があるわけでは無い。飾り?
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町の広場。鳩が群れ遊んでいるのでも市場が立つのでもなかった。
毎朝、散歩を兼ねて朝食に出る。注文は、決まってコーヒーと*コルネット。海を眺めながらゆっくり喉に通す。そして、時には道を変えて、目に付くものがあれば立ち止まって、そして帰って来る。昨日はステンレスの部分を磨いた。今日は座席を磨こう。シミが付いていたのは何処だっけ。緩んでいるネジ釘をしめ、錆びている器具の錆を取り… そうやって午前中を遣り過ごし、昼食にしてシエスタを取る。目が覚めたら町まで散歩に出る。30分の距離。広場のカフェでアツフォガト・アル・カフェを飲んで、再び30分の道のりを歩いて帰る。そして夕日を見る。夜は日記を書くか、読書。そういう日々を数日続けると、ある日気分が安定しているのに気付く。
 
*コルネット:クロワッサンの形をした朝食用のパン。クロワッサンのようにパリパリしていなくて、むしろブリオーシュに近い。カスタード・クリームやチヨコレートを入れて焼いてある。


じゃあ出かけても良いかな?出発を告げに事務所に行くと、先日の「教師」がいない。でも代わりに応対してくれた人は、私が何をしに来たのかをちゃんと心得ていて、トイレとシャワーの鍵を受け取り、「グッド・バイ」と言ってくれる。すると「教師」がやって来て、ヤケに愛想良く、「貴女は遠路をやって来て、今日は何処までいらっしゃるのかな?」と、打って変わって丁重だ。ハテ、私のこれ迄の航路でも調べたのかな?いや、なんでも良い。さっさと発つに不都合無し。
 

​

​ヴァラッツエ Varazze

​沿岸にコンクリートのビルやクレーンが林立しているのが見えて来る。サボーナ(Savoa)だろう。大きな港湾都市だ。コロンブスが住んだ街として知られているが、私が行きたいような所ではない。私の目的地はヴァラッツエ。瀟洒なマリーナがあるはずだ。ところで燃料の針が半分以下を指している。着いたら入れた方が良い。給油所は大概マリーナの入り口近くにある。あった。私が給油所に向けてハンドルを回すと、大きな男性が出て来て「ベンジーナ、ノー・ベンジーナ」と大声で言って両手を振って「舟づけするな」という合図をする。給油所が燃料を切らすなんて珍しい事だ。が、無いなら仕方がない。
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サボーナ港を彼方に見る。
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ショウ・ウインドウが並ぶマリーナのプロムナード。
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カフェの一つ。内装は何処となく海がテーマ。
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水辺のレストラン。木彫りの魚が宙吊りになっている。
​マリーナは素敵にデザインされていた。建物が緩やかな弧を描いて水を囲んでいる。建物の中には色々な店が、イタリアの粋を並べたとばかりに取って置きを飾っている … 洋服、敷物、クッション、レース、食器、デイカンター、絵、宝石 ...ウインドー・ショッピングには又と無い所。もちろんレストランやカフェもワンサとある。どれもこれもインテリアに趣向を凝らしている。一通り見て目の保養をしたので、財布の紐をしっかり締めて私はスーパーを探しに出る。あった。何とマリーナの向かいに大きなスーパーが、私の用を満たそうとばかりに立っていた。さて、今夜の惣菜は何にしよう。
 
停泊料は€59(¥7,139)。これ迄で最も高い。いや、とんでもない高さだ。フィナーレ・リグレは€29(¥3,509)だったのだから。フランスの停泊料は一律だった。設備も然り。観光庁がちゃんと規定しているからだ。どうかすると設備がお粗末なところもあったが、総じて庶民の財布にあった設備であり、価格だった。さすがに「庶民」革命の洗礼を受けた国だ。しかしイタリアは違う。「高いゾー」と散々脅かされて来た、その脅しが現実になった。一晩で沢山。次に行こう。明日には燃料が入るそうだし、次のアレンツアーノ(Arenzano)は港も町の近くにあるし。
 


​アレンツアーノ(Arenzano)

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海沿いの遊歩道。
​​燃料も入れ、順調に航海してアレンツアーノのマリーナに入った。でも何処に舟づけすればいいのか分からない。ひとまず取っ付きのポントウーンにボートを着けて、事務所を探そう。事務所は直ぐに見つかった。小さい所はこれだから有難い。話がついてボートに戻り、エンジンをかけた。が、かからない。えっ、どうして?こんな事は、これ迄無かった。15分前迄は何の支障もなくて、サービスにだってちゃんと出しているのに。何度やっても掛からない。その内、私の難儀に人が気付きだして、やおら「これぞ、海の男」と言わんばかりの大男が「俺に任しとけー」とか何とか叫んでゴム・ボートに飛び乗り、当然大きく水がウネリ、歌舞伎なら役者が見栄を切る所、「テテンテンテン、イヨーツ」「イイ男!」がやって来た。そして上手に私のボートを曳いて着けるべき場所に舟づけしてくれた。レスキュー完了!
 
突如エンジンが掛からなくなった原因は何か?事務所の係員も、隣の貸しボート屋さんも、その隣のカフェのご主人も、三人頭を寄せて文殊(もんじゅ)にならんとの知恵しぼり。しかし、こういう時は永年の経験者こそ助け舟。貸しボート屋さんで油を売っていた(と私はその時思ったが、実は貸しボート屋さんのご隠居で永年のボート乗り)が「ふむ、燃料も入れて来たンだね?じゃあ燃料不足じゃない。サービスにも出したばかりなンだね?じゃあ機械の故障じゃない。エンジンの音は、掛かりそうなンだけど掛からないンだね?燃料は何だね?ガソリン?デイーゼル?」「デイーゼル」「フン、今朝入れた燃料は何だね?」「え?」
 

彼が知る技師が呼ばれ、彼が察した通り、その朝入れた燃料はデイーゼルではなくガソリンだったと確認された。デイーゼルとガソリンでは発火点が違う事を、私はこの時学んだ。こういう時は、タンクに入っている燃料を全部出して、タンクを洗って、改めて燃料を入れるだけしか手は無い事も。二日掛りで洗浄。ポンプの貸出料と手数料で合わせて€450、新しいデイーゼルが€268で総計€718の出費。扱いを怠ったのだから保険は効かないと保険会社に言われた。そこでヴァラツツエの給油所に弁償してもらうために連絡したが、返事は無し。ヴァラツツエに直談判に出向いたが、怒鳴り返された。せめて間違って入れた燃料代だけでも帳消しにしてくれと言ったが、「そんな事するもんか!」という返答。「だって、その女の人が、私に聞きもしないでガソリンを入れたんだから、その人の責任でしょ?」と私も言い返したが、今度は二人掛かりで怒鳴り返して来た。「燃料は入ったかと電話で聞いたじゃないか。」「貴方がベンジーナは無いと言って私を追い返したから …」「無かったのはベンジーナで、デイーゼルならあったんだ。」「だってベンジーナがガソリンだって、どうして私が分かると思うの?私達は英語で話していたのよ!」「フン、ここはイタリアなんだ!知らない方が悪いんだ」。この瞬間、イタリア語が分かることは礼儀の為でも心掛けの為でもなく、私自身の必要に変化した。
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燃料を入れ替える作業
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2日掛りの作業だった。
良い事もあった。アレンツァーノの人達は親切だった。私をレスキューしてくれた「海の男」も貸しボート屋さんのご隠居も、相談に乗ってくれた「文殊」さん達も。それにデリケテッスンの三代のご婦人達とピザ屋さんの親娘も。事務所の所長さんも係りの人も。デリケテッスンには毎日のように通った。お婆さんとお母さんと娘さんとが三人でお店を切り回していた。英語が分かるのは娘さんで、お母さんは少し話せて、お婆さんは微笑みを送ってくれた。お母さんが「私達は怠け者で、英語を勉強しないんですよ」と、ある日弁解した。私は恥ずかしかった。私はイタリアに長逗留するのに、イタリア語のカタコトすら学んでいない...。このお店での私の気に入りは、モルタデッラ・ハムだった。ニンニクの香りがして、ピスタッシオが刻み入れてあった。ピザ屋さんは毎夕混んでいた。出すのはピザだけ。サラダもワインも出さない。営業時間も夕方の3時間だけ。それなのに毎夕満席だった。きっと美味しいに違いない。でもどうしてツタンカーメンの絵が掛けてあるんだろう?事務所の係りの人に聞いてみた。「親父さんはエジプト人だからサ」。持ち帰るつもりで入ると、お客は既に無く、「親父さん」は頻りに明日の為のドウを捏ねていた。娘さんが注文を取ってくれた。二人はイタリア語で話していたけれど、イエメンで覚えたアラビア語で「親父さん」に挨拶してみた。「マッサ・オルヘイリ(今晩は)」。「親父さん」はキョトンとして私を見たが、私がさらに「ケフハーレック(ご機嫌如何)?」と尋ねると、私の手を両手で取って「タマン。タマン。シュクラン(元気です。元気です。有難う。)」と言って、目を潤ませた。ああ、そんなに嬉しいんだ、自国語を他国にいて耳にするって。その人が焼くピザは、ドウが美味しかった。とても薄いドウで、それがパリパリで、何とも言えない塩加減の良さだった。そうだ、エジプト人が焼く薄焼きのパンは、見た目にはフランスやオランダのパンケーキの様だっけ。あれは余程熟練しないと作れない薄さだった。その技術を、この人はピザに応用しているんだ。私達の遣り取りを、娘さんは黙って見ていた。

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ピザを焼く親父さん。
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ピザのドウを捏ねながら娘さんと語り合う。
​娘さんが翌日オートバイに乗って、私のボートの近くまで来て帰って行った。きっとオートバイを乗り回す姿を見せに来たんだろう。それは親近感を示した行為のように、私には思えた。ところで私が親近感を感じた人は、貸しボート屋のご主人だった。その人の店には又何故か、ボートではなく、車の写真が数枚掛けてあった。それも立派な額に入れて。尋ねると、彼はカー・レーサーだったのだそうだ。でもスポンサーが降りてしまって莫大な費用がかかるカー・レース等出来なくなって、父親の店を継いだのだそうだ。成る程この人が何処となく諦め顔で座っている理由が分かった。「三度炊く 飯さえ強(こわ)し 柔らかし 思うようには 成らぬ世の中」。これも母がよく口ずさんでいた一首だった。
 
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隣接する海水浴場。晴れの日。
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貸し自転車屋。マリーナの事務所の真上。
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同じ海水浴場。雨の日。
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マリーナに始まる遊歩道。自転車でスイスイと行ける。
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遊歩道沿いのアトラクション。サーフィンやら飲み物やらが期待できる。
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遊歩道沿いのアート。音楽からイメージを得ているようだ。
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遊歩道のアート。これはミュージシャンを描いた物のようだ。白状するが、私はポップ・ミュージックは全然知らないのだ。

​サンタ・マルゲリータ Santa Margherita

​隣の港はジェノア。上手に避けて通らなければならない。タンカーやフェリーの航路は決まっているから避けるのは難しくないが、その余波を被るようなことになったら大変。サン・トロペでの体験が脳裏に過ぎる。私のボート等、木の葉のように大揺れに揺れてひっくり返りかねない。又ジェノア港には飛行場が付随しているから、騒音が私の集中力を阻むかも知れない。私は騒音に弱いのだ。かなり沖に出て、まっすぐ目的地のサンタ・マルゲリータを目指すべき。ポルトフィーノの岬を回り込めば、後は観光気分で行けるはず。ポルトフィーノに寄らないのかって?あそこにはポントウーンが無いのです。それに陸路で行く方が眺めも良いだろう。丘の上から海を見下ろす眺めが良いのであって、海から見上げて、はてどんなものか。まあ、行ってみよう。
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ポルトフィーノの灯台が左手端に見える。
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かの有名な、歌にまで歌われたポルトフィーノの入江を見遣りつつ...
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入江近くに停泊していた帆船を認める。旗から推して、イギリス人かノルウェイ人の船。私にはこっちの方が眺めとしては良いような気がする。
Picture大小様々なボートが入り混じって停泊している。
​​無事ジェノアを遣り過して、ポルトフィーノを見上げて、やって来たのはサンタ・マルゲリータ。さすがに賑わっている …と言うか、混雑している。いや、交通整理のお巡りさんが必要か?大き目のマリーナには監視塔があるものだ。無くても、ちょっと高い建物があって、船の出入りが一望できるような所があるものだ。それが、ここには見当らない。ポントウーンの並び方も、かなり雑然としている。普通は番号が振ってあるかアルファベット順に並んでいるかするものだが、ここは右2列のポントウーンが青で名前を書いてあれば、次の3列は赤で違う名前が書いてある。綺麗に塗った看板もあれば、ハゲチョロケのもある。言わば勝手気儘。一体事務所は何処なんだ?
 
​港に入る度に何処に行けば良いか迷うのは、イタリアでは一定した制度というものが無いからだ。通常ならVHFで港の事務所に連絡を入れて指示を仰ぐ。国際港なら共通語は英語。そもそも観光庁か何なりかが、沿岸の全ての港の詳細に見取り図を添えて分厚い案内書を毎年出版する。しかし、そうした便宜はイタリアには無い。私が頼りにしているのは、イギリス人が書いた一冊の本だ。しかし10年以上も前に出版したもので、地形や気候は変わらないものの、港の内部が変わっていることは多々ある。電話番号然り。大体VHFで連絡しても、応答する港はイタリアには無い。国際港でありながら、英語が通じないのだ。千年の昔から、ヴェネツイアは組織的に動き、ライバルのジェノアは一匹狼で行動した。その伝統かどうかは知らないが、これでは勝手を知ったイタリア人しか入港できない。
 
ままよ、その辺にボートを着けて事務所を探すしか無い。隙間があったので乗り入れようとすると、男が出て来てダメだと言う。仕方が無いから戻って、小綺麗に整えたポントウーンの一つに空きを見つけてボートを留めた。すると隣のボートの男性が、このポントウーンはボート・クラブのもので会員用だと英語で教えてくれた。事務所で手続きをする間だけ留めて置いても良いか、30分も掛からないはずだと言うと、それなら構わないと言ってくれた。ついでに事務所の場所も教えてくれた。ヤレヤレ。捨てる神あれば、拾う神あり。これも母の言葉だ。
 
事務所に着いて見ると、そこは15分前にボートを留めようとした所だった。さっきの男が立っている。私は彼には構わず側の男性に停泊したい旨を言うと「もちろん」と言う返事。さっきの男は私達に気付いて何か言いそうにしたが、思いとどまった。どうやら私が話し掛けた人は責任者だったらしい。さっきの男の目的は何だったんだろう。停泊者の邪魔をする事?もしかしたら停泊者を選んで恩を着せる事?チップ欲しさに?事務所で知ったことだが、このマリーナでは事務所が管理しているポントウーンは僅かで、殆どが色々なクラブやら業者やらが1•2本のポントウーンを賃貸して管理しているのだそうだ。成る程、統一性を欠く訳だ

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繁華な町中の坂を登ると、住宅地になる。家の壁はピンク、欄干にはぐるりと鉢を並べてある。
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水色のゲートに水色のドア。家の名前の上に掛けてあるのは由緒ありげな木彫りのレリーフ。(末尾の写真参照)
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レストランやカフェがテーブルや椅子を出しているので、通行人は隙間を縫って歩くことになる。
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道路を真っ直ぐに造ることなど念頭に無いようなレイアウト。
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聖マルゲリータ教会(Chiesa di Santa Margherita ) 
町を一通り歩いた。賑やかで、楽しい雰囲気。ここはリビエラでも人気の地。誰もが寛いでいる。誰にも連れがある。私には無い。こういう時は少し寂しい。でも仕方が無い。サンタ・マルゲリータ教会の前のカフェに座る。何時ものように、午後のアッフォガト・アル・カフェを注文する。注文を取りに出て来たのはウェイトレスではなく、主人のようだった。服装がお仕着せでは無く、さり気ないが洒落た装いだった。その人は、私の注文を少し迷うような表情で受けた。そういう表情をされたのは初めてではない。フィナーレ・リグレの広場に面したカフェの主人も、そうだった。「アッフォガト・アル・カフェ」。「アッフォガト」は「溺れた」という意味だ。「アル」は「a」という英語の「in」に相当する前置詞と、男性名詞に付ける「il」という定冠詞が複合した言葉。だから文字通り訳せば「コーヒーに溺れた」ということになる。何が?アイスクリームが、ということだろう。フィナーレ・リグレのカフェの主人が持って来たのは、山のように盛り上げたアイスクリームのスロープを濃いコーヒーが滑り下りているものだった。サンタ・マルガリータ広場の女主人が作って来たのは、フルートではない広めのシャンパン・グラスに、アイスクリームと直径2cm位の小さな白いメレンゲを交互に並べて、その上に濃いコーヒーを回し入れたものだった。私は甘いものが苦手なので、ロアーノの若いバーテンダーが出してくれた一匙だけのアイスクリームを沈ませたコーヒーが丁度良かった。それに「名にし負はば 」に準ずるなら、やはりアイスクリームが「溺れて」いるべきだろう。が、注文に応じて、それぞれの創意で生み出したアッフォガト・アル・カフェを私は楽しんだ。味を、というよりは、その創意を。
 
組織化せずに、独自の遣り方で通すのがジェノア人だと言われれば、それも受け入れるべきなのだろう。時には、大変不都合なのだが。
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坂の上からマリーナを見下ろすと、遠目のせいか雑然振りが緩和されて見える。写真では、飛び交う怒鳴り声も聞こえないし。
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拡大した木彫りのレリーフ。古風な帆船のようだ。

​キアーバリ(Chiavari)

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マンションだろうが、昨今の建物よりは手の込んだ造り。
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細めの通りが右に左に続いて、小さな広場があり、また通りが続き...。
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書籍とは無縁のようなキアヴァリの町にも、本格的な本屋があった。
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本屋の内部。
​もうすぐ8月も終わる。疲れが出て来たらしい。この航行も、もうすぐ終える。ピサの港にボートを置いて冬を越すつもりだ。それにしても、このキアーバリという港は閑散としている。相当に広くて大型船も入れる造りだが、人が居ない、船も無い。ガランドウの岸壁にポツンとボートを置いて、またゾロ事務所探しだ。延々と歩く。誰にも会わない。自転車でもあればイイなあ。でも私は自転車に乗れないから、スクーターを買おうかなあ … 等と音を上げそうになって、やっと建物が見えて来た。建物の近辺には、小型ボートのポントウーンもあった。こっちにボートを持ってくる方がイイな。でも、今戻るのは嫌だ。疲れた。ドアを押して入るっ … 開かない!貼り紙がしてある。ランチ・タイムだそうだ。私もレストランで昼食にしようか?
 
港の前は駅だった。駅のカフェでコーヒーを飲んだ。でもレストランを探して歩く気になれない。「ここでサンドイッチでも取ればいいじゃないか」と、もう一人の常識ある私が言うのだが、駄々をコネタイ私が譲らない。そうして文句を並べ始める … 「緊急事態が生じたらどうするのか!」「ランチ・タイムでしたで済むのか!」「ここは海なんだ!」「交代の人員を置いて寸刻漏らさず対応すべきだ!」… まあ、そうやって時は過ぎた。事務所に戻ってドアを押す。今度は開いた。中に40代初頭の女性が、花柄のドレスを着て座っている。私に気付いて目を上げる。(ハハーん、パートだな?)と、私は思う。一体何が、どうしたから、私が怒鳴り始めたのか、分からない。何度考えても、思い出せない。ともあれ、私は憤慨この上無い剣幕でスタスタと足早にボートに帰って来た。そして眠った。
 
目が覚めた。もう8時。寝覚めが悪い。「あんまりじゃないか?」と、常識的な私が言う。駄々っ子の私は無言。そうしてブランデーに手を伸ばす。「やめとけよ!」と、常識派。「胃袋が空っぽナンだぞ!」と、追い上げる。その通りだ。朝食にコルネットを食べただけだ。チーズでも食べようか。美味しいオリーブもあるし。クラッカーはあったカナ?メロンにハムを巻いても良いし。パスタを湯がいて、ペストをかければ良いじゃないか?ソウダ!胡桃のソースを買ったじゃないか。あれを、かけよう!ワインだって冷えてるはずだし!
 
虫の居所が悪い、腹の虫の …そういうことか?日本人の名折れじゃないか?実は、私にはそういう気負いがある。地中海を、日本人がボートで乗り回すのは珍しい。珍しいと、一人の失態が日本人全体の評価に拡大しかねない。他に帳消しにする例が無いからだ。だから悪評を立てるような事は心して慎む。イギリス人は謝らない。どうでもいい時には、挨拶がわりみたいに「ソーリー」と言う。「アイム ソーリー。イズ デイス ユアズ?」「アイムソーリー。バット デイドウント ユー セイ ソー?」しかし、本当に謝るべき時には、謝らない。「謝ったんだから、お前が悪いに違いない」という判断を下されるからだ。詭弁という言葉を生んだ国だ。しかし翌朝、私は謝りに行った。すると、その人は和かに笑って、「良いの、良いの、気にしなくて」。以後、仲良しになった。色々と教えてもくれた。洗濯は、係りの人がいるから、その人に頼む事。中国の食品店が町にある事等々。
 
往年のカフェといった感じの店があった。昼間はコーヒーとお菓子を出しているが、夕方4時を過ぎると、ワインやカクテルを飲む人で賑わう。オリーヴやチップス、トマトペーストを塗った輪切りのパン等のツマミの一皿を囲んでおしゃべりをする。*スプリッツはこの時間の人気の飲み物。
 
いかにも「こだわりの店」といった感じのデリケテッスンもあった。店に入ると、プーンとチーズやハムの匂いがする。どうしても何か買わなければ損をするような気になる店だ。カジキマグロのカルパッチオがあった。少し塩が効き過ぎ。
 
小さな町にも立派な本屋があるのが目につく。ここにもあった。イギリスでは本屋の姿が消えつつあるが、リグーリアには健在する。
 
*スプリッツ(Aperol Spritz)苦味のあるアペロル酒をプロゼッコで割り、オレンジの薄切りを添えたカクテル。

​ポルトヴエーネレ Portovenere

ヴェーネレはイタリア語でヴィーナスのこと。したがって美の女神「ヴィーナスの港」という地名だが、何故ギリシャ神の名がついているのか。「美しい土地」だからか、それとも古代ローマ人がギリシャ文化に憧れたからか。そこでネットしてみると、紀元前1世紀頃は、ラテン語で「ポルテイス・ベネリス(Portus Veneris)」即ち「金曜日の港」と呼ばれていたらしい事が書いてあった。「金曜日の港」が「ヴィーナスの港」になったのは何故か。岬の頂に立つ 「使徒ピエトロ教会(La Chiesa di Pietro Apostolo)」の場所には、元ヴィーナスの神殿があった事によると書いてあった。が、サン・ヴェネリオ(San Venerio)という6世紀から7世紀に生きた人にも関連するとあった。彼はラ・スペジア湾の守護者で、後に灯台守の守護者として祀られたそうだ。
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パルマリア島と本土との距離。この写真を見て「ギョッとする程でも無い。ゆうに30m以上はあるじゃないか」などと言ってはいけない。風があり、波が立っていると舟は翻弄される。おまけに岸から10mづつ位は浅くて航行するのは危ない。つまり舟が通れるのは真ん中の10m位の間隔だけ。
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​「金曜日」も「ヴィーナス」も私には余りピンと来なかったが、「灯台守の守護者」なら頷ける。リグーリア海岸を南下してラ・スペジア湾にあるポルトヴェーネレに入るには、パルマリア島(Isola Palmaria)との、ギョッとする程狭い水路を通り抜けなければならないからだ。その上私が着いた時は空模様が危な気で、しかも風も出ていたので、軽いボート等は波に乗せられて、両脇の岩の間で弄ばれないとも限らない。ゴツンと当たったりしたら大変だ。が、パルマリア島を迂回して湾に入るには、さらに1時間は掛かる。夕刻も近い。天候が危うい。決断の時。エーイ!我がエンジンはボルボD4、280馬力。エンジンを信じて通ることにした。こんなに緊張したことも珍しい。思わず、歯を食いしばった。余談だが、歯医者に言われたことがある。「睡眠中に歯軋りをするみたいですね。歯が摩滅してます。余程緊張して寝てるんですね」。「歯軋り」と「歯を食いしばる」のとは一寸違う気がするが、ともあれ無事通った。港は湾の入り口にある。岸壁に着け、綱で固定し、雨を予期して幌を掛け、最後のジップを掛けた時、ポツリ、ポツリと大粒の雨が降り出した。何という幸運。この時は、守護者が付き添ってくれていたような気がした。

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ポルトヴェーネレのマリーナ。左手下の石造の平家建てに事務所やシャワー、トイレがある。背後の色とりどりの建物は立て込んで鄙びた趣。
​が、守護者は直ぐに去ったらしい。事務所に駆け込んで一晩泊めて欲しいと言ったら、€80(¥9,680)だと言われたのだ。あんまり吃驚したので「え、そんなに高いの?どーして?」と、つい言ってしまった。こう言っては何だが、設備は非道いわけではないが、立派なわけでもない、極々普通。ヴァラツイエで€59だと言われて「とんでもない高さ」だと思ったが、€80とは「呆れ果てた値段」だ。係りの人にその通りを言った。その人は20歳になったかならないかという若い真面目そうな人で、舟づけも黙々として手伝ってくれた。「私はイギリスからフランスを通ってイタリアのここ迄来たが、こんな高い値段を請求されたことは無い」とはっきり言った。確かにチンクエ・テッレの国立公園は近い。イタリアらしく傾いた貧し気な漁村の建物が、ある種の趣を生んでいるのも確かだ。が、それだけだ。バイロンがラ・スペジア湾を向こう岸まで泳いで恋人に逢いに行った、という逸話は残っている。が、だから一泊€80の停泊料を取るのか。
​翌日は早朝に発つことにした。腹が立っていた。何という商業主義。常泊しないボートからは幾ら取ってもいいと思うのか。観光客が集まって来るのを良いことに、幾らでもフンダクってヨシとするのか。政府が統制しないのを良いことに … いや、もう言うまい。翌朝、雨は止んでいた。風も凪いでいた。まだ朝靄が漂う中を、幌を外してフェンダーを上げていると、昨日の若者が中年の男性と歩いて来た。二人は頷きあって、そして若者は私の舟出を手伝ってくれた。私の苦情を、彼が中年の男性に話したことは明らかだった。私達の間には沈黙しか無かった。

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日の出前のポルトヴェーネレを発つ。
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雨は上がったが、未だ雲に覆われる空。
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東の空に赤みがさす。もう直ぐ日が登る。
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この日の朝は、海が殊更に凪いでいるようだった。
観光客が来なければ、ここは貧しい漁村だろう。ラ・スペジアは背後に控えているが、地理的にみると、ポルトヴェーネレはラ・スペジアの脇門といったところか。大型船は通れないが、小型船なら大丈夫だ。あるいはパルマリア島と共に、敵を挟み撃ちにするなら格好の場所だ。何より、監視塔としての役割にはモッテコイだ。そして背後の湾には艦隊が潜める。そういう場所は、しかし真っ先に討たれる。西ローマ帝国滅亡後、ポルトヴェーネレには東ローマ帝国の海軍が駐屯する。これをロンバルデイが7世紀半ばに破壊し、その後にはサラセン帝国の頻繁な攻撃に晒され、12世紀にはラ・スぺジアの領主からジェノアに引き渡され、15世紀末にジェノアがスペインのアラゴンと戦った時には、壊滅的な砲撃にあう。18世紀末にはフランスに組み入れられ、… イヤハヤ、こういう目まぐるしさは日本人には想像できない。ポルトヴェーネレの人々にとっては、今が一番良いのかもしれない。観光客相手に魚料理を出し、ペンション(簡易宿)の看板を掲げて寝室を泊まり客に提供し、しかし稼ぎ時は夏場だけだから、ココゾとばかりに€80の停泊料を取り… オヤオヤ、私も執念深い。それにしても「景観を背後にして立つ鄙びた漁村」といった現在の姿とは対照的に、その歴史は目まぐるしい。これがヨーロッパの歴史だ。 
 
https://en.wikipedia.org/wiki/Venerius_the_Hermit
https://en.wikipedia.org/wiki/Porto_Venere

​ヴィアレッジオ  Viareggio

​ヴィアレッジオの港は、ある種の人には知られている。どういう種かというと、大金持ちとボート・レーサー。港に造船所が隣接していて、そこでは豪華船とレース用のボートが造船される。ボート・レースを見たことは無いのだが、豪華船なら沢山見た。世の中には随分沢山の金持ちがいるものだ。それも途方もない金持ちが。
 
フランスのアンテイーべ港に泊まった時、黒い巨大な船が停泊していたことは先述した。フェリーかと思うような大きさだった。辺りを威圧するような巨大な黒い塊は、もちろん個人の持ち物で、港の係員もアングリ口を開けるような存在で、その停泊料を耳打ちしてくれた。一泊€5,000(¥605,000)だそうだ。実にそのボートの値段等、私ごときには想像もつかない。やはりフランスのボーリュに泊まっていたある日、かなり大き目の船が入って来た。こちらは白かったので威圧的ではなかったが、乗組員達が忙しくゴムボートで行ったり来たりして何をしていたかというと、まあ飲料水を補給していたようだった。後で近くのボートの持ち主が教えてくれたことだが、人口3,726人(2015現在)の町の、唯一のスーパーの飲料水の棚を空にして行ったそうだ。タグ・ボート付きの船を見た事もある。その船はエルバ島のポルトフェライオ(Portoferraio)港外に停泊していたが、船体の一部が開いて、中からタグ・ボートが出て来た。それがスルスルと浸水したかと思うと、ビューンと飛んで行ってしまった。いや、飛んで行った訳では無い、飛ぶように行ってしまったと言わなければ事実に反する。ともあれ、アタフタと数人が綱を掛けたり解いたり等という私達がする通常の経緯は無く、全てが電動。まるで「007」を見ているようだった。
Pictureヴィアレッジオの港内。
​と、まあ、そういう船が造られている隣へ、私はやって来た。利点があった。造船所があるからこそ、その周囲にはボートに必要な全ての部品を売る店に事欠かなかった。私も、エンジンに必要なフィルターの予備を買い込んだり、細々とした鉤やら釘やらを探したりしたが、全て揃った。もう一つ利点。港に着いた時、無駄だとは思ったが海上の慣例なので、一応VHFを取って港に連絡した。すると何と英語で応答があった。さすがに世界の金持ちが隣にやって来る港だ。有難い。VHFで誘導してもらって着舟。事務所でも英語が通じて細々と教えてもらった。

​話は戻るが
、この辺りには湾があるのではない。ポルトヴェーネレの岬から、エルバ島に突き出るピオンビーノ(Piombino)の岬迄、海浜がなだらかに伸びている。その海浜を眺めながら、ヴィアレッジオがそろそろ見えて来ても良さようだと双眼鏡を覗いていて、ふと気が付いた。私のボートが、大きな、大きな、とっても大きなウネリの上に乗っているのに。数百メートル四方に広がる、いやむしろ見晴るかす限りに広がる一枚の布の上に乗っているように。不思議な光景だった。こういうウネリは怖くない。その上にゆったりと身を委ねて居れば良いからだ。

​町は庶民的だった。高級品等見つけたくても無いような(実際無かった)町で、海浜客も同様、庶民だった。観覧車があって、アイスクリーム・スタンドがあって、運河沿いに常泊する小型のボートが、イカ、小エビ、小魚を小麦粉にまぶして油で揚げたフリッテを紙に包んで売ってくれる。ドッサリ入れて貰って€10(¥1,210)。一つの包みから二人で仲良く摘んでいるカップルが、運河沿いに腰掛けている。同じ物を向かえのレストランで食べれば二倍の値段。だから、この店には、いつも人々が行列を作っていた。午前中は、漁師のおカミさんや若い衆が、その朝釣れた魚を並べて即席の魚市が立った。農産物の市も町中に立った。
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海と内陸を結ぶ運河沿いにレストランや遊園地が立つ。
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売り物は、左がタコ、真ん中はイカ、右にあるのはアジ?
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こちらはエイのようだ。
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こちらもエイが主な獲物のようだが、小さく切って売るらしい。

次の港のピサへは、30分もあれば着くだろう。ウネリが出ていたので用心してこの港へ入ったが、気に入った。事務所には、停泊料金表が張り出してあった。夏場はともかく、9月から4月までは安価だった。ピサの港がどんな所か、停泊料がいくらか、私は何も知らない。ピサには飛行場があるから便利だが、私はここが気に入った。この冬は、ここにボートを置くことにしよう。話は決まった。これで、この夏の私の旅は終わり。
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ハテ、1億円ぐらい?
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便乗して、港では高級車の注文受付も時に設けられる。
​​9月に入った。目覚めると、凄い音がする。海上天気予報のサイトを開いて見ると真っ赤だ。嵐がやって来たのだ。いや、*ミストロルだ。外に出て見ると、それぞれのボートが付けている旗が、狂ったようにはためいている。凄い風だ。でも空は快晴。私にとって嵐というものは雨が付き物なのだが、ここの嵐は青い空の下で唸っている。嵐をもっと見ようと海に向かって歩いていくと、防波堤に高い波が思い切り打ち当たって砕けていた。素晴らしい眺めだ。他の人もそう思うらしく、波の荒れ狂う様を見ている。

​* 
ミストロル(mistral): ビスケー湾に高気圧が発生し、ジェノア湾が低気圧に覆われると、アルプスからの冷たい空気を引き込んで起こる風で、冷たく乾燥している。
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嵐の中を波が寄せて来る。
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さすがの荒波も、遂には消えることになる。
午後にはカイト・サーフィンをする命知らずが何人も出て来た。何と勇壮なスポーツだろう。唸る風に乗って、荒れ狂う波の上を滑って行く。そのうち私の「気に入り」が出来た。彼の姿を目で追う。物凄いスピードで浜に向かって行く。「危ないっ」と思わず身をすくめると、彼は上手にクルリと身をかわして沖に出て行く。波と追いかけっこをしていた坊やが、成長するとああなるのカナ。

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舟の舵が置き去りになって錆びていた。何かの記念なのか?
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悲しみにうなだれる女や老人の群像が立つ。

 
翌朝、風は凪いだ。が、グンと涼しくなっている。一昨日迄は30度を越える毎日で、昼下がりは暑くて外に出られなかったのに。次に小さいミストロルがやって来て去った。さらに気温が下がって、夜は掛け布団が必要になった。1週間で真夏から秋になった。同じ地中海でもフランスでは9月一杯は未だ夏だった。でもイタリアでは、夏は8月で終わるようだ。国土が海に突き出ているからだろう。海に向かって伸びる長い堤の途中に、群像の彫刻が立っていた。女や老人が身を屈めて俯いている。どの顔も一様に悲しみに歪んでいた。貧しい身なりの彼等は、恐らく漁師の家族なのだろう。夫や息子が漁に出たが、帰って来ない。そういう悲劇を語っていた。

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海と内陸を結ぶブルラマッカ運河。左手は海上保安庁。監視塔が見える。その背後が港。右手はレストランや遊園地が連なる。
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運河沿いのレストラン。毎朝朝食を食べに行った。常連は安くしてくれるのか、又は客によって値段を変えるのか、その辺はわからない。私はコーヒーとコルネットで€2払っていたが、コーヒーだけで€3請求されていた人もいた。

​陸路で フィレンツェ、 シエナ、モンテプルチアーノ、ラパッロ、ポルトフィーノ

10月の半ば、再びヴィアレッジオにやって来た。避暑客が去った町を、のんびりと歩いた。子供服の店があった。何となく入ってアレコレ買った。実は、娘のお産が近づいているのだ。男の子だそうだ。星やら、月やら、子グマやらが、あちこちに付いている。若い親達を喜ばせるための工夫だろうが、こういう仕事をする人達は仕事が楽しいだろうな。「仕事が遊びである人は幸いである」と言ったのはアンデルセンだ。包みを持ってさらに数軒先を行くと、又あった。こちらは安売りの店らしい。子供連れの母親が何人もいた。さらに行くと又あった。何で3軒も子供服の店が一つの通りにあるのだろう?しかし考えてみれば、これは客にとって便利だろう。子供服が必要なら、この通りに来て財布に合わせて店を選べる。
 
美容院が目に入る。そういえば髪が伸びて邪魔になって来ている。夏にマントンで切って以来だ。イギリスでは、日本円にして¥7,000は取られる。それに習慣として¥1,000位のチップを上乗せする。フランスのマントンでは、その半額だった。40歳位の美容師さんが、「どんな風にしますか?」と聞いたので、「貴女が良いと思うようにしてください」と答えた。すると彼女は俄然やる気になって、そして切り始めた。楽しそうだった。鼻歌が聞こえて来そうだった。工夫もしてくれているみたいだった。支払いの段になって、その人は一寸後ろめたそうに€35(¥4,200)だと言った。かなり時間をかけて切ってくれたのだった。でも私はそれに€10の上乗せをして払った。工夫をしてくれたし、何より上手に仕上げてくれたから。その人の顔がパッと明るくなった。自分の仕事の出来を評価されて嬉しくない人はあるまい。私も嬉しかった。今回は白髪の混じった男性だった。私が「貴方が良いと思うように」と答えたのは言うまでもない。彼も張り切ってやってくれた。彼も上手だった。自分の仕事が好きな人を見るのは楽しい。
 

フィレンツェ Firenze

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フィレンツェのシンボル、花の聖母大聖堂(Cattedrale di Santa Maria del Fiore)
​数日して連れが合流した。トスカーナに数日の旅行をすることにしたのだ。先ずはフィレンツェに電車で行って、街の真ん中に取っておいたホテルに落ち着いた。フロントで美味しいレストランは何処か聞いた。道々楽しそうな食卓の集いがガラス窓の内にも外にもあった。入ってみたいようなレストランも幾つかあった。教えてもらったレストランは通りが寂しくなった辺りに、やっとあった。中は暗かった。大して客が入っているのでもなかった。まあ静かで良い。カルパッチオが前菜の欄にあった。フィレンツェで食べるカルパッチオ!出て来た代物は、スーパーで売っているパッケージ入りのと何処が違うのだろう?違いはある?無い!かなり乾いていて、不味くはないが本物のカルパッチオの、あの柔らかさは無い。やっぱり食べる店は、自分の勘で歩いて見つけるに限る。それが又楽しみでもあるはずだ。

ウッフィツィ美術館(Uffizi Gallery)に行かなくちゃフィレンツェに来た意味が無いと
連れが言う。「じゃ切符買ったら?」彼はしばしネットを睨んでいて、遂に「アイ・カーント・ビリーブ・デイス。ゼア・イズ・ノー・サイト・トウ・ブック・テイケッツ!」と叫んだ。「そんな事って、今時ある?」私もオンラインで見てみた。ちゃんと出て来た。明日の切符1枚€16。2枚買って落着。「買ったわよ」。「ハウ?」私はコンピューター・スペシャリストではない。彼はそう。目下大学院のフェローシップとして活躍中なはずなのだが、どうしてこんな単純な日常茶飯の操作ができないのか。が、それは私はどうでもよい。しかし、どうでもよくないことが翌朝あった。
Pictureこれもフィレンツェのシンボル、ポンテヴェッキオ(Ponte Vecchio)。直訳すれば「古い橋」。
​ウッフィツィ美術館の前には長蛇の列が、文字通り蛇の如くに何重にもトグロを巻いていた。私達もそのトグロの尻尾についた。尻尾はドンドン長くなる。背後のカップルが英語で話している。彼等の切符は€70だったとか何とか…。そんな事ってアリ?私は公式サイトで買った。彼等は何処で買ったのだろう。しかしその人達に、その事は言わなかった。折角の美術館訪問に、ケチを付けるようなことになっただろうから。ともあれ、美術館では堪能した。古代ローマの皇帝やら英雄やらの胸像の列が、私には古馴染みのように思えた。塩野七生が書いた『ローマ人の物語』15巻を夢中で読んだが、そこに語られていた人々の像を前に「ふーん、こんな顔の人だったのか」とか「へーえ、意外な御面相」とか思って、「物語」に付録写真を補充してもらったような気がした。これなら€16どころか€20出しても良いと思った。しかし、どうでも良くない同様の事が、その後「ダビデの像」を見にアカデミア美術館に行った時にもあった。ここでもトグロ。その尻尾についていると、女の人が待ち人に頻りに声を掛けている。「€40で横入りできますヨっ。」「!」私達は見ないで去った。
​

ズッキーニのスフレが美味しかった。二晩目の夕食は、勘を頼りに歩いた。ところで連れは飲み食いが好きだ。甘い物も辛い物もお酒も。私は軽いホンノリとした味の物が好きだ。連れが匂いにつられたように入って行った店に、私も続いた。私が何を注文したかは思い出せないのだが、連れが注文したズッキーニのスフレが絶品だった。小さなスフレをスプーンですくって、二人とも舌鼓を打って大満足。ホテルに帰ってバーで食後酒を飲んだ。私はアーモンドのリキュールに氷を一つ入れてもらって。美味しい食べ物を少しで良い、食べると心がゆったりと満ちる。
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フィレンツェ郊外に広がる葡萄畑。
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中世に建てられたレンガの建物が並ぶ。一階は頑丈な扉に鉄格子の窓。まるで武装しているかのようだ。

シエナ Siena 



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​翌朝レンタカーを借りてシエナへ。シエナはフィレンツェのライバル。両方とも中世に銀行業務を確立して富を運用している。しかし今日比較してみると、二つの街は規模も造りも明らかに違う。フィレンツェの街の造りは開放的で、面積も広い。他方シエナは、何処もかしこも高い煉瓦の壁が張り巡らされた城塞の様相だ。1260年、40万のフィレンツェ兵がシエナを包囲したモンタペルテイの戦い(Battaglia di Montaperti)で、フィレンツェの傲慢な要求の前にシエナの兵が死闘してフィレンツェ軍を壊滅させた時以外は、フィレンツェの方が常に優位を占めていた。実はシエナでは、内部にもライバルの凌ぎを削る争いがあり、とかくに統制を欠いたからだそうだ。フィレンツェの街は教会や美術館の美しい建物に飾られている。が、シエナの美しさは、街の外に広がる、なだらかな丘の連なりにあるような気がする。トスカーナと言われて先ず私の脳裏に浮かぶのは、靄に覆われた緑の丘の連なりだからだ。
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浅いすり鉢型のカンポ。傾斜があるから寝転ぶのか?広場で寝転んだり靴を脱いだりするのは法律違反だと言う説もあるのだが...。
カンポ(Piazza del Campo)は、今日的にいっても斬新にデザインされた広場ではないか。通りからカンポに出ると、誰もが地べたに座ったり寝転んだりしている。何故だろう?連れは直ぐにその気になって寝転がる。私は衛生観念というものがあるから、地べたに寝転がるのなんかはゴメンだ。話は飛ぶようだが、父が引退して、意気揚々とジーンズを買ってきた。自分のためばかりか母にも。すると母は、「そんなナッパ服を着るのなんか、私は嫌です!」と言ったそうだ。この時の私も同様の気分だった。むしろ周囲のカフェが出しているテーブルに席を占める方が良い。(もしかすると、私は非道く退屈な人間なのかも知れない。)ところで、カンポは何故浅いすり鉢型なのか。その点は調べても分からなかったが、シエナの「全ての道はカンポに通ず」るという事は書いてあった。それにこの広場は全ての住人が集まれる大きさに造ったとも。...と読めば為政者が民主的だったように聞こえるが、非道く恐れられて、為政者や権力者が通る道とは別の道を造って人々は歩いた ... という事も書いてあった。
Pictureトーレ・デル・マンジア
​トーレ・デル・マンジア(Torre del Mangia)はカンポに立つ塔だが、14世紀に建てられた、イタリアではクレモナ大聖堂に次いで高い塔(102m)。デザインはイスラム教のミナレットに習ったそうだが、中にはコートヤードがあって、こちらはローマ以来の伝統。妙なのはその名前。訳せば「食べる者の塔」。どうやら浪費や無益な行為を皮肉っているらしい。又、その高さは大聖堂の高さと同じで、教会と為政者の権威は同等であることを意味しているのだそうだ。権威を視覚的にも示して、まるでダメ押ししているかのようで、私には何となく殺伐とした雰囲気が感じられるのだが、偏見だろうか。

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シエナ大聖堂(Duomo di Siena)
​​トスカーナの緑の丘の連なり ... 私がこよなく憧れる風景だ。その風景はシエナで泊まったホテルの裏庭に広がっていた。

 
https://www.visittuscany.com/en/ideas/siena-a-fascinating-city-with-a-turbulent-history/
https://www.discovertuscany.com/siena/piazza-del-campo.html
​https://en.wikipedia.org/wiki/Torre_del_Mangia
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朝食後、裏庭で景色を堪能する。

モンテプルチアーノ Montepulciano

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ホテルからモンテプルチアーノの町を見上げる。
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​モンテプルチアーノ(Montepulciano)に泊まったのは、ワイン目当てでも、チーズが食べたかったのでもない。フィレンツェに戻るのに、同じ道を通りたくなかっただけだ。しかも田舎道を通りたかったので、グーグル・マップを頼りに通りすがりの町に寄ったり、眺めたり、ワインを飲んだり、さんざん寄り道をして夕闇が迫る頃、そろそろ宿に行くことにした。しかし田舎道を随分走ってトップリ闇に包まれても、何処にも着かない。連れが不機嫌になっている。私のナビゲーションに疑いを抱き始めているのだ。「フイッチ・ウエイ?ライト?オア・レフト?」「ウイー・パスト・デイス・ロード・サーテイー・ミイニッツ・アゴー!」本当?真っ暗闇なのに、どうして同じ道だなんて分かるのかな?そして、しかしだ、何と、遂に、道が通行止めになっている。はて、どーしたものか?もちろん例によって、ありったけの罵詈雑言が車内に満ちたのは言うまでもない。幹線道路に戻るしかない。どうせ小一時間の道のりだ。そうしよう。で、もう直ぐ町という所迄来て、しかし私はこの日は郊外に宿をとった。町に行ってしまってはいけないのだ。その宿は何処なのか。またぞろ暗い田舎道をどの位走ったろう。辿り着いた時は、もうレストランは終う時間だった。怒るだろうなあ、連れは。何しろ明日、彼はイギリスに帰るのだ。つまり、彼にとってはトスカーナの最後の晩なのだ。美味しいものが食べたいだろうに。今夜は夕食抜き?「町のレストランは終う時間だけど、家のレストランは開いてますよ」と、ご主人。

​かなり広々とした田舎風のレストランに入ると、近隣の住人らしい人達が会食している。メニューにはカルパッチオがあった。当然注文した。乾いていた?スーパーで買って来たものだった?この宿は、ご主人が宿泊を担当し、奥さんがレストランを受け持っていた。奥さんは数人のコックを指揮して、手作りのカルパッチオを出してくれた。風味あって、柔らかく、舌の上でとろけるようだった。ワインは、もちろんモンテプルチアーノの一瓶。未知の土地を旅すると、予期せぬことが多々ある也。翌朝宿を出ると、トラックが停まっていた。トラックに山積みになっていたのは茸。「ポルチー二さ」と、ご主人。
​フィレンツェから電車でピサに行き、連れは飛行場へ、私はジェノア行きの電車に乗ってラパッロに向かう。

ラパッロ Rapallo

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Picture部屋のバルコニーから港を見下ろす。
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昼間の光景。
​​​ラパッロのホテルは小高い所にあった。バルコニーに出ると港を見下ろす位置になる。見慣れない光景に、少し混乱したような気になる。だって私はいつも港から町を見上げているのに、今夜は町から港を見下ろしているからだ。港にいると、水が周りにあるのは当たり前のことだ。だから、いつもは水が側にあるのは当たり前で気にも留めない物なのに、こうして遠くから水を見下ろしていると、水が、とても美しいものに思える、そして見つめる、... 何だか、いつもの水が、違う水のように思える。そして水の側に行って、ボートに乗って、景色の一部になりたいと思う。で、いつもはその景色の中にいるのに、景色の中にいると、美しい水という存在が当たり前過ぎて、目に留まらないものになってしまう。
Picture町から港を遠望する。左手水平線上に停泊中のボートが見える。
サンタ・マルゲリータの後でラパッロに来てみると、静かだという印象を得た。サンタ・マルゲリータの人口は9千人余り(2019, wikipedia)、ラパッロは人口3万人(2017, ISTAT)で、町の規模としては桁が一つ違う。人口密度で見ると前者は918人/km2で、後者は1,189人/km2。密度はラパッロの方が高い。つまり、サンタ・マルゲリータの賑わいは、観光客によるものだとわかる。ラパッロにも海はあり、背後には車で10分、自転車で15分の所に、サン・マウリツィオ・デ・モンテ (San Maurizio di Maonti) がある。近隣には500mから700m級の山が幾つかあって、登ると景観が楽しめる。ピクニックを用意して自転車で行ってみようというのは、若い人には良いだろう。塾年はタクシーを呼んだ方が良い。傾斜がかなり続くのだ。しかし何と言っても世界に名を馳せるポルトフィーノが反対側にあるので、観光客はサンタ・マルゲリータを拠点にして反対側に行ってしまう、ということであるらしい。

翌朝。ホテルを出て、バスに乗って町に行く。ウインドー・ショッピングをするのでも、ランチを食べるのでもない。バス停を見つけて、ポルトフィーノへ行くバスに乗るためだ。来る途中、「ポルトフィーノ行き」と書いたバスが通り過ぎたのを見た。直行があるんだ。シメタ!

​しかし、何でこんなスッタモンダの遣り取りになったのかが分からない。後で考えると、こういう事だ。私は直行便があると思っているから、「ポルトフィーノ行きの往復切符を1枚」と言った。売り子さんは、「ポルトフィーノ行きの直行は午前中に2台出るだけで、今日の分は両方とも既に出てしまったので、サンタ・マルゲリータで乗り換えなければならない。だから、サンタ・マルゲリータで、改めてポルトフィーノ行きの切符を買ってください」と言ったつもりだったらしい。カタコトの英語を聞いて、私も分かったという素振りをした。しかし、当然、私はサンタ・マルゲリータで降ろされた。そこで私は「ポルトフィーノ迄行くのに、こんな所で降ろされては困る」と運転手に言った。が、彼には英語が通じない。笑って手を振って、行ってしまった。そこで私は切符売り場に行って、苦情を言うことになった。「ポルトフィーノ迄の切符を買ったのに、ここで降ろされてしまった。どうしてくれるの!」順調に事が運んでいる時にはカタコトでも間に合う。しかし少しでもヒネリが出ると、カタコトでは間に合わない。そういう事だ。

​ところで何故ラパッロにホテルを取ったのか。ポルトフィーノが目当てなら、サンタ・マルゲリータに取った方が便利だったろうし、何ならポルトフィーノに泊まったって良かったはずだ。しかし私がラパッロを選んだのは、ラパッロのマリーナで玄関払いを食ったからだ。お陰でキアーバリ迄行くことになった。だから既に見たサンタ・マルゲリータに泊まるよりは、見ていないラパッロに泊まろうというのが私の意図。経済的にみると、ラパッロのホテルが一番安目だった。知らなかったのだが。大雑把に言うと、サンタ・マルゲリータでは1万円札を1枚か2枚上乗せしなくてはならなくて、ポルトフィーノなら10枚上乗せする事にもなりかねない。が、ホテルは色々ある。注意すべきなのは、設備に応じた値段かどうかに注意することだ、特にポルトフィーノのホテルを予約する時は。
 
考えてみれば、サンタ・マルゲリータで停泊した時に何故ポルトフィーノを訪れなかったのか。笑わないで欲しい。そんな事は考えもしなかったのだ。思うに、海上を行く時と陸路を行く時とでは、私の視点が違うようだ。海上にいる時は天気に最大の気を配り、風向き、風力、波を常に見て日程を決める。けれども陸路で行く時は、私の気の向くままでいい。言い換えれば、陸路は私の気分次第、海路は風神の思惑次第。

キオスコ・デラ・ミュージカを訳せば「音楽のキオスク」という事になる。英語にはバンド・スタンドという言葉があって、文字通り「バンドが立つ場所」に使われる。二つは同様のものを指すようだ。日本語には該当する言葉がない。盆踊りに使われる「ヤグラ」に相当するのかもしれないが、あれは仮設だ。こちらは常設。丁寧に天井画まで描いて華麗だ。比して外観は、見逃してしまう程にさりげないが。いずれにしても夏の夕べに、住人が野外で夕涼みがてら音楽を楽しむ、という趣向は共通する。
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キオスコ・デラ・ミュージカ(Chiosco della Musica)の天井画。
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キオスコ・デラ・ミュージカの外観。四重奏なら入りそうな大きさ。

ポルトフィーノ
​Portofino

Picture水辺のレストラン。後方、丘の上にカステロ・ブラウンが見える。
​海からポルトフィーノを見上げた時は、あんまり近寄らない方が良いという事位しか考えなかった。私のボートはヨットと違って、水深はエンジンを上げれば40センチだから、かなりの浅瀬もクリアーできる。しかし入江が込み入って崖が切り立っている場所は、海底も岩場な訳だから、近付かないに越したことはない。だから遠目に入江や崖を見て通り過ぎた。どういう感慨も浮かばなかった。そういう意味では、モナコを通り過ぎた時もそうだった。海からモナコを見ると、大きい船が何隻か停まっていたが、その背後の港が華麗だったとか、美しい建物が居並んでいたとかいう光景は無かった。「何だ、これだけ?」と私は思ったことだった。ポルトフィーノ然り。

が、陸路を行くと、景観が延々と続く。長い遊歩道を辿っていくと、曲がりくねった細道が上ったり下ったりして、眼下には常に海が、揺れている。鄙びた漁村の佇まいも、城からの景観も詩に謳われてさもありなん。

Pictureカステロ・ブラウンを中央に見る。
ポルトフィーノの入江を写真に撮るには、カステロ・ブラウンから撮るのがいい。ところでブラウンという名は英語の名前だ。何故英名がイタリアの城についているのか。そもそもこの建物は古代ローマ(3世紀頃)から軍用として使われたそうで、下って15世紀頃からはジェノアの要塞としてカステロ・デイ・サン・ジョージオ(Castello di San Giorgio)と呼ばれて、ヴェンテイミィリア(Ventimiglia)と共に海岸線を守る要塞だった。しかし1797年、ナポレオンの攻撃によってジェノアが崩壊した後は、フランス軍が駐屯する。それをイギリス軍が攻撃、対してフランスも要塞の装備を補強してイギリスに対抗...という図が展開した。何といっても見張り台としては、絶好の場所にある。が、ナポレオンが失脚し、1815年のウィーン会議を経て、1867年には要塞は正式に武装解除となった。ポルトフィーノに平和が訪れたようである。時を置かず、英領事としてイタリアに赴任していたモンタギュー・イエイツ-ブラウン(Montague Yeats-Brown)が要塞(城?)を購入し、ヴィラとして改装した。それで英国人である彼の名前がついたというわけだ。英語ではブラウン・カッスル、イタリア語読みにしてもカステロ・ブラウン、がっかりする程平凡な名前だ。建物はポルトフィーノの名前に恥じる程、美しさからは程遠い。何しろ要塞だったのだから、期待する方が無理だ。

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カステロ・ブラウンの入り口

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城の内部。踊り場の窓外に庭の木が枝を広げてステンド・グラスのようだ。
Pictureレリーフの一つ
​ともあれブラウンは、イタリアで市民権を得ていたポルトガル人の建築家アルフレド・ダンドレッジ(Alfredo D'Andrade)を招いて改装にかかる。ダンドレッジは若い時から絵画にも興味をもってジェノアで美術を学んでいるという人だし、他にも芸術家の友人たちにアドバイスを得たりして、ブラウンとしては美的にも質の高いヴィラにする意図だったようだ。1880年代、方々の教会が持ち物を売り払うような時にはレリーフ等を買い上げて、城の内部やテラスを飾ったそうだ。どうやら彼自身が芸術志向の人であったようだ。古物市を物色して歩いたのかもしれないイギリス紳士の姿が、脳裏に浮かぶ。伝えられている所によると、彼は結婚(1870)の記念として二本の松を植えた。一本は彼のために、もう一本は妻のために。なかなかロマンチックな逸話だが、今日に至っても、松はこの土地のシンボルのように城を飾っている。

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​かくして一時は芸術家や有名人で賑わい、この小さな漁村はファッショナブルな遊楽地であったようだ。ジェノアから僅か30kmの場所にあるという地の利も、助けになったに違いない。ブラウンは外交官だったのだから、訪れる人も国際的だったろう。1905年にブラウンが亡くなり、第二次大戦後には、ヴィラはイギリス人の夫婦が買い取って傷んだ箇所を修復したが、1967年にはジェノア市に売り渡している。現在はジェノア市が催し物会場に使用しているので、基本的にガランドウ。私が訪れた時には、絵の個展が一室で開かれ、他の一室では音楽の実演が細々と催されていた。
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緑に覆われ、色とりどりの花が咲き、その背後には常に海が揺れている。

Picture入江からテイグリオ湾(Golfo Tigullio)を望む。
私見を言えば、城は見るほどのものではない。入口などは、ヴィラの玄関というよりはコテージのドアのようだ。しかし城からの景観が絶品。色とりどりの細長い建物がポルトフィーノの入江を囲うように並ぶのが眼下に広がる。有名なポルトフィーノの景観だ。加えて、半島全体が木々と花々に溢れていた。栗、オリーブ、ヘイゼルナッツ、樫、松の木々に加えて、地中海の植物が集められているのだそうだ。野鳥の種類が豊かだという解説もあった。その中を細い道が縫う、教会へ、見晴らし台へ、灯台へ、墓地へと。ポルトフィーノ自然公園(Mount Portofino Natural Regional Park)は、1935年に、半島とそれを取り巻く海をも保護して出来たそうだが、自然を生かして作った細道を、所々に海を垣間見ながら辿る楽しみが、城を訪れた人々を魅了する。私もその一人だった。


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チプレッソ(イタリアの松)が周囲の広葉樹とコントラストを見せる。
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イタリアン・ファッションで飾られたショウ・ウィンドウ。
​http://www.liguriaguide.com/castello-brown.html
https://www.spottinghistory.com/view/9666/brown-castle/
https://www.in2013dollars.com
https://en.wikipedia.org/wiki/Castello_Brown#cite_note-BaberBaber1965-1
https://www.italyscapes.com/places/liguria/portofino/castles/castello-brown/
https://www.portofinocoast.it/en/parco-naturale-di-portofino.aspx
http://www.aboutliguria.com/regional-park-of-ligurian-portofino.html

又々、夏の終わり

リグレ海岸を旅して来て思うに、それぞれの土地に親しみを感じるものの、何と言ってもポルトフィーノがその鄙びた美しさによって抜きん出ていた。半島全体を保護地に指定して公園を造ったジェノアの自治体が、その功に大きく寄与していると思う。加えて一流ホテルが豪華な設備を誇る。6月に、二人二泊で70万というのもあった。そういうホテルに泊まる金持ちと、鄙びた漁村の住人との差を云々するよりは、私はそれもこれも受け入れようという気持ちになる。何故か?ブラウンという一個人が、私財を投じ、自らの目で品々を選び、こよなく愛しただろう景色を、誰もが愛して良いと思うからだ。ブラウン・カッスルなんて「ガッカリする程平凡な名前だ」等と悪口を書いたが、資料を読んでいくにつれ、ブラウンの想いに、私も誘われて行くような気がした。

さあ、イギリスへ帰ろう。(2017年10月22日記)

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