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定年後をどうやって暮らそうか、と思案している方々へ

​​避寒地 その4 サラワク・ボルネオ
クチン

​冬の到来

​イギリスの家は寒い。天井が高い上に、隙間風が入る。暖炉に火を入れて、燃える木の香りが部屋に満ち、火のはぜる音を聞き... というのは、詩的かもしれないけれど実際的ではない。薄寒い状態で、体も気持ちも悴む。暖かい所が良い。
 
世界地図を頭に浮かべる。緯度で測れば、冬でも温暖なのはシチリアが北限。しかし冬はエジプトでも冷え込む。エジプトの土地はその殆どが砂漠だから、冬は寒暖の差が激しい。昼は夏服で良いが、夜はコートが要る。アブ・シンバルを訪れた時は、早朝に目的地に着くためにナイル川を宵の口にバスで発った。真冬の身支度をするようにガイドに忠告された。夏ナイロビ空港に着いた時、迎えに来ていた友人がキルテイングのコートを着ていて意外だった。ナイロビの標高は1795mだから、夜は冷えるのだった。昼間は...とか、平地なら...とかいう条件付きでない、掛け値なく、平均して暖かい所は何処か。北アフリカは、条件付きになりがちだからやめておこう。カリブ海も、冬は高いから論外。冬の方が良い土地は、サテ、何処か。... 東南アジア。冬は気温も湿度も過ごしやすい程度に落ち着く。
 
35年前、息子は8歳、娘は3歳になっていた。そこで夏休みの2ヶ月をマレー半島で暮らした。娘は小さなリュックにオモチャを入れ、息子は地図などを、親たちは大きなリュックを背負って。先ずバンコックへ飛び、半島の東海岸を下ってシンガポール迄行き、その後は西海岸に沿ってバンコックへ戻った。山間地には入らなかったが、しかしマレー半島は「見た」という気がする。フィリピンは7641の島々からなる国だから、水の国だ。美しいだろう。ギリシャの島は227だから、フィリピンでは「おーい」と呼べば、隣の島から「おーい」と応えるぐらいの密度で島が点在しているのだろうか。行ってみなければ分からない。しかし彼の国は保安が案じられる。政情の安定は如何に、という意味では、ミヤンマーもカンボジアも「おおらか」に暮らせるかどうかは分からない。いや、何より、東南アジアの国々は、日本人が気楽に行けるような所ではない。戦後70年が過ぎたが、だからと言って汚点が帳消しになるわけでもない。では止めておこうか。いや、避けることによって帳消しになるのではあるまい。知ることによって、それは始まるのだ。
 
ボルネオはインドネシアの島の一つだが、北部はインドネシアではない、マレーシアの一部だ。「サンダカン 死の行進(Sandakan Death Marches)」があった土地だ。そしてオランウータンが生存する。しかしそれ以上は知らない。知ろう。行ってみよう。

クチン

​ロンドンからボルネオへの直行便は出ていないから、クアラルンプール経由になる。国内線に乗り換えて、さてボルネオの何処へ飛ぼう。クチンにした。湾に面していて、人類の直感からして住まいを築くのに適していただろうと思えたからだ。地図を見ると、インドネシア、フィリピン、ベトナム、カンボデイア、タイ、マレーシア、シンガポールが、ボルネオと南シナ海を囲むような形で位置する。この円の中でクチンは中心にあり、地理的に利を得ていると見える。しかし、歴史はどのように動いて来たのか。
 

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機内からクチン近郊を見下ろす。
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サラワク州立法議会ビル(Sarawaku Legistrative Assembly Building)
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クチン中心部に近いサラワク川の川辺り。
飛行機の中から見たマレー半島は、ヤシの木が広範囲に植林されて整然として見えた。ボルネオでの今回の住まいは、街の中心から車で10分位の所にあるホテルの離れだ。午前中には、ホテルが街中までシャトル・バスを出してくれる。飛行場への送り迎えもしてくれる。迎えに来てくれた人はなんとイギリス人で、奥さんと共に数年前に移り住んだのだそうだ。彼は(ボブという名前)収納庫で集配係をしていたが、スポーツ・ジムのインストラクターをしている奥さんの提案で、彼もやって来てホテルで送迎係をしている。送迎の他にも何かしていたようだが、よくバーのカウンターに座っていたので色々教えてもらった。

住居

Pictureホテルの入り口
ホテルの建物は伝統的な造りで、植物がよく育っている。庭も隅々まで掃き清められていて気持ちが良い。プールの長さは15m位か。私の部屋は「一番遠いところにあるんですよ」とボブは済まなそうに言った。私の部屋は、そこだけゲートに囲まれて、日本風に言えば「離れ」といったところ。庭もそれなりに造ってある。実はこの住まいを選んだ理由は、庭がいかにも東南アジアの住まいらしかったからだ。庭に大きなテーブルがあって、池の水音を聴きながら、その周りで暮らせそうだった。

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ホテルのラウンジ
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「離れ」の庭
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寝室

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居間だろうが、寝室に設てある。
台所を挟んで部屋が二つあった。玄関を入ったところにある部屋はおそらく居間だろうが、子供が二人いる家族が泊まれるように、ここも寝室に設えてあった。だから庭が居間というわけだ。台湾で教師をしている娘がボーイフレンドと立ち寄ってもいい。目を見張ることが一つあった。家具が、素晴らしい木で作ってあったのだ。硬い木質で、地元の人は「鉄の木」と呼んでいるのだそうだ。マレーシアでは、熱帯雨林の木を切ることを極力避けるようになっているので、どれもインドネシアから輸入したものだそうだ。壁の所々、ドアの上などに、細長い板に彫り物を施したものが掛かっているが、古いものを再利用しているようだった。洋風の絵も家具も入れてあるのだが、全体的にマレーの伝統的な味わいを生かした設えだ。大いに気に入った。3週間で18万円也。
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家具

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白い陶器製の池の傍ら

地勢

Pictureクチン一帯の地図
​一帯の地図を開いてみた。街の真ん中をサラワク川(Sarawak River)が流れる。流れは下ると北と東に分かれてそれぞれ南シナ海に出る。東の流れはムアラ・タバ(Muara Tebas)となってクア川(Sungai Kuap)に合流して海に出る。北の流れはサントウボン川(Sungai Santubong)となって、河口近くに聳える標高700m余りのサントウボン山(Gunung Santubong)に見守られて、これも海に入る。では源流は何処か。地図で追ってみると、一つはキタン・キリ川(Sungai Kitang Kiri)と呼ばれて遠くベンゴウ(Takungan Bengoh)という貯水池から流れ出ているようだが、もう一つはサラワク・カナン川(Sungai Sarawak Kanan)と、いささか事務的な名前がつけられてその先は地図上では消えている。位置からして、おそらく熱帯雨林の何処かに始まっているのだろう。
 
川を追いながら、それぞれの流れに付けられている名前が何かを語っているような気がし始めた。例えば「東京」という名は「京の都」の東に位置しているから付けられた名前だ。「富士山」はどうか。これは古くは不老不死の「不死山」だったものが、武士の政治が始まった鎌倉時代以降に「士に富む山」すなわち「富士山」となったというのが妥当な経緯のようだ。この伝でクチン近辺の川の名前を眺めてみると、「サラワク」というのは地域の名前だろうが、サントウボン(Santubong)というのは舟の形に作った棺のことだ。「舟」が死んだ人を此の世から彼の世に運んで行ってくれるようにという願いがあるのだろうか。そうだとすれば、河口近くにある山が、やはりサントウボン(Santubong)と名付けられているのは偶然ではないだろう。棺を川に流して、棺がいよいよ海に出て行く時は「山」が見送ってくれる...、といった思いがあったと推定できる。クア(Kuap)を辞書で調べたら「あくび」と出てきた。「あくび川」等という名前は、日本の民話や昔話にも出て来そうだ。ムアラ(Muara)は「河口」の事だと辞書に載っていた。タバ(Tebas)が「切る」という動詞だと理解するなら「河口を切る」という意味になる。クア川に合流してムアラ・タバは川幅を二倍にも三倍にもして海に流れ込んでいるのだから「河口を切る」すなわち「大地を砕いて河口を造る」大きな川という事だろうか。サラワク川に集まる一方の川は「Kanan(右)」と名付けられて、単に「右のサラワク川」なのだが、他方のキタン・キリ川(Sungai Kitang Kiri)というのは「彼が去った川」となって、少し遣る瀬無い雰囲気が漂う。何にしても、熱帯雨林がたっぷりと水を注いで、土地が緩やかに横たわる。こういうのを水郷というのだろう。

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渡し舟
夕方、川べりに出てみた。土を含んだ茶色い水がゆるゆると流れていた。辺りにはツンと鼻をつく腐った果物の匂いが漂っていた。川沿いに軒を並べる店は、ガラクタを詰め込んだような貧相さで傾きつつ連なっていた。第三諸国に行くと、いつも目にする光景だ。1960年代まで、日本もそうだった。
 
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気候

​今日ボルネオと呼ばれる島を、土地の人々は古来「燃え立つ天候」を意味するカリマンタン(Kalimantan)と呼んで来た。この言葉はサンスクリット語から来ているようだ。16世紀の大航海時代に入って、やって来たヨーロッパ人は島全体をボルネオ(Borneo)と呼ぶ。この言葉も「水」を意味するヴァルナー(vàruna)もしくはヒンドウー教の「雨の神ヴァルナー(Varuna)」を意味するサンスクリット語から来ている可能性があるらしい。地理的な距離から言って、中国人がボルネオの存在を知っていても意外ではないが、土地の人々が自らの土地をインド人のサンスクリット語で呼んでいたというのは、少なからぬ交渉がインドとボルネオの間にあったことを意味する。ともあれ、「燃え立つ天候」も「水」も「雨の神」も、土地の状況を言い得ている。クチンでは、雨の日が年間247日ある。気温は冬季の18度から夏期には36度まで上がる。その上湿度が高いので、実際には42度位に感じられるというのだから、「燃え立つ天候」は実感だろう。が、だからといって観光客が冬にやって来れば、雨ばかり。しかし冬でも、暖かい雨だ。風も概ね伴わない。 言うなれば、ザーっと気持ちよく降る雨だ。
 
https://en.wikipedia.org/wiki/Borneo

​ジャングル

ボルネオは熱帯雨林で覆われた島だ。その大きさはドイツの二倍以上、グリーンランド、ニューギニアに次いで世界で三番目に大きい島。氷河時代まではユーラシア大陸の一部だったが、海面の上昇で島になった。植物、動物、昆虫、広範な種類の生き物が熱帯雨林の中で生きる。
 
ホテルの持ち主の従兄弟がホテルの一室に住んでいた。彼の名はジョンで、イベント係。彼が朝レストランに出て来て滞在客に触れて回る。「今夜はワニを見に行きますが希望者は?」とか「今日の午後はオランウータンのサンクチュアリーに行きますが...」とかいった具合。私は「ワニ・ウオッチング」にも「オランウータン・ウオッチング」にも参加したが、ジャングル行きも注文した。(ジョンは注文も取ってくれる。)しかし希望者は私一人。最もホテルが大きくはないのが、希望者が少ない理由の一つ。しかし一人でも受け付けてくれる。目指すはバコ国立公園(Bako National Park)。1957年に開園された、サラワクで最も古い自然公園。地図を見ると、湾に向かって2本の角のように二つの半島が突き出ている。西側の半島にはサントウボン山があり、東側の半島には目的地のバコ国立公園がある。半島の西方の根方、タボ川(Sungai Tabo)の河口近くにある桟橋(Jetty to Bako National park)迄、30分位の道のりをジョンが車で送ってくれた。「ボートで公園の入り口まで行くとガイドのイスメルが待ってますから、彼についてってください。あ、彼に100リンギイのチップやってくださいね」。
 
爽快にモーターボートを飛ばした。着くと、大きな体躯のイスメルが待っていた。そうして一日中、彼についてジャングルの中を歩いた。
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彼は何か見つけると指差して私を促す。鼻の長い猿(Long Nosed Monkey、日本名は天狗ザル)が浜辺を歩いている。木の枝に座って何か食べているのもいる。猿の顔というよりは、人間の中に、こんな顔立ちの人がいる... と思えるような面立ちだ。多分鼻のせいだろう。それに分別がありそうにも見える。穏やかな顔立ち。そういえば、イスメルも似たような風貌だ。

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天狗ザル(long-nosed monkey, proboscis monkey)
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天狗ざるが歩いて行く。
二人だけで、言葉少なく、しかも囁き声で、動物たちの邪魔にならないように歩く。そうすると、彼らの方が私たちに注意を払うことはない。イスメルが又指差した。私には木の根しか見えない。彼は2m程先を指差している。「木の葉の下に、緑色の蛇がいるヨ」。やや暫くして、やっとそこに太さ2cm位の若草色の蛇の頭を見た。「マムシ(Asian pit viper)だそうだ」。蛇と私の双方が、じっと互いを見ている感じだ。静かなものだ。
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イスメルがラタンを掴んでいる。
蔓のようなものが上方から下がっている。根かもしれない。イスメルに尋ねると「ラタン(rattan)だよ」。一体何メートル位あるのだろう... 。高い木の上から下がっていて、その先は藪の中に消えているから測れない。それに木、何十メートルもの高さで真っ直ぐに立っている。木も静かだ。カブトムシ(?)がキノコに取り付いている。音も無い。

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キノコの裏に黒い虫がいる。私には甲虫に見えるが未詳。
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トンカット・アリ(Tongkat Ali) だと思うが未詳。
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木の根
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宿泊用のバンガロー

Picture海辺に猪がいる。
​その内、ふいっと視界が開けて海辺に出た。何かいる。イスメルが「イノシシだ」と言う。あの猪突猛進して来る猪(イノシシ)?「もっと近くに行ってごらん」。「とんでもナイ!」。「大丈夫。写真を撮ってあげるから」。

再び木の根が蔓延(はびこ)る道を歩く。どの位歩いたか分からない程歩いた時、小さな湾に出た。一体何処に自分が居るのか、私には推し量ることも出来ない。
 
静かな湾だ。パラソルもデッキチェアーもない。浜と波と背後に半島が突き出ていて、それだけだ。私たち二人しかいない。波も静かだ。この海は南シナ海...と独りごちる。湾の両脇は切り立っている。切り立った岩の上にも樹木が繁茂する。「ここで30分休憩」とイスメルが言って去る。すると私、一人。でも暖かく、穏やかな海だ。南シナ海は内海ではないが、大洋からは遮られている。かつて大洋を未だ知らない中世のアラビア人が、この小さな海を世界の海の一つに数えた。未だ太平洋もインド洋も知らない昔のことだ。

プラステイックのボトルがたくさん落ちている。観光客が捨てていったのではなく、海が運んで来たのだそうだ。確かにプラステイックのゴミしかない。毎週一度はゴミ集めをするのだそうだ。「名も知らぬ 遠き島より流れ寄る椰子の実一つ...」子供の時に歌った。島崎藤村の作詞だが、椰子の実なら遠い異国を思って詩的感慨に浸りもしようが、プラステイック・ボトルでは詩にはなるまい。何という事だ、海から大量のゴミが押し寄せて来るとは。
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プラステイック・ボトルが無数に落ちている。
私としては何処を歩いたのか知る由もないが、イスメルは船着場にちゃんと連れ戻してくれた。背後に村がある。イスメルはバコで生まれてバコで育って、「村の90パーセントは僕の親戚」だそうだ。後方の村で子供たちが遊んでいる。「あれはみんな僕の甥っ子や姪っ子サ」。彼は40歳代に見える。生まれて此の方、村を出た事も、出る気も無いのだそうだ。
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モーターボートの船着場

バコ国立公園入場料:¥513 (MIR 20)
モーターボート(往復)¥3,077 (MIR 120)
ガイド:¥2,564 (MIR 100)
送迎/タクシー:¥3,077 (MIR 120)
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合計:¥9,231
 
https://borneoadventure.com/tours/sarawak/bako-national-park-day-trip/
https://sarawaktourism.com/attraction/bako-national-park/1957
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オランウータン自然保護区

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オランウータンが中央に見える。
Pictureアルファ・メイル

オランウータンのサンクチュアリー(Semenggoh National Reserve)はクチン市街から20kmの郊外にある。敷地は653ヘクタールだが、見学者が立ち入れるのは入り口近くの僅かな部分だ。入り口から暫く小径を歩くと広いデッキが設えてあって、その近辺が オランウータンの餌つけ場所になっている。餌つけ時には彼らが寄って来るので、見学者がオランウータンをデッキから観察できる。
 
メニューはバナナやココナッツのようだった。せっせと食べるのもあれば、遊んでいて何時までたっても食事を終えない手の焼ける子供もいた。それを追いかける(らしい)母親がいて、ヤレヤレ「いずこも同じ」といったところだ。雄の親方の食べ方はスゴイ。山のようなバナナを手当たり次第に食べて行く。咀嚼などせずに飲み込んでいるみたいだ。あんな処にチョッカイでも出したら、エライ事になりそうだ。ちなみにデッキから決して降りないように注意された。
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ガイドの説明は、おもに個々のオランウータンの生まれや私的関係、性格と言ったところだった。性格はともあれ、私的関係を事細かく云々したり、生まれを詳らかにするのは、時にはタブーとされるところだ、人間ならば。しかしガイドは滔々と彼らの私的関係に言い及んで止まない。というのも17匹が、広いとはいえ限られた場所で30年なり40年なりの生涯を暮らすのだから、選択に限りがある。だから親子、兄妹で関係を持つのは稀ではない。
 
ウサギもそうだった。イエメンで暮らしていた時、庭の隅に結構広いウサギ小屋があった。そこで娘が3歳になった時、市場でウサギを買って来て(イエメンでは、フランス人同様ウサギを食用に飼う)誕生祝いにした。その内、子ウサギが生まれて16兎まで増えた。子供達が喜んだのは言うまでもないが、隣家の猫もシメたとばかり、一兎また一兎と捕まえては連れ去った。しかし猫がいて丁度良かったのかもしれない。そうでなければ増えて困ったろう。親子だろうが、兄妹だろうが、ウサギは頓着しないからだ。それが元で家庭争議が起きた様子も無かったが。

ここは傷ついたオランウータンや、孤児、不法にペットとして飼われていた彼らを集めて、1975年に保護地(Sanctuary)として設置された。現在は半野生の状態で生息し、果実が実る時期には自生するように仕向けられている。
 
費用は10人の団体で1人1,500円(ミニバス+入園料+ガイド込み)
 
https://semenggoh.my/about-us
https://www.google.com/search
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保護区内に生息していた植物。昆虫を食べる一種だろうか?
高地
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雲海に浮かぶ山々が見たい!ネットを見ると、高地にリゾートがあった。ジョンに相談すると、リゾートの入り口までは車で送ってくれると言う。入り口からは、リゾートが送迎の車を出すそうだ。標高千メートル。クチン市街から60kmほど内陸に入った所にある。ホテルはネットで予約。
 
ジョンは恋人連れで来た。彼女の車が中型のジープだったかららしい。デコボコ道を登るのかな?「有り金全部、車に投資しちゃったんですーっ」と、朗らかに言う。ジョンは生真面目なので、丁度良い取り合わせだ等と思いながら、後部席から頻りにおしゃべりに加わった。観光ガイドをしていれば、車は仕事に不可欠だろうに、彼らは自費で買うらしい。フリーランサーなのかもしれない。しかしジョンも車は自前だ。ところでリゾートの入り口までは平坦な舗装道路だった。
 
麓にリゾートの門があった。門衛さんもいる。(関係者以外は山に登れない?)恋人の方はホテルまで運転するつもりらしかったが、ジョンが「ダメ」だと言う。「行ってみたってイイじゃない」と恋人。「ダメ、カーブや傾斜がある」。(折角ここまで来たんだから、上まで足を伸ばしたい。今日は仕事も無いんだし)という顔をしたが、ジョンの意志は堅固。私は車を替えて、ホテルに行くことにした。途中、確かにカーブも傾斜もあったが、舗装されているし、彼女の車だったら大丈夫だったろうに。
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山の麓にあるリゾートの入り口
Pictureホテルの入り口。
​立派な木造りの入り口に続いて、素晴らしいテラスが広がっていた。景色も素晴らしかったが、私はむしろ建物の方に目を奪われた。見事な木(鉄の木)がふんだんに使われている。熱帯雨林から切り出したのだろう。建物に圧倒されながら、そこで出された食事が、これ又美味。菜食で、全てリゾートの菜園で育った野菜だそうだ。食事の後で菜園に行ってみたが、よく手入れがされていた。
 
ホテルの建物の他に、バンガローが点在している。家族連れで長逗留ができそうだ。高地は涼しいから、夏には滞在客で賑やかになるのだろう。でも真冬の二月、週末でもないので、今日はこの広いリゾートに、お客は私一人。噴水には水も無く、プールは休業。シーズンオフのリゾートは閑散としたものだ。しかし静かだ。この方が、私には向いている。

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レストラン
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ホテルの食事
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レストラン
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リゾートの庭。近くに菜園がある。
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霧に巻かれた窓外の風景。

​翌朝、窓に目をやると霧で何も見えない。目を凝らすと、霧は濃くなったり薄くなったりしながら、ゆっくりと流れているようだ。霧の中を、見晴らし台まで歩いた。道々、見知らぬ花が咲いている。バナナも実っている。バナナの実の下に下がっているのは何だろう?通りがかりの庭師に尋ねると、花だそうだ。バナナの花が咲いているのを見たのは、初めてだ。野生の蘭が咲いていた。イギリスで見る蘭は、数輪だけ鉢に植えられているが、ここでは群生している。40年以上も前に、ナガルコット(Nagarkot)にヒマラヤ山系を見に行った帰り、ポインセチアが咲いているのを認めた。私にとって、ポインセチアも鉢植えだった。しかしヒマラヤでは、大きな木になることを、その時初めて知った。
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晴れている時の窓外の風景。
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見晴らし台からインドネシア・ボルネオを見下ろす。
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蘭が咲く。
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ホテルから見晴らし台への道
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見晴らし台への道から山を見上げる。霧が上昇しているようだ。
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バナナの花と実

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山全体がよく手入れされている。
宿泊費: ¥8,358 (朝食付き、税込, 2人宿泊可)
食事:昼食¥1,000+夕食¥590+ワイン¥4,821+税金¥1,230=¥7,641 *ワインは1本ではなく、グラスに1杯 (!)
​タクシー(往復, 2~4人乗り可):¥5,128

ホテル送迎:¥1,282
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合計:¥22,409
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歴史

​資料を読んでみると、やはりサラワク・デルタには、6世紀から13世紀まで、貿易船が盛んに往来していたようだ。黄金、亀、サイチョウの嘴、サイの角、蔓植物のラタンやリアナ(liana,)、香木(laka wood)、樹脂(dragon’s blood, 洗浄剤等の原料)、樹液(camphor、樟脳)、蜜蝋、鶴のトサカ等が最も価値ある品として買いとられた。いずれも熱帯雨林から産出される物だ。インド人はボルネオを「黄金の地(the land of gold)」あるいは「カンポー(camphor)の島」と呼び、ジャワ人は「ダイアモンド島」(小粒のダイヤモンドを産する)と呼んだ。買い手の方も、東南アジア諸国の国々で、南国だからこそ必要な殺菌、虫除けの原料が目を引く。主な取引相手はインドや中国で、14世紀にはジャワの
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サイチョウ
従属国となり、後には中国の明朝に忠誠を約束している。こうした流れと同時に、10世紀にはアラブ人の商人もやって来て、海岸沿いの住民の多くがイスラム教に改宗している。加えて14世紀半ばにはブルネイが独立を宣言して、15世紀から17世紀にかけてはボルネオの海岸沿いの土地の殆どと現フィリピンの一部をもその翼下に収める。さらに1450年代にはマレー半島生まれのアラブ人シャリーフ・ユーエル・ハッシム(Sharif ul-Hashim)がスル(Sulu、現フィリピンの島)にやって来てスル王国を建国する。スルは近辺の海域を含めてボルネオの北部にも勢力を伸ばし、中国との商取引に加わり...。しかし、こうした動きは全て海岸沿いの土地で起きていたことであって、内陸部はこうした動きからは自由だった。
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Pictureフランシス・グラント画 ジェイムズ・ブルークの肖像 
15世紀に入ると、ヨーロッパ人も加わる。先ずポルトガル。続いてスペイン。次にイギリスとオランダ。彼らは商取引もしたが、力尽くの行為にも出た。北方近海、フィリピンとの間には海賊が横行し、シンガポールと香港の間にはマレー人とボルネオのダヤク(Dayak)族がヨーロッパの海上輸送船を襲い...といった具合に、19世紀に入ると状況は渾然とする。しかし、ここに一人の稀有な人物が現れる。海賊の横行を鎮静した返礼に、ブルネイのスルタンがイギリス人の軍人で冒険家でもあるジェイムス・ブルーク(James Brooke)に、サラワクの一部を贈呈した。ここにブルークは君主制を敷いて「サラワクの君主(Raj of Sarawak)」となり、三代にわたって100年間(1841〜1941/1946)の統治を始めた。彼らをサラワク人は「ホワイト・ラージャ(White Rajahs)」と呼んだ。
 
東インド会社がその最盛期を迎える17世紀半ばから18世紀初めにかけては、世界貿易の半分を手がけるばかりか軍事や行政にも関与する。その時期に、ジェイムスの父親のトーマスは高等裁判所の判事としてインドに赴任していた。ジェイムスはその5番目の子供として、ベナレスで生まれて幼少期を過ごしている。父親は子供達に甘かったようだ。ジェイムスの腹違いの兄が象が欲しいというと直ぐに与えている。母親も生涯声を荒げたことのない人だったそうだ。当然のようにジェイムスは「小さなジェイムス」と呼ばれて甘やかされ、ロマンテイックな気質を育む。

当時、外国に住むイギリス人は、息子が学齢期(4〜5歳)に達すると本国に帰して寄宿舎付きの学校に入れた。だがジェイムズは12歳まで両親のもとで暮らした。教育のため、やっと本国に返されたが、彼は寄宿舎の厳格な生活が身に合わない。駅馬車の代金を借りて、ロンドン郊外に住むお祖母さんの家に逃げたが連れ戻される。そうした日々、彼は船の操縦法を知った。成長して彼が父親にねだったのは船。父親は彼の未経験を安じながら、しかし290トンの船を与えた、貿易に有効な荷を添えて。案の定、貿易はおろか船内でのイザコザにウンザリして、マカオ(Macao)に着いた時、貿易の荷諸共、船を売り払って帰国してしまった。
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間もなく父親が亡くなって遺産を相続したジャイムズは、改めて142トンのロイヤリスト(Royalist)を購入し、前回の失敗は他に依存したからだと反省して、今回は船の操縦も2年間かけて正式に学び、自らがキャプテンであることを肝に銘じて望んだ。又厳格な船上の慣習を退けて、船員たちを人道的に扱った。彼がサラワクの君主になって、どのように国を統治したかは、こうした彼の若かき日の経緯から想像できよう。彼のモットーは「親切心(Kindness)」だった。植民地の支配層が自宅の召使いを奴隷並みに扱うのに反対した彼は、同輩から強力な抵抗を受ける。そこで矛先を首狩り停止に絞って、こちらは成功した。多くの首狩族がキリスト教に改宗したのだ。こうしてジェイムズの君主制は第二次大戦まで続いた。と、まあ、物語に出て来そうな人物だ。
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ロイアリスト(Royalist)
若きジェイムズを東南アジアに駆り立てたのは何か。彼は兄二人に習って軍籍に身を置いたが、戦闘に出て2日目に大怪我をし、5年間の療養をして、結果としては軍に戻っていないのだから生まれながらの軍人ではあるまい。又イギリスで紳士として安楽な生活が出来たのに、なぜ苦労を買いに東南アジアに向かったのか。それは、時代がそうさせたといえよう。時は大航海時代を経て、ヨーロッパは植民地を求めてアフリカやアジアに向かっていた。晩年の彼が語るところによれば、

       I was twenty years younger, and forty years lighter of heart (when I left England for the shores of Borneo.                                             (White Rajah, 2003, p31)

       私は20年若かったし、(ボルネオの岸辺に向けてイギリスを後にした時の)私の思いは40年分軽やかだった。
 

 
https://en.wikipedia.org/wiki/Borneo
Barley, N. White Rajah, London, 2003 (First published in 2002)
Williams, T. The White Rajah, London, 2021 (First published in 2010)
Brooke, M. My Life in Sarawak, London, 2010 (First published in 1913)
http://ssoonz.com/history/
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Picture椰子のプランテーション
​ 現状                                                                1973年以降、ボルネオ北東部の40%から75%の熱帯雨林が開墾された。マレー半島で                                                                                も1970年代および1980年代に広範な伐採が行われて、代わりにヤシが植えられた。ヤ                                                                                シ油の需要が高いからだ。お陰で貧困が大きく減少し、同時に熱帯雨林伐採の速度も緩和した。こうしてみると、熱帯雨林の伐採は仕方がなかったことのように思える。現在では製造業、ヤシ油生産についで観光業が三番目に発達して来ているが、タイ、香港、シンガポールに対抗できるような設備が必要だという記述を目にした。まあ、そうかも知れない。40年前のシンガポールには、汚れと貧しさにまみれた一画と、新しいカンテイーンのような味気ない食堂の列が混在していた。シンガポールが生まれ変わろうとしていた過渡期だった。ゴミを路上に捨てたら罰金が課される法律ができて話題を呼んだりもした。タイも、40年前はホテルのロビーに座ると、やって来たウエイトレスが注文を取るよりも先に、夫が持っていた税金免除のウイスキーの瓶を指して「いくらで売る?」と聞いたり、娼婦がホテルの廊下に立っていたりした。しかし現在では、シンガポールは見事な変身を遂げ、タイには観光客が押し寄せる。

しかしマレーシアの人々は、のんびりしているように見える。ボブが言うのには、みんな年若くして結婚するそうだ。そして子供を育てて、それで自足しているようだ。一度ボブが居なくて、代わりに街中までシャトル・バスを出してくれたボーイさんが、市内の公園にすら行った事がないと言うので驚いた。素晴らしい熱帯の植物が繁茂する、植物園のような公園なのに。もちろん無料。「子供たちを連れてってあげたら良いのに」と私が勧めると、「いやア...」と言って笑った。おそらく連れて行かないのだろう。
 
サラワクの住民の2019年の収入高を調べてみた。44%の住民が10万以下の収入で、11%の住民が5万以下の収入という数字が出てきた。では支出はどうか。クチンでは4人家族は家賃を除いて月18万の生活費が必要らしい。それでは全然足りないではないか。これで家賃を払わなければならなかったらどうするのか。必要な生活費が得られているのは、住民の35.7%でしかない。2016年では48%の住民が10万以下で16%が5万以下とあるので、この数年に多少の向上があったことにはなるのだが。高地のホテルで私が注文した1杯のワインは, ここに住む半数近い4人家族の、一日半から三日分の収入に相当する。いや、もっと身近な例で言えば、イスメルの一日の収入の、ほぼ倍に当たる...。深く反省した。ろくに値段も見ずに、まるでワインの産地にいる時のように、一杯のワインを注文した。給仕をしてくれたウェイトレスの、私を見る眼差しが思い返された。
 
https://www.numbeo.com
https://wwf.panda.org/discover/knowledge_hub/where_we_work/borneo_forests/borneo_deforestation/
https://www.sciencedirect.com/science/article/pii/S1389934114000768
https://www.scielo.cl/scielo.php?pid=S0718-27242012000200011&script=sci_arttext
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クチン市内にあるグリーン・ハイツ・パーク(Green Hights Park)
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公園内の木に、寄生植物が根を下ろしている。

物価

Picture市場の入り口。
毎週日曜日には川向こうに市場が開くと、ボブが教えてくれた。早速行ってみた。すごく大きい。何でもある。生鮮食料品の鮮度が高い。その豊富な量に圧倒された。野菜や果物は、日本で馴染みの物もある。未知のもある。名前だけ知っていて、しかし初めて見た物もある。青物が瑞々しい。一山で¥54、一束でも¥54。どれも私一人には量が多過ぎる。見た事も無いほど瑞々しいゼンマイがあった。さつま揚げと一緒に煮たら美味しいだろうに。野菜は新鮮で安い。菜食主義で暮らすには、ボルネオは別天地だろう。

​新鮮な野菜を毎日三度三度食べる...。そういえば、長野県の母の実家はそうだった。子供の時、夏休みに滞在したが、炊き立てのご飯に味噌汁と、朝は漬物、昼と夜はそれに一菜が付いた。それで不足に思った事は無かった。米も野菜も自家で育てた物だった。もちろん味噌も醤油も自家製だった。一度、味噌樽を開けた瞬間に居合わせたことがあった。直径1.5m高さ2m位の樽を男が二人がかりで開けると、辺りに芳醇な香りが漂った。発酵し、熟成した麹の匂いだった。ああ、味噌は、こんなに香り高いものだったのか...。

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インゲン豆?
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香菜が何種類か並んでいる。
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ヤム(yam)が積んである。
Pictureゼンマイ
次には鶏肉が山と積まれていた。どれも足を挙げて「参りました」とばかりにひっくり返っていて、ちょっと生々しいが、どれも色合いが良い。イギリスのスーパーで見る鶏は、放し飼いの鶏でも青ざめているような気がする。日本でもそうだ。ここでは卵の色も味も、私がイギリスで食べているものとは違う。キプロスで、農家の主婦が路上に板を出して野菜や卵を売っていたので、卵を買った。その卵でマヨネーズを作って驚いた。一人で台所に立っていたのだが、あんまり美味しかったので歓声をあげた。

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鶏肉の行列
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海老三種。真ん中の海老を塩焼きにして、柚子を絞りかけたら美味しいだろう。
​そして魚介類。菜食主義で良いらしいみたいな事を書いたばかりだが、私が魚介類無しで暮らせるだろうか。魚、見事な海老。父は、海老が大好物だった。今父が生きていて私の横に立っていたら、全部買いたがったかもしれない。しかし父は居ないので、刺身用に差し渡し50cm程の鯛を買った。¥1,308也。

​大きな魚を提げて、外に出てタクシー乗り場を探したが無い。流しのタクシーも無い。これでは折角の魚の鮮度が落ちてしまうーっと焦って、散々探し回って、途方に暮れて、側を通りがかった人に尋ねた。すると、ホテルまで送ってくれると言う。中年の品の良いご夫婦だった。どうやら35.7%の一組のようだった。
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魚屋の若い衆。「マレーシアの魚だヨ。旨いヨ。新しいヨ。買ってきナ!」
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体育館のように大きいレストランが、ほぼ満席。
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デパートの出来合いの惣菜。左から、もやしの炒め煮、鶏肉の照り焼きに辛味のソース添え、青菜の煮物。
一度ヒルトン・ホテルで中華料理を食べた。三品とって値段は¥1,872だった。多分クチンで一番高いレストランの一つ。次に市民に人気のあるレストランの一つでは、¥1,410払った。そこでは、並んでいる魚や野菜を客が選んで料理してもらう。しかし折角の魚を、ゴテゴテにソースをかけて焼いて来た。食べられなかった。ホテルの隣のブロックにある一杯飯屋にも行った。ジョンに誘われて行ったのだが、そこはカンテイーン風に、客が自分で好きなものを好きなだけ皿に盛って会計してもらう。不味くは無かったが、ご飯に味噌汁をぶちまけて食べる類だった。皿もアルミでデコボコだった。ジョンが払ったので値段は分からないが、コーヒーが1杯¥54だったので、一人前の食事は¥250から¥500位か?ところで、この一杯飯屋のアイス・コーヒーにはビックリした。美味しかった。そこでグラス持参で、しばしば持ち帰っては庭で水音を聴きながら楽しんだ。あれがマレーシアのコーヒーか!ホテルのコーヒーは、きっとイギリスのコーヒーに違いない、水っぽくて味も香りも無いから。特筆すべきは、デパートの出来合いの惣菜が美味しくて安いこと。一食¥350から¥600位で、結構な食卓が整う。酒類は、ビール1本が¥250、ブランデーが1本¥1,692、ジンは1本¥800。トニックは4缶で¥180。

3週間の食費は、外食を除いて計9,564円也。もし私の1ヶ月の収入が5万円だとして4人家族なら、収入の8割は食費に消えるだろう。しかし衣服にかかる費用は、南国なので多額にはならない。光熱費も、暖房費は不要。炊事は薪を森から拾って来るようだ。水道も飲水以外は、年間247日も雨が降るのだから、雨水を溜めておけば間に合うだろう。電気がどの程度必要なのかは、家庭による。電車も地下鉄も無いが、バスはあるらしい。交通費が必要なほど遠くまで通勤・通学するのだろうか。学校に通う子供を見なかったのだが。こうして経費を列挙して見ると、月5万円と言う金額は、「食べてだけはいける」といったところか。そして収入が10万円なら、「暮らしていける」のだとすれば、野心を抱かず在るがままに暮らした方がいい、という選択も可能なのかもしれない。つまり、89%の住民にこの選択が可能になる。イスメルの淡々とした雰囲気が蘇る。

今回は無駄遣いが多かった。そもそも出かけようと決めて直ぐに慌てて出て来たことに、その一因がある。出て来た後も、気持ちが宙に浮いていた。東南アジアに居るのだから安いはずだ、という安堵感もあったのかもしれない。無駄遣いの合計は4万5千円。

​さらに3回の遠出を改めて見ると、交通費が嵩んでいる。ただし数人で行けば割り勘が可能だから、これは一人旅の難点か。
 
  目的地     所要時間(片道)          タクシー                                     合計支払い金額                       交通費比率
  バコ         30分                             ¥3,077+ ¥3,077 (モーターボート)      ¥  9,231                                     67%
  高地         60 分                            ¥5,128+ ¥1,282 (ホテルの送迎)          ¥17,588 (ワインを除く)           36%
  博物村     45 分                            ¥4,615                                                ¥  7,692                                    60%
  市中         10 分                            ¥4,615                                                            -                                                 -
 
公共交通機関が無きに等しいので、タクシー代が嵩んでも仕方がないとも言えるが、これはクチン滞在の難点だ。
 
さて、ヨーロッパの3カ所と比べれば、財布の状況は以下のようになる。(数字は全て¥)
                                                                                            
                                         クチン                  カスカイス              パフォス                パレルモ               
       住居費                     181,830                    260,568                    262,912                  214,650
       食費                             9,564                      97,960                      46,452                    38,796
       飛行機代                   71,949                      24,490                      23,700                    41,658
       交通費                       21,794                      17,380                      66,044                    12,084
       外食                           16,592                      16,000                      12,640                    16,695
       入場料                        -                                11,000                           948                      4,770
       遠出費用                   50,218                         -                                  -                           29,733
       ______________________________________
       合計                         351,947                    427,398                   412,696                   358,386 
​
 
https://sarawaktourism.com/attraction/satok-weekend-market/

文化

カンポン・ブダヤ・サラワク(Kampung Budaya Sarawak)という、いわば歴史博物館ならぬ、博物村がサントウボン山の麓近くにある。英語では「文化村(Cultural Village)」 ないしは「生きた博物館(Living Museum)」と呼んでいる。約2万坪の土地に、ボルネオに住む各種族の家を複製して、彼らがどのように暮らして来たか、あるいは現在も暮らしているかを紹介している。紹介は衣食住の全てを実演しているばかりか、踊り、音楽、工芸、農園に至るまでを披露し、レストランでは彼らの伝統的な食事を洗練された形で味わうことができる。つまり、この村に行けば彼らの生活を実体験できる。ジョンの説明を聞きながら、一日この村を歩いて、彼らの生活が共同生活に基礎を置いていることを納得した。 ​
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歌や舞いを、どうやら物語に沿って演じているようだった。
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まだ少年のような踊り手。
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踊り手を引退した女性が、織物の実演をしていた。
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黙々として、琴のような楽器を作っていた。
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レストランに陳列してあった食材。手前から、シナモン、キャッサバ、唐辛子、その下はマンゴー、背後には生姜とパイナップル。ミョウガのようなものもある。
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昼食のセット・メニュー
大枠の形態としては、数家族が一つの大きい家(Long house)を共有する。各家族の個別の部屋が一列に並び、部屋の外は屋根のある大きいベランダになっていて、共有の居間といった形だ。その一隅には竈があって煮炊きができる。数家族が協力して家を建て、炊事も子育ても協力する。おそらく侵入者に対しても共闘しただろう。一家族では出来ることに限りがあっても、何家族かが集まれば出来ることは倍化する。これは密林で暮らす一つの術だったろう。ここでイスラエルのキブツ(kibbuts)に思い至った。キブツも、砂漠を灌漑して農地にする作業を共同でやった。食事は誰もが大食堂で食べ、子供たちは子供の家に暮らし、全ての仕事が分担された。
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「rumah」はマレー語で「家」のこと。「ムラナウ (Melanau)族の家」と標識に書いてある。中国人の家以外は全て2〜3mの高床式。
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家の内部。右手は各々の家族の部屋が並んでいる。板の間は、共有のベランダ。数家族共有のこの様式はルマ・パンジャン(長い家)と呼ばれる。
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ベランダには座れる場所が造ってある。
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高床式のベランダは、風通しも見晴らしも良い。材木は全て「鉄の木」。
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メラユ(Melayu 又はMalayu)族の家。メラユはスマトラ島の南東にあった古代の王国の末裔。
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家の内部。これは一家族の家で、ボルネオ土着の家とは様式が違う。
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これは橋。手軽にしかも確実に造れそうだ。
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歩く場所は狭いが、安定している。
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これはゲームなのか踊りなのか判断に迷うが、座っている二人が二本の棒を開いて閉じてを繰り返し、立っている1人は棒をかわして跳び続ける。
家の周りには様々な植物が植えられていた。私に見分けられたのは胡椒だけ。ジョンも植物のことは知らなかった。
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ここも野菜や香菜は自家で栽培。
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胡椒の実。
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庭
​送迎:¥4,615(RM180)
入場料:¥1,538(RM60)
昼食:¥423(RM16.5)
ガイド:¥1,115?(RM43.5?)
__________________________
合計:¥7,692(RM300)           ​
Pictureサワラク州立博物館
クチンにあるサラワク州立博物館(Muzium Negeri Sarawak)を訪れた。圧倒的な数の木の彫刻が陳列してあった。熱帯雨林の木と共に生きて来た人々の生活史だ。ブルーク(Brooke)の名もここで知った。それまで生活の掟として続いてきた首狩りを、ブルークが止めさせたことが書いてあった。勝った証として敵の大将の首を持ち帰る習慣が、戦国時代の日本の武士たちの間でも当然の事として行われていた。ボルネオのその習慣は、種族によって多少の違いがある。前述した「勝った証として敵の首を持ち帰る」のがその一つ。もう一つは、男として成長していく勇気の証として、首狩りを重ねる種族もあった。さらには、他の人間の魂も加えて、より強くなるために首狩りをしたというのもあった。彼らは頭蓋骨を自分の家に陳列して、自らの誇りとした。現代の免許証や修了証書の役割に当たるだろうか。ただ、証が書面ではなく、頭蓋骨だったという点が私たちをたじろがせるのだが。充実した展示だった。1891年、二代目のブルークの功績だ。第二次大戦中に日本が駐軍した時にも、指揮官が敬意を払って保護したため、収集品は殆ど無傷で保存されたそうだ。


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木彫り職人の芸術性に圧倒される。

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古代中国には3Dで同様の木彫りの置物が作られていたが、その流れを汲むものなのか。
織物博物館(Sarawak Textile Museum)を訪れた帰り、工芸市のような所でバッグの好きな娘にサラワク織のバッグを買った。何かもっと欲しいが、どこへ行けば良いのだろう。ボブに相談すると、「買い物するなら、川辺りの、店が並んでいる所が一番良い」。確かめると、どうやら「腐った果物の匂いが鼻をつく、ガラクタ長屋」の事らしい。しかし改めて行ってみた。道が掃き清められているということはなかった。ただし、一軒一軒眺めると、プラステイックのガラクタが山積みされている合間に、家具店があった。そこに壁画ならぬ「木彫り画」があった。微に入り細に入った表現はもとより、配置、バランス共々完璧な一枚の「絵」が掛かっていた。吸い込まれるようにして見て、しばらくして、その下に店主が座っていたのに気づいた。「絵」は17万4千円で、これに送料が加わる。欲しかったが、自宅には、この「絵」がスッキリ収まる所が無い。その人は、私に写真を撮ることを許可してくれた。
 
https://scv.com.
https://en.wikipedia.org/wiki/Sarawak_State_Museum
https://www.touristisrael.com/what-is-a-kibbutz

心に残る事

クチンを去る前日、冷凍庫を見ると鯛の刺身が残っていた。海苔も米も多少残っている。手巻き寿司が10本位作れそうな材料だ。胡瓜とカイワレを買って来て、ホテルのコックさん達に手巻き寿司の実演をして食べてもらう事にした。残った調味料も、彼らに使ってもらおう。夕方近く、彼らが夜の仕込みを始める頃、調理場に行って手巻き寿司を披露した。コック長以下全員、とても喜んでくれた。私も嬉しかった。滞在中、彼らには小鍋やフライパンを借りたり、買って来た野菜の調理法を教えてもらったりした。
 
しかし部屋に戻って来て、どういう訳か、ジン・トニックを飲み続けた。明日は早朝の飛行機で発つので、ジョンと5時にロビーで待ち合わせている。だから4時には起きなければならないと思いながら... 。目覚めると、5時半を過ぎていた。慌てて身支度をして部屋を出てロビーに急ぐと、途中、暗闇の中でジョンの声が私の名を呼んだ。彼は1時間余も私を待っていてくれたのだ、おそらく安じながら。飛行機が発つまでに1時間も無い。「大丈夫、間に合う」と彼は断言。
 
イギリスに無事戻って、自分の机に向かって考える。なぜ空酒を煽り続けたのだろう、心温まる気持ちで部屋に戻って来たのに...。
 
ボルネオは、日本人が汚点を残した土地だ。イギリス人、オランダ人、オーストラリア人の女子供も合わせた2,500人の戦争捕虜を「死の行進」に追いやった所だ。生き延びたのは僅かに6人。そういう土地は避けようと、旅の初めには思った。古傷に触るようなことはしない方がいいと思っただけではない、私自身がおおらかに暮らせないと思ったからだ。何より、この旅行が沈鬱になるのを避けたかった。しかし来てみて、直に土地の人々に触れてみて、親交を結んで、彼らの在り方を垣間見た。イギリス人もオランダ人も、そして日本人も、東南アジアの人々を食い物にし、蹂躙した。イギリス人は「Travel broadens the mind(旅は視野を広げる)」というが、私の実感としては、旅をすることは自らを知る事だった。
 
ボルネオで心に残るのは、何だろう。まずは、私が暮らした「離れ」。どの住居にも、深い愛着をもった。しかしボルネオの「離れ」は、日本人の私に染み入って来るような味わいがあった。類は友を呼ぶ、といった共有する感性だ。そして、イスメル。在るがままに生きる事が人間にも可能だということを、イスメルの生き方は示していた。しかし、それはどれだけ続けられることか。資料の中に、熱帯雨林を伐採するのは業者ばかりではない、住民が煮炊きに使う薪が無視できない量に上って、熱帯雨林を脅かしているという記述があった。インドの圧倒的な数に上る貧民が日々の煮炊きに使うのも、手近に拾って来られる石炭。いずれも、政治が解決すべき問題だろう。世界中の人々の生活が根本的に、そして早急に変化することが必然になって来ている。

​最後に、そして最も大きく、熱帯雨林の木。真っ直ぐに伸びる木の根方に立って見上げて、それが無言の巨人のように、私には見えた。(2021.12.20記)
 
 https://en.wikipedia.org/wiki/Sandakan_Death_Marches

<換金レート>
¥1=RM 0.039(2017.2現在)

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