ポート・ヴェッキオ - アジャクシオ間の山間部
定年後をどうやって暮らそうか、と思案している方々へ
コルシカとサルデーニア
サリボリ(伊)、エルバ(伊)、バステイア、タベルナ、サリ・ソレンツァラ、ポート・ヴェッキオ、ボニファシオ、アジャクシオ、カニジョーネ(伊)、ラ・カレッタ(伊)、タヴォラーラ島(伊)、マリネッラ(伊)、マルセーユ
西へ
「全ての道はローマに通ず」。道ばかりではない、海もだ。が、私は進路を変更した。
連れが言う、「ホエア・アー・ユー・ヘデイング・トウ・ネクスト?」「ローマよ」と私。「決まってるじゃない」とダメ押し。「ホワット・アバウト・シングズ・ライク・アイルランズ?」「島って、どの島?」「コルシカ・アンド・サルデーニア。アンド・メニイ・モア」。連れは地図を見ている。 ... ? そうだ、カプリ島もある! 私も地図のサイトを開いた。拡大すると、色々な島が姿を現した。エルバ(Elba)、ピアノーザ(Pianosa)、モンテクリースト( Montecristo)ジリオ(Isola del Giglio)、ジアヌートリ(Isola di Giannutri)。かつて存在すら知らなかった島々が、地中海に点在し始めた。「ジリオ」というのはイタリア語でユリのことだ。ユリ島 ... 。野生のユリがたくさん咲いているのだろうか。モンテクリースト島 ...。『モンテクリスト伯』はアレキサンドル・ドユマの小説だが、この島がモデルなのか?地中海航海のための私の「虎の巻」を開いた。「エルバ島の余りの美しさに、多くの航海者がその後に続くコルシカ島に行くのを忘れてしまった ... 」。エルバはおろか、コルシカについて私は何を知っていよう「ナポレオンが流刑になった島」という以外に。よし、島巡りをしよう。自分のボートを持っているのだ、観光船が行かない所へこそ行くべきだ。海にぽっかりと浮かぶ南の島 ... は何も太平洋にばかりあるのではなかった。
次の一夏は、舵を西にとってコルシカへ。冬もコルシカにボートを置けないか?きっと安いに違いない。
コルシカに渡る最良の航路はピオンビーノ(Piombino)からエルバ島経由でバステイア(Bastia)に向かう経路だ。しかしピオンビーノからは多くのフェリーやタンカーがバステイアに向かう。だからピオンビーノの手前のサリボリ港(Marina di Salivoli)からエルバ島に向かう方が無難だ。それにピオンビーノの岬を回り込まなくて済むから、航路短縮にもなる。最短の航路が最良とは限らないが、最も容易な航路は常に最良。次に、エルバ島で一泊するのは良策だが、北回りでポルトフェライオ(Portoferraio)かマルチアーナ(Marciana Marina)の何れかで泊まるか、あるいは南回りで行ってアツズーロ(Azzurro)に泊まるか?北回りで行こう。未知の場所に行く時は、それも小さい港の場合は、空きが無いということだってあり得る。停泊可能な場所が二つある方がより良い。
コルシカに渡る最良の航路はピオンビーノ(Piombino)からエルバ島経由でバステイア(Bastia)に向かう経路だ。しかしピオンビーノからは多くのフェリーやタンカーがバステイアに向かう。だからピオンビーノの手前のサリボリ港(Marina di Salivoli)からエルバ島に向かう方が無難だ。それにピオンビーノの岬を回り込まなくて済むから、航路短縮にもなる。最短の航路が最良とは限らないが、最も容易な航路は常に最良。次に、エルバ島で一泊するのは良策だが、北回りでポルトフェライオ(Portoferraio)かマルチアーナ(Marciana Marina)の何れかで泊まるか、あるいは南回りで行ってアツズーロ(Azzurro)に泊まるか?北回りで行こう。未知の場所に行く時は、それも小さい港の場合は、空きが無いということだってあり得る。停泊可能な場所が二つある方がより良い。
ところで、書きながら気になっていたことを、ここで確認しておきたい。私は時に「港(port)」と書き、時に「マリーナ(Marina)」と書く。英語では「ハーバー(harbour)」という言葉もある。日本語では「港」という言葉が一つあるだけだ。まあ「波止場」という言い方もあるが、これは俗語として論外にしよう。「port」の語源はポルトガルの地名だ。ポートという名の港からポートワインが輸出されたので、「port」は時に「ポートワイン」を意味し、時に「港」を意味する。他方「マリーナ」という語はアメリカ生まれだ。「マリーナ」はレジャー用のボートを収容する。これに対して「ハーバー」はレジャー用のボートも漁船も大型船も貿易用のタンカーも可能なら収容し、人口のものもあるが、自然に出来たものが多い。そもそもが海を航行する船が安全のために寄港出来る場所を指した。したがって、レジャー用のボートや漁師の舟が停泊する場所は「マリーナ」と呼んでも良いだろう。しかし、ジェノア港やマルセーユ港のような港は主として貿易のために建設された場所だから当然タンカーやコンテナ船が寄港し、チューロン港のような軍港の場合も含めて、港と呼んで然るべきだ。港にもレジャー用のボートが停まれる場所はあるが、港内の一画が与えられて大型船が停まる所とは別だ。
サリボリ Marina di Salivoli(伊)
「イフ・ウイー・ドント・ステイ・イン・サリボリ・トウナイト、ウイー・ベター・フィクス・ザ・アングル・トウ・ポルトフェライオ」と連れが言う。そうかも知れない。しかし何を隠そう、私は今だに陸から遠去かるのが怖いのだ。いや、陸が見えなくなると、途方にくれる。しかし、そんなことは連れには言えない。「ホワット・シャル・ウイー・ドウ?」「エニウエイ、オーバー・ハンドレッド・マイルズ・イズ・トウー・ファー・フォ・ア・デイ」じゃあ、何で今日の予定を言った時にそう言わなかったのヨ。「ホワット・シャル・ウイー・ドウー??」一旦怖気付くと、始末が悪い。強気に転換出来ないのだ。いや、とても難しい。「セイ・サムシング!」そら、見ろ、喚き出した。おずおず水面を見た。何でこんなにイッパイ水があるんダ。「じゃ、今夜はサリボリ泊まりにしましよ」と私。日が変わったら、朝になったら、気分も変わっているかも知れない。そういうことはママある。でも今日は陸から離れなくて済む。安堵 ... 。
サリボリに着くと事務所は既に閉まっていて、給油所のおじさんが出て来て、ここに泊まれば良いと言ってくれた。でも岸壁が高過ぎて岸に上がれない。「隣のボートは大きいから、隣のボートを足場にすればイイ」と教えてくれた。「じゃ、わしは帰るヨ」。 ... ソーか。サリボリ迄は260km。それでも到着は事務所が閉まる時間になってしまった。ポルトフェライオへなら更に65km。連れの言う通り、一日の行程としては長過ぎた。どうして、こんなミスをしたのだろう。いや、ミスではない。十分に考えなかったのだ。何故?依頼心だ。連れが居るから、つい安心して十分に考えなかったんだ。何て事だ。
「シャル・ウイー・ファインド・ア・レストウラント?」「うん」とシオらしい声で返事。しかし、ここは港しか無い。町は遠い。「ゼア・メイビー・サムシング。ウイー・ネバー・ノー」と、連れは優し気。港内のミニ・スーパーらしき店は閉まっている。キオスクも閉まっている。バーも閉まっている。「ヒア・イズ・ア・レストウラント!」。でも誰もいない。でも電気は点いている。不思議な事はあるものだ。こんな閑散とした、と言うか、1組しか居ない客に、このレストランは実に素敵な食事を出してくれたのだ。カニのリングイーネにレモンとパセリを混ぜて軽く塩を振ったものをプリモにして、セコンドにはナスと牛肉の煮込み、連れは喜んで高いワインを注文して ... 。イタリアというのは不可測な国だ。
翌朝はどこもかしこも開いていた。バーでコーヒーとコルネの朝食をとり、ミニ・スーパーへ食料の仕入れに入った。プリマ・ハムを100g頼んだ。店員さんはハムをスライスしながら、「貴女は日本人?」と聞く。そうだと答えると、私は日本語が少し話せると言うのだ。「こんにちは。ありがとう。わたしは、にほんごが すこし はなせます」。なかなか発音が良い。そう言うと、笑って「どうも ありがとうございます」と返してきた。イタリア語も日本語も開音節言語で、各音節が母音で終わる。その上、イタリア語も日本語も各音節がほぼ同じ長さなので、イタリア語が母語の人には日本語の言葉は発音し易い。スペイン語も同様。ほのぼのとした思いでボートに戻って、ハムを冷蔵庫に入れながら、ハテ、やけに重い。包みを開いてみると、山盛りのハムが出てきた。これが100gな訳はない。そういえば、パンとハムとサラダで€24(¥2,904)払った。本来ならその半額の値段なはず。おしゃべりに気を取られて、つい沢山切ってしまったらしい。でも美味しいハムだったから文句はない。
サリボリに着くと事務所は既に閉まっていて、給油所のおじさんが出て来て、ここに泊まれば良いと言ってくれた。でも岸壁が高過ぎて岸に上がれない。「隣のボートは大きいから、隣のボートを足場にすればイイ」と教えてくれた。「じゃ、わしは帰るヨ」。 ... ソーか。サリボリ迄は260km。それでも到着は事務所が閉まる時間になってしまった。ポルトフェライオへなら更に65km。連れの言う通り、一日の行程としては長過ぎた。どうして、こんなミスをしたのだろう。いや、ミスではない。十分に考えなかったのだ。何故?依頼心だ。連れが居るから、つい安心して十分に考えなかったんだ。何て事だ。
「シャル・ウイー・ファインド・ア・レストウラント?」「うん」とシオらしい声で返事。しかし、ここは港しか無い。町は遠い。「ゼア・メイビー・サムシング。ウイー・ネバー・ノー」と、連れは優し気。港内のミニ・スーパーらしき店は閉まっている。キオスクも閉まっている。バーも閉まっている。「ヒア・イズ・ア・レストウラント!」。でも誰もいない。でも電気は点いている。不思議な事はあるものだ。こんな閑散とした、と言うか、1組しか居ない客に、このレストランは実に素敵な食事を出してくれたのだ。カニのリングイーネにレモンとパセリを混ぜて軽く塩を振ったものをプリモにして、セコンドにはナスと牛肉の煮込み、連れは喜んで高いワインを注文して ... 。イタリアというのは不可測な国だ。
翌朝はどこもかしこも開いていた。バーでコーヒーとコルネの朝食をとり、ミニ・スーパーへ食料の仕入れに入った。プリマ・ハムを100g頼んだ。店員さんはハムをスライスしながら、「貴女は日本人?」と聞く。そうだと答えると、私は日本語が少し話せると言うのだ。「こんにちは。ありがとう。わたしは、にほんごが すこし はなせます」。なかなか発音が良い。そう言うと、笑って「どうも ありがとうございます」と返してきた。イタリア語も日本語も開音節言語で、各音節が母音で終わる。その上、イタリア語も日本語も各音節がほぼ同じ長さなので、イタリア語が母語の人には日本語の言葉は発音し易い。スペイン語も同様。ほのぼのとした思いでボートに戻って、ハムを冷蔵庫に入れながら、ハテ、やけに重い。包みを開いてみると、山盛りのハムが出てきた。これが100gな訳はない。そういえば、パンとハムとサラダで€24(¥2,904)払った。本来ならその半額の値段なはず。おしゃべりに気を取られて、つい沢山切ってしまったらしい。でも美味しいハムだったから文句はない。
エルバ島 Elba (伊)
ポルトフェライオ港の出入り口。
16世紀半ば、メデイチ家の当主コジイモがポルトフェライオに砦を築いたという記事が出てきた。続いてフランス革命の最中、4千人の王党派がエルバ島に避難し云々という記載もあった。しかし私にとって、エルバ島の歴史はナポレオンに始まる。ナポレオンは故郷のコルシカ島へ流される前に、先ずエルバ島に流されている。滞在したのは1年に満たない間だったが、多少の権力が許されていたようで、住民の生活向上のために経済的及び社会的改革を図ったようだ。それにしても美しいエルバ島で、フランス本土から海に遮られて、彼が考えたことは何だったろう。そもそも彼は英雄だったのか、侵略者だったのか。フランスにとっては、一時は英雄だったろう。ベートーベンも、そう信じて交響曲を書いた。が、後に侵略者の様相が明らかになった時、交響曲を廃棄しようとしたという逸話が残っている。ロシアにとっては、もちろん侵略者だったのは『戦争と平和』に詳しい。ロシアの最強の武器は冬将軍。同じ武器がナチスにも使われた。前年紀の話だが。
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さて、今年紀のエルバは如何?正直言って、どうという事もなかった。ポルトフェライオではランチを食べて、早々にマルチアーナ・マリーナに向かった。ところで連れと賭けをして私が負けてランチを奢らされた。連れは殊更にランチが美味しかったに違いないが、何で賭けたのかは思い出せない、つまらない事だが。しかしマルチアーナ・マリーナでは良い事があった。バステイアでバースが取れなければ困ると連れがしきりに言う。そこでサリボリから電話を入れたのだが、何故か応答が無い。やっと着いたが、バースが無いから次の港へ ... という訳にはいかないのだ。コルシカ島は、バステイア以北は海が荒い。西側も荒い。荒いから、それが面白くて行くヨット乗りは居る。しかし私のボート向きではない。バステイアを南下して最初の港はタベルナ(Taverna)だが、45kmも先だ。遠過ぎる。要は、コルシカには港が20km毎に開いている訳ではないという事だ。そこでマルチアーナ・マリーナの事務所に相談してみた。すると係りの人が、その場で電話を入れて「バース、取れたわよ」。やはり電話番号が変わっていたらしい。コルシカはフランス領だ。フランス領の情報をイタリアで手に入れるのは至難。「もっと困った事ない?」と、その人は言って私を見た。親切な人だ。
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コルシカへ
エルバ島を後にする。しばらくは羅針盤だけが頼りだ。ほぼ真西に角度をとる。陸がどんどん遠去かる。一人で、陸を離れる事が出来るだろうか?ボートに備わっている羅針盤は正確だ。それは知っている。GPSもある。携帯用の羅針盤もある。が、まだ時期尚早。超えなければならないハードルが限り無くあるような気がする。でも今日は連れが居るから心構えだけをすればいい。この人のヨットは14m。私のボートの1•5倍の大きさ。ハワイでも、南太平洋でも航海している。海に慣れている。ドーバー海峡は48.24km。晴天の日は、イギリスのドーバー(Dover)からフランスのカレー(Calais)が見えるそうだ。私のボートだと、2時間半の距離。マルチアーナからバステイア迄は98.4km、ほぼ倍の距離だ。いや、臆病風は吹き飛ばそう。今は安心して楽しもう。綺麗な空だ。海も青い。その上を、私のボートは水飛沫を上げて走る。
「キャン・ユー・シイ?」「ゼアズ・ア・ランド」「何処?」「ベリー・スライト。バット・ア・ビット・ダーカー・ブルー・アロング・ザ・ホライズン」。「スイー・ザ・アングル・ホエアー・ザ・コンパス・イズ・ポインテイング」。在ると言われれば在るようにも思える。それが段々紛れもない青い影になって浮かび上がり、実態になり、崖になって聳え立つ。「一寸、波が出てるわ。岸辺近くを見て。まだ1時にもならないのに」。「ザ・テンプレチャー・イズ・ハイ」。既に海風が吹き始めているらしい。スピードを時速16kmに落とす。双眼鏡で見ると、南の方角には多少白波が少ないように思える。岸から離れて先ずは南下すべきだ。つまり、風に煽られるから島の北端は特に荒れるのだ。しかし十分に南下すれば、ある一点から波が落ち着く。その辺りがバステイアだろう。
「キャン・ユー・シイ?」「ゼアズ・ア・ランド」「何処?」「ベリー・スライト。バット・ア・ビット・ダーカー・ブルー・アロング・ザ・ホライズン」。「スイー・ザ・アングル・ホエアー・ザ・コンパス・イズ・ポインテイング」。在ると言われれば在るようにも思える。それが段々紛れもない青い影になって浮かび上がり、実態になり、崖になって聳え立つ。「一寸、波が出てるわ。岸辺近くを見て。まだ1時にもならないのに」。「ザ・テンプレチャー・イズ・ハイ」。既に海風が吹き始めているらしい。スピードを時速16kmに落とす。双眼鏡で見ると、南の方角には多少白波が少ないように思える。岸から離れて先ずは南下すべきだ。つまり、風に煽られるから島の北端は特に荒れるのだ。しかし十分に南下すれば、ある一点から波が落ち着く。その辺りがバステイアだろう。
バステイア Bastia
バステイアの港を見下ろす。
しかしバステイアの町中も風が強かった。相対的には、より「穏やか」なのだろうが、通りを歩いていても吹き飛ばされそうだ。港を見下ろす丘の上のレストランに席を占めたのだが、ナフキンが飛ぶ、ビールは倒れる、誰もがテーブル・クロスを腕で押さえ、グラスも握っていなければならない。空いている席ではテーブル・クロスもナイフもフォークも見事に飛んで行ってしまう。それをウエイターやウエイトレスが追いかけて行く。隣のテーブルにサラダが高槻(たかつき)の器にのって運ばれて来たのだが、器の選択が悪かった。レタスがビュンビュンと飛んで行ってしまった。誰もが顔を見合わせて笑い転げている。
しかしバステイアの町中も風が強かった。相対的には、より「穏やか」なのだろうが、通りを歩いていても吹き飛ばされそうだ。港を見下ろす丘の上のレストランに席を占めたのだが、ナフキンが飛ぶ、ビールは倒れる、誰もがテーブル・クロスを腕で押さえ、グラスも握っていなければならない。空いている席ではテーブル・クロスもナイフもフォークも見事に飛んで行ってしまう。それをウエイターやウエイトレスが追いかけて行く。隣のテーブルにサラダが高槻(たかつき)の器にのって運ばれて来たのだが、器の選択が悪かった。レタスがビュンビュンと飛んで行ってしまった。誰もが顔を見合わせて笑い転げている。
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マリーナの周りには例によってレストランやカフェが軒を並べる。寿司屋もある。美味しかった。日本酒の吟醸も置いてあった。当然フランス料理もある。生牡蠣にレモンを絞って喉に流し入れる、海の味がする。これは連れと私の大好物。夕暮れ、誰もがゆったりと歩いている。寛いで通りを眺めながら、ミントをギッシリ詰め込んで氷を山と入れたモヒートを啜る、ザクザクザクっとストローで氷をつつく、これぞ夏の飲み物。時にワールド・カップが大詰めになっている。連れはそれを楽しんで見ている。この人は、16年前に奥さんを亡くし、共同経営者に裏切られ、一度人生の目的を失った人だ。44歳の時だ。それでも生きようとして、食事も三度三度作り ... が、段々に意気を失い、気付いた時はポケットに5ポンド札(660円相当)が1枚残っているだけだった、と言うのだ。この人が心から寛いで楽しむということは、久しく無かった。いや、私は初めて見る思いだった。
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町の広場。真夏の観光シーズンだが、静かでノンビリとした雰囲気。
連れは去った。だが戻って来る、母親を伴って。彼女は85歳で、今だに心理相談を受けて活発に働いている。反りの合わない夫と30年暮らし、離婚し、苦労した母親を労いたいのだった。連れも奉職して生活が安定して5年。「オーケー、ポート・ヴェッキオ(Porto-Vecchio)に行って待ってるから、貴方はお母さんとアジャクシオ(Ajaccio)に飛んで、レンタカーで山越えしてくれば良いわ。ロンドン・アジャクシオ間の便は毎日あるから」。
コルシカの山間部は一見の価値あり。海辺も完璧に設えてある。ボニファシオの絶景は言うに及ばず。コルシカは、イギリス人にとって遠い存在だったが、2018年から直行便が飛ぶようになって近くなった。ただし、コルシカ航空を使うと、数時間待たされる事になるかもしれない、イージージェットやルフトハンザは次々に離陸して行くのに。小さい空港だから、外国の便を入れると、わずかな時間のズレも補えないのかもしれない。
コルシカの山間部は一見の価値あり。海辺も完璧に設えてある。ボニファシオの絶景は言うに及ばず。コルシカは、イギリス人にとって遠い存在だったが、2018年から直行便が飛ぶようになって近くなった。ただし、コルシカ航空を使うと、数時間待たされる事になるかもしれない、イージージェットやルフトハンザは次々に離陸して行くのに。小さい空港だから、外国の便を入れると、わずかな時間のズレも補えないのかもしれない。
タベルナ Taverna
この言葉は、日本人には滑稽に響くだろう。「食べるな」と読めるからだ。これがギリシャに行けば、かつては居酒屋を意味し、昨今では広くレストランを指すのだから笑ってしまう。ギリシャ語の発音は「ターベルナー」でアクセントは最初の母音 [tá] に置かれるので、日本語の「食べるな」とは大分違って聞こえるのだが。で、その同じ綴りがコルシカの地名でもあるのを知った時は、キョトンとしてしまった。コルシカはフランス領で、国語はフランス語なのだから。この言葉は、ラテン語になると、「taberna」となって、アクセントもギリシャ語同様、最初の母音 [tá] に置かれる。意味も居酒屋。英語の「タバーン(tavern)」は 「taverna」から派生したものか、いつか誰かが最後の「a」を落っことしてしまったけれど。
かつて、この辺りに漁師や密輸業者がタムロした居酒屋があったのかもしれない、と思いながらカピテネリ(capitainerie、当然フランス方式)を目指した。ちゃんと監視塔があるカピテネリに入ると、フランス語ではなく、英語で応対してくれた。「あら、貴女、日本人ね」と、私のパスポートを見て言う。先週、日本人の男性ばかり6人(8人だったかもしれない)のグループが停泊したのだと話してくれた。珍しい事だ。日本人はセッセと働いて、自由を楽しむ時間なんか無いと思っていたのに。日本人も変わって来たんだ。結構な事だ。でも、奥さんたちは留守番なのかナ?
かつて、この辺りに漁師や密輸業者がタムロした居酒屋があったのかもしれない、と思いながらカピテネリ(capitainerie、当然フランス方式)を目指した。ちゃんと監視塔があるカピテネリに入ると、フランス語ではなく、英語で応対してくれた。「あら、貴女、日本人ね」と、私のパスポートを見て言う。先週、日本人の男性ばかり6人(8人だったかもしれない)のグループが停泊したのだと話してくれた。珍しい事だ。日本人はセッセと働いて、自由を楽しむ時間なんか無いと思っていたのに。日本人も変わって来たんだ。結構な事だ。でも、奥さんたちは留守番なのかナ?
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それにしても静かな所だ。音楽が聞こえて来るのでもなく、話し声があるのでもない。ひっそりとして何も聞こえて来ない。ただ、何かが囁いている。...? あれは、... 虫の声だ。相当な数の虫が鳴いている。虫の声のする方に行ってみた。ボート・クラブの扉はきっちりと閉ざされ、その前から叢が始まっていた。虫の声はこの叢から聞こえて来ていたのだ。それを掻き分けて行くと、浜辺に出た。誰もいない。頻りな虫の声を背後に、無人の浜辺は、淡い紫色に靄っていた。コルシカでは、7月の半ばに虫の声が聞こえるのか。日本では、秋になると聞こえた虫の声。それに真夏の上野公園の蝉、長野県の母の実家で聞いた蛙の大合唱 ... 。日本人の聴覚は虫の声を聞き取るが、欧米人の聴覚は聞き取らないという研究結果を読んだことがあった。それで何度かイギリス人の友人に試してみたが、彼らは確かに虫の声といったものには耳聡くないようだった。虫の声を聴くのは、日本人であることの証?
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サリ・ソレンザァラ Sari-Solenzara
海岸線に沿って走りながら、コルシカの地形は3段になっていると認める。1段目は白砂の浜辺。2段目は木が鬱蒼と茂る。3段目は切り立つ岩の連なり。勇壮な姿だ。この3段層が何処までも続く。木が伐採されて山肌を見せている箇所があるのではない。ヴィラが瀟洒な姿で海を見下ろしている事もない。海浜客すら無い。自然の山の塊が30度程の傾きで海に刺さり込んだといった風だ。まるで地殻変動の見本を実物大で見ているようだった。これは数日後、たまたま見つけた考古学博物館で確認した。コルシカもサルデーニアもかつてはイベリア半島の一部だったが、地殻変動で切り離され、海に落とし込まれた形で今日に至る云々 。
私はいつも岸辺から1km位の距離を保って進むので、水深は20mから80mはある。それなのに、いきなり深度計がピーピー鳴り出した。深度計は水深1mに設定してある。だから海底と船底の間が1m以下になったらサイレンが鳴る。見れば何と、深度計は0.9mを示している。まさか!深度計が故障したのか?いや、どうやら、この海岸線は大変な遠浅であるらしい。こういう大掛かりな遠浅は、紅海沿いのイエメンで見たのと、ケニアのモンバツサで見ただけだ。モンバツサでは、おまけにインド洋の干満の差が大変なスケールで水を退いていってしまう。結果、海底が何km(?)にも渉って露わになる。地中海では海の干満は殆ど無い。わずかにジブラルタル海峡で大西洋に繋がっている以外は、陸に囲まれた内海だからだ。だから海底が露わになることは無いが、こんな所でウロウロしてはいられない。もっと沖へ行かなければ。海図を見ると、この遠浅はポート・ヴェッキオ(Port-Vecchio)の近く迄続いていた。迂闊なことだった。まさか、こんな遠浅があるとは考えもしなかったからだが、しかし迂闊だった。機械に助けてもらった。
ソレンザアラのカピテネリ。
マリーナは手頃な大きさだった。カピテネリも白い壁に赤い窓枠で、可愛らしく仕上げてあった。周りには夾竹桃の植え込みがあり、ベンチが置いてある。側にレストランが2軒並んでいた。全てが整っている。豪華でもなく、貧相でもなく、庶民が来て楽しめる設備だった。停泊料も一泊¥3,640。ああ、フランスだ。ちなみにコルシカでは、バステイアで一泊¥4,550だった以外は、ボニファシオも含めて4千円を超えることは無かった。いや、違う!€200(¥26,000)という所もあった。小さなマリーナがボニファシオ海峡を渡った所にあった。サルデーニアから帰って来て、真っ直ぐポート・ヴェッキオに戻るつもりだったが、ここに一泊しても悪くはあるまいと思って乗り入れると、直ぐに身ぎれいな若い男性がゴムボートでやって来て、「お泊まりですか?」と、英語で聞いて来た。「ええ、そう思って入って来たんですが」と答えると、「停泊料が200ユーロなのはご存知ですか?」「え!」早々に逃げ出して来た。この一件は、ボニファシオの部分で改めて触れるべきだろう。
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ポートの隣は小さな海水浴場になっていた。気が向けば30分程泳いで来る。2軒のレストランの内、小さい方のレストランで鮪の叩き(tartare de thon)をよく食べた。ワインをグラスに1杯とパンとバターをつけてくれて¥3,000。週に一度、市も立った。野菜と果物とチーズ、それにコルシカ名物のソーセージが買えた。いかにも「一徹」、という感じのお爺さんがソーセージを売っていた。私が前に立つとジロリと見た。「1本いくら?」と尋ねると、又ジロリと見て「大きさによる」と、ぶっきら棒に答える。「じゃ、これは?」と、直径7cmで20cmぐらいの長さのを指差すと、「23ユーロ(¥2,990)」。その顔が「わしが作ったソーセージは安売りなんかしないんダ」と言っていた。「いいわ、それ頂戴」と言うと、一寸驚いた顔をして、でもシブシブそれを油紙に包みながら、「この紙に包んで、日陰で涼しい所に置いてくれ」と言う。まるで、手塩にかけて育てた我が子を、赤の他人に貰い子に出さなければならない時ででもあるかのように。そういう気持ちは、私にだって分かる。きっと大切に育てた仔豚を自分でつぶして、その肉をミンチで挽いて、腸詰めにして、日陰の涼しい所で気長に乾かした1本のソーセージなのだろう。味の分からないような奴に売れるような品物じゃないのだ。受け取りながら、「私は味の分かる人間なんです」という顔をして、そのお爺さんの顔を見た。その人は顔を背けた。寂しそうに見えた。
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可笑しい事があった。私が最初に振り当てられたバースの前に、イタリア人の夫婦が停泊していた。その奥さんという人は、いわゆるガミガミ言う人だった。いや、「ガミガミ」なら我慢できる。が、この人は「ガミガミガミガミガミガミ ... 」。つまり、果てし無く、しかも言い募るのである。それも大きな声で。ひどく押し付けがましい口調で。イタリア語だから何を言っているのかは分からないが、その果てし無い「ガミガミ」に、私は参ってしまった。で、ご主人はどうだったかと言うと、ただ聞いているだけだった、たまに「うん、うん」と言いながら。もちろん何かを言い挟むチャンスなど無かったのだが。私が何でバースを変わったのかは覚えていないが、事務所の都合だったと思う。しかし、それは「天の助け」だった。静かになって落ち着いた翌朝、何と彼等夫婦が移って来た、私の前に。ご主人が私に気付いて「いや、変えてもらったんですヨ。隣のボートの子供達がウルサクテ」。
https://books.google.co.uk/books The Vegetation of the Iberian Peninsula: Volume 2 |
ポート・ヴェッキオ Port-Vecchio
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自然が造った良港だ。ヴェッキオはイタリア語で「古い」という意味だ。だから「古い港」という事だが、こういう呼び方はフランスのマントンにもあった。私が停泊した港は旧市街にあって、「古い港」(Vieux Port)と呼ばれていたのである。同じ町に、スーパーから郵便局まで備わっている新しい大きな港があったので、「古い港」と呼ばれる港があっても頷けた。はて、ポート・ヴェッキオの新しい港はどこだろうと見回したが、無い。そこで歴史を紐解いてみると、古代ローマの時代からあった港であるらしい事が書いてあった。西海岸と違って穏やかな東海岸にあり、懐深く抉られた湾の中にあるのだから、これこそ英語で言うハーバー(harbour)の名に値する。ところが、この港は16世紀迄ほぼ放置される。というのは、近辺にはマラリアが繁殖する湿地が広がっていたのである。この地に基地を置いた古代ローマ人も、そして16世紀にやって来たジェノア人も、マラリアによって殆ど全滅する。19世紀半ばになってナポレオン3世が下水工事を命じたが、成功には至らなかった。蚊の退治は、何と、第二次世界大戦迄待たなければならなかったのである。フランス人は戦略的な必要のために、ここで下水工事を行い、湿地を埋め立て、薬を撒き、何世紀にも渉る蚊との戦いに勝ったのである。人口が増え始めたのは1950代になってからだというのだから、人々の努力に脱帽。成る程、ポート・ヴェッキオの町が不便な丘の上にある理由が分かった。
観光客が多い。夏休みの休暇で来ている家族連れも沢山いる。港の周りには色々な店が並んでいる。私もクッションを二つ買った。白い麻地で、アラブ風の肘掛用のヤツ。連れの母親が来るので、楽にしてもらうために。もちろん母親にはホテルを取ってあるけれど。果物を買って来よう。好きかもしれない。今は杏子が盛んに出ている。コンポートを作っておこう。「一徹なお爺さん」のソーセージもあるし。マリーナの側に大きな魚屋がある。あそこで何か見繕って来よう。パンはフレンチ・ブロンジェリーで買って来よう。お客を迎えるのは2年振り、ヴィレフランシェ以来だ。ウキウキする。それにしても連れは何をしているのだろう。もう夕方の6時だ。例によって電話をしても、留守電が言い訳を言うだけ。ホテルに行ってみた。まだ来ていない。「バーでお待ちになりますか?」そうすることにした。 https://en.wikipedia.org/wiki/Porto-Vecchio |
ボニファシオ Bonifacio
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絶壁の上に立つ町。監視塔だ。この辺りの海は、かつて「船乗りの墓場」と呼ばれていた。切り立つ崖はその裾をすっかり水に隠している。水深があると思って航行すると、水面下に隠れた岩があってぶつかる。水深計の備わった今日のボートだって、油断はできない。しかし崖の一部に水路がある。幅は100m位。水深もある。その長さ1.5kmの水路の突き当たりにマリーナがある。こんな狭い水路で、切り立った崖に両脇を塞がれて、深さもあって、と言うのは通常の川の成り立ちでは有り得ない。峡谷が水没した結果だそうだ。50m級のボートが水路の東側に缶詰の鰯さながらに停泊して、水路を更に狭くしている。それにしても珍しい光景だ。このような峡谷を、英語では「湾」と名付ける(the bay of Bonifacio)のだ。「湾」という言葉の理解が、捻じ曲げられそうだ。しかし絶景だ。特に帆船が高いマストを立てて、この峡谷を通る姿には見惚れてしまう。
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水辺が岩棚のようになっている。これでは小舟でも危ない。
ボニファシオ海峡を見下ろすレストランで、ランチを食べた。何を食べたか思い出せない。多分、景色を食べていたのだろう。水平線上にはサルデーニア島が浮かんでいた。しかし、陸路で行ったから呑気に眺めていられたのだ。連れとその母親が去った後に海路で行った時には、トンデモナイことだった。マリーナの運営が、何故かイタリア式だったのだ。10人程の係員達がそれぞれゴムボートで、「鰻の寝床」よろしきマリーナを駆けずり回って到着するボートのバースを探すのだから、能率が良いわけがない。さらに困ったことには、彼らのボートがありったけ波を蹴立てて行くので、一日中どのボートも大揺れに揺れる。ニアミスは引っ切りなし。誰もが、*バウ・スラスターをビービー鳴らす。
その内50m級の素晴らしい帆船が私の隣に船付けした。隣といってもバースではない。ポントウーンの端の1m位の所に付けたのだから、無茶だ。何と、相応のバースを予約しておいたのに、場所が無いというのだ。呆れたことだ。結局そのボートは、一晩中そこに留め置かれることになった。50mの船体を、1mのポントウーンの端に、どうすれば安全に固定できるというのだ。― そうした騒動は、崖の上から見下ろしている時には、全然見えないことだった。「あら、素敵な帆船がいるわ」とか何とか言っていたに違いない。
古代ローマが滞在した頃の記録は一見に値するようなものは見当たらないが、西ローマ帝国が滅亡した5世紀以後、コルシカも所属が目まぐるしく変わる。その後9世紀に入って、トスカーナの領主ボニファーチェ2世(Boniface II)が現在に残る城塞を築き、自らの名を以って町の名とし、サラセン帝国を抑制するための海軍を置く。つまりトスカーナの防波堤にしたのだ。これほど攻めにくい城塞も珍しい。ビザンチン帝国のコンスタンチノープルの城塞も三方は海に面し、残る一方は三重の城壁に守られて難攻不落の城塞と言われたが、ボニファシオは自然の助けを借りた稀有の城塞だ。それは70mの絶壁の上に築かれ、眼下に見下ろす海には、船が寄り付けない岩場が水面下に潜む。海峡の海流は当然速く、風が吹けば危険極まりない。城塞には海に向けて、大砲が今も並ぶ、かつての様相を示唆するものとして。
その内50m級の素晴らしい帆船が私の隣に船付けした。隣といってもバースではない。ポントウーンの端の1m位の所に付けたのだから、無茶だ。何と、相応のバースを予約しておいたのに、場所が無いというのだ。呆れたことだ。結局そのボートは、一晩中そこに留め置かれることになった。50mの船体を、1mのポントウーンの端に、どうすれば安全に固定できるというのだ。― そうした騒動は、崖の上から見下ろしている時には、全然見えないことだった。「あら、素敵な帆船がいるわ」とか何とか言っていたに違いない。
古代ローマが滞在した頃の記録は一見に値するようなものは見当たらないが、西ローマ帝国が滅亡した5世紀以後、コルシカも所属が目まぐるしく変わる。その後9世紀に入って、トスカーナの領主ボニファーチェ2世(Boniface II)が現在に残る城塞を築き、自らの名を以って町の名とし、サラセン帝国を抑制するための海軍を置く。つまりトスカーナの防波堤にしたのだ。これほど攻めにくい城塞も珍しい。ビザンチン帝国のコンスタンチノープルの城塞も三方は海に面し、残る一方は三重の城壁に守られて難攻不落の城塞と言われたが、ボニファシオは自然の助けを借りた稀有の城塞だ。それは70mの絶壁の上に築かれ、眼下に見下ろす海には、船が寄り付けない岩場が水面下に潜む。海峡の海流は当然速く、風が吹けば危険極まりない。城塞には海に向けて、大砲が今も並ぶ、かつての様相を示唆するものとして。
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帰途、海水浴場の看板があったので、その狭い通りに入ってみた。何と、小さな湾を前に、スタイリッシュに設えた海浜だった。母親はトイレを見つけて、そそくさと入って行った。清潔なこと疑い無しだったのだ。女はこの点に関しては目敏い。デッキチェアを出して貰って、パラソルを立てて、タオルも敷いて貰って、「ヤレ嬉しや」と落ち着いたところに、ボーイさんがやって来て「お飲み物はいかが?」。カクテルを飲みながら、目の前に浮かぶボートに目を遣る、たゆたう水を眺める、おしゃべりをする、緩やかに流れる午後の一時。この海浜には、ボートで来る人が少なくないらしい。目の前に浮かんでいるボートは、皆お客の乗り物のようだ。お客がボートで着くと、ボーイさんがゴムボートで迎えに行く。そしてレストランの席に案内する。席は皆水の中に設けてある。お客は足先を水に浸けて涼みながら食事をするという趣向だ。お値段は、デッキチェアが1人¥1,560で、カクテルも同額。何を飲んだのかって?テキーラのたっぷり入ったマルガリータ。
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又一人になった。さあ、どうしよう。ボニファシオに行きたい。しかし「船乗りの墓場」は恐ろしい。海流も、風も、海峡の場合は違う。風は目に見える。(いえ、見えるんです。風は、波に姿を借りるから。)しかし海流は見えない。ビスケー湾からフランスのジロンド河に入って、その流れの強引なことは身を以て知った。知らなかったから出来たことだ。あれから9年が経った。経験を積むということは、恐ろしさを知るということでもある。ボニファシオへボートで行った人のビデオを、オンラインで見た。参考にはならなかった。いかにも簡単そうに見えたから。海図を睨んだ。「虎の巻」も、穴のあくほど読んだ。気分転換にフランスのミデイ運河の写真を眺めた。ミデイには3年居た。色々なことがあった。... で、どうする?ボニファシオは?... 行コウ。
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前夜、海図と「虎の巻」を左右において、ログ・ノートを書いた。注意事項を丹念に書き込んで、重要事には赤線を引いて、それらを頭に叩き込んで眠った。まだ明け染めぬ内に起きて準備を始める。身支度をしてポケットに電話を入れ、キャビン内の倒れそうなものは全て倒し、キッチンの用具はキャビネットに押し込み、ドア全てをロックし、窓全てを閉めてこれもロックし、海図と双眼鏡をコクピットの座席に差し込み、ログ・ノートをコクピットの羅針盤の手前に置く。そして飲み水をたっぷりコップに注いでコクピットのラックに収める。クーリング・システムとオイルをチェックし、エンジンを掛けて機能全てのオート・チェックをし、障害なければ、ラインを所定の場所に結び、フェンダーを上げ、風向きを見定めてバースに結んだラインを1本、又1本、外して行く。それが終わると、ボートはフワリと揺れてバースから自由になる。角度を定めて前に出る、少しづつ、少しづつ。水面は滑らか、風力ゼロ。一人静かに港を出て行く。
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私のバースの前に城塞が聳える。急傾斜の石畳を辿って町に入る。息が切れる。風情のある町だ。9世紀の町。小さい海辺に出る道もある。
マリーナ沿いの瀟洒なレストランに入って、寿司を握ってもらう。ワインを口に含んで、呆気なくここに着いた事を思う。ウエイターが寿司の皿を出しながら、私の顔を伺う。私を日本人だと察して、寿司の出来を案じているらしい。私は、そんなどころでは無いのだ。昨夜からの緊張が解けて、思いを達成して、自分を労いたいだけなのだ。皿に載った5つの握りは、しかし、上出来。¥4,290。それにしても、こんな高い寿司ってあるだろうか? |
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ボニファシオのマリーナの周囲もゴッタ返していた。高級レストランがあるかと思えば、通りを挟んだ向かいの通りには安売りのスーパーがある。優雅な帆船の前に、沢山のイベント屋が簡易テーブルを出して、客の呼び込みに余念無し。そこに大型バスが着いで、観光客が雪崩出る。フランス庶民の、格好な数日の観光地なのだろう。しかし稀有の絶景に豪華船も来る。この「鰻の寝床」は、マリーナからの騒音と、その周囲の騒ぎとで蜂の巣をつついたような有様。2泊したが、去ることにした。私は混雑と騒音に弱いのだ、停泊料は格安の¥2,730だったのだけれど。この混乱を調節する方法は如何。多々あろうが、一つにはマリーナの使用を会員制にして、飛び込みの停泊者には大枚の使用量を提示してお引き取り願うという方法だろう。無論、観光バスの類は私用地にて入港不可。高額の停泊料は、暴利が目的であるというよりは混雑を避ける自衛策でもあるようだ。
*船首の真下を左右にくり抜いて小さいプロペラを取り付け、ボートの向きを左右自在に変えられるようにした装置。個人所有のモーター・ボートは、この装置を備えていることが多い。 https://en.wikipedia.org/wiki/Bonifacio,_Corsica https://edition.cnn.com/travel/article/bonifacio-france-secret/index.html |
アジャクシオ Ajaccio
コルシカは山間部も良い。切り立った山々の景観を眺めるために、ハイキングをしに来る人は多い。登山靴があった方がいい。色々なコースがあるので、体力や気分に応じて選べる。最高峰は北部にあるチント山(Monte Cinto)2,700mだが、他にも2,000m級の山が幾つもあるし、1,500mから1.000mのも色々ある。谷合の村々には宿泊施設もあって、私は車で通っただけだが、一寸アルプスに行ったような気がした。もちろん安価だ。若い時は一人で大雪山や黒部峡谷を歩いたが、今は1,000mも行けるかどうか。山歩きに来ていた若い人達を羨ましく、そして懐かしく見送った。
カニジョーネ Cannigione (伊)
手持ち無沙汰だ。こんな事は初めてだ。客は去り、ボニファシオにも航行を果たし、何というかウロウロする。何故だ?これ迄は、気に入った所があれば何週間でも居た。それで何の不都合も感じなかった。が、今は違う。サルデーニアに行くのは止めた。停泊料が凄く高いと聞いたからだ。引き換え、ポート・ヴェッキオは良い所だ。何でも揃っているし、停泊料は安いし。しかし、しかしだ ... と考えながらポントウーンを歩いていると、ヨットの上に女の人が居て、目が合った。ボート乗りの習慣で挨拶をした。するとその人は「どっかで会いましたっけ?」と聞くのだ。「いえ、そういう事は無かったと思いますけど」と返答して、それがきっかけで話しが弾んだ。彼女は女2人でヨットを操縦していた。そのうち相方も出て来て加わった。相方のご主人がキャプテンだったそうだ。キャプテンが亡くなった後も、彼女達は引き続き一緒に航海して30年になるというのだ。テイレニア海のことは周知していた。「確かにサルデーニアは高いけれど、まあまあな所もある。例えば、」と言って、比較的安価な所を幾つか教えてくれた。彼女達は二人共パリジェンヌ。「メルシー。エ・ボン・ヴォエジ」。
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再びボニファシオ海峡へ向かう。今回は海峡を越えて、サルデーニアに向かう。前回の時とは打って変わって、気楽な気分だ。何故だろうと考えて、ハタと気付いた。フランスへ渡って以来9年、同じ水路を通った事は無かったのだ。知った所を行くというのは、こんなにも気楽な事だと改めて知った。今日の停泊予定はカニジョーネ。V字型の湾の奥にある。海峡も難なく渡った。マーダレネ島とサルデーニャとの間を通って湾に入る。「湾」と書いたが名前は付いていないのか、名前が無い。この辺りはギザギザの地形で、湾が沢山あるのだ。
どうやら着いたようだが、何処へ行けば良いのか分からない。ああ、イタリア。空いている所に止めて ... とポントウーンの一つに近付くと、男が出て来て「ダメだ」と言う。何を聞いても、とにかく「ダメだ」と言う。おまけに「トンデモナイ」という顔までする。2つのポントウーンは彼の管轄らしい。そこで |
次のに行く。今度は怒鳴りはしないが「無い」と言う。次に行く。「無いと思うけど一寸待って」と言って、若い気の良さそうな男性が帳簿をめくる。そして「やっぱり無い」と言う。次にはもうポントウーンが無い、と思ったが、短いのがある。停まっているボートは幾つも無い。いかにも廃れて休業中みたいな様子だが、試しに行ってみた。すると背の高い品の良い男性が、英語で「ありますよ」と笑顔で言ってくれた。もう夕暮れだ。助かった。しかし電気は無い。私のボートは全てが電気で動くので、電気がなければ電灯は点かないし、コンロも点かない。トイレも使えない。シャワーもだめ。水すら出ない。仕方がないから、冷蔵庫以外の全ての電源を切って、今夜眠れる所があることに感謝した。
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山が近い。そして低い。切り立った山並みはコルシカと同じだが、緑の部分が抜けて、言わば2段の地形だ。急峻な峰々が直に海岸に載っている感じだ。サルデーニャ島は、より深い海に刺さり込んだのか。「虎の巻」を読む。「... 貧しさに閉じ込められ ... 」。改めて辺りの風景を見渡す。木が無い。切り立った峰々の裾野を覆うのは、貧相な藪。農作物が実らないのだろうか。資料を覗くと、サルデーニア王国という国が14世紀から19世紀迄存在したことになっている。しかも一時はコルシカ島も平らげて。しかし実際にはスペインのアラゴン家の属領に等しい存在だったようだ。スペインがサルデーニアに求めたのは何か。地中海争奪の拠点だったろう。
https://www.google.com/search |
ラ・カレッタ La Caletta(伊)
サルデーニアの山間部。
サルデーニアの東海岸をラ・カレッタ迄行った。その単調さに飽きを感じた。この単調な海岸を、帰途再び繰り返すのかと思うと、これ以上行く理由を失った。そこで内陸に入ってみる事にした。幸い格好のツアーがあって、早朝から夕暮れ迄のバス旅行に加わった。
道々の風景から、土地が痩せている事は明らかだった。石ころが転がる道と、その傍らに点在する貧相な藪。木が無い。木が育たないのか。道すがら、村々を見た。一体何を生業にして暮らしているのだろう。農耕ではあり得ない。家畜も牛ではあるまい。痩せた土地でも育つのは山羊だ。それに小さい野豚?
ランチの時間になった。ガイドさんがレストランに案内しながら、「今日のランチは典型的なサルデーニアのメニューです」と触れて回った。前菜には、プリマ・ハムの大皿が出た。プリ
道々の風景から、土地が痩せている事は明らかだった。石ころが転がる道と、その傍らに点在する貧相な藪。木が無い。木が育たないのか。道すがら、村々を見た。一体何を生業にして暮らしているのだろう。農耕ではあり得ない。家畜も牛ではあるまい。痩せた土地でも育つのは山羊だ。それに小さい野豚?
ランチの時間になった。ガイドさんがレストランに案内しながら、「今日のランチは典型的なサルデーニアのメニューです」と触れて回った。前菜には、プリマ・ハムの大皿が出た。プリ
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モはパスタ。芋虫のような形(Malloreddeus)をしていて、口に入れる気にはなれなかった。セコンドは大皿に乗った仔豚の丸焼き(Porceddu)。私の前には、黄金色に焼きあがった仔豚の上半身が置かれた。顔が私を見上げている。偽善的だとか何とか言われても、いや、なんと言われても、その凝視に長くは耐えられない。皿をそーっと90度回転させた。向かい側には、サルデーニア出身の機知に富んだご主人とその奥さんが座っていた。ご主人は仔豚の耳を千切りとって、それを奥さんに与えた。奥さんはそれを受け取って、おもむろに口に入れて咀嚼した。私も反省せざるを得ず、肩の辺りの肉を一切れ取って食べた。脂身が厚くて、肉が薄かった。サラダは出ないのか?その内やって来た。小さいステンレスのボールに、キュウリとトマトが丸ごと、ゴロンゴロンと入れてある。成る程、仔豚の丸焼きにキュウリとトマトを丸ごとカジル。野趣があると言えば、まあ、そうだろう。食後酒には、ミルト(Mirto)。サルデーニア及びコルシカに実る小粒の実を発酵させて作る紫紺色の飲み物。堪能したかって?まあ、話の種にはなるだろう。
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ラ・カレッタの手前に、パステルカラーの建物が一掴み、丘の上にあるのが海から見えた。あそこに行ってみたい!町の名はポサダ(Posada)と判明。バス停の時刻表を頼りに、バスを待ったが来ない。タクシー乗り場は何処だ?そんな物は見当たらない。タクシーなんて、そもそもラ・カレッタでは見掛けない。えい、隣の町だ、歩こう!私の歩幅は、まあ50cmとしよう。2歩で1秒、つまり1秒で1m進む。1分で60m。後ろを振り返って、目印の灌木を見た。感心した。知らなかったが、1分で随分遠く迄来られるものだ。ポサダの方向には、車道が一本通っていた。町の上方に塔が見えた。それを目印に道を定める事にした。
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近づくにつれ、パステルカラーの建物の実態が見えて来た。薄汚れた安普請の建物の集積だった、と言えば身も蓋もないが、まあ、そうだった。じゃあ塔にでも登ってみよう。真っ直ぐ塔に登る坂道がある。当然、急だ。いい、この道を行こう。アチコチ歩くのはイヤだ。塔の近く迄来ると、アイスクリームの看板を出したカフェとレストランがあった。観光客が来るのかナ?道を登り詰めると、そこはエラク急で、その上ほぼ180度のカーブでもあった。が、文句は言わずに入場料を払って塔の入り口に入った。狭い。そこに20人位の人の列が出来ていた。有名なのかナ?塔の見晴台に登れるらしい。見晴台には梯子が一本掛かっていた。私の前には太ったご婦人が立っていた。彼女の番になったが、梯子を登れるのかナ?諦めるのかナ?登るようだ。大変な事だ。オヤ、スカートをはいている。困った事だ。でもそんな事を心配している人は、列の中にはいないようだ。誰もが「オバちゃん、しっかり掴まって。さ、足を上げて ... 」と、いう顔ばかり。イライラしたり、ウンザリしている顔は無い。世の中は、良き人々に満ちている。私の番になった。私は細身、身軽に登った。途端に、大粒の雨が降り出した。「細身だの、身軽だの」と、いい気になったバチが当たったみたいだ。雨に濡れた景色は、しかし景勝と言ってよかった。これを見に、人々はやって来るのか。家並みがあり、道があり、緑があり、海があった。
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要塞の入り口。サルデーニアで最も良く保存されている中世のものの一つ。プレートにはカステロ・デラ・ファヴァ(Castello della Fava)と書いてある。
出て来ると、アイスクリームの看板はもうしまい込まれていた。閉まったらしい。レストランにも人気は無い。扉が閉ざされた道を降りて来た。雨は小雨になっていた。これなら雨宿りをしなくても良い。でも、お茶が飲みたい。でも、何処も開いていない。結局、3時間半(25,200歩)歩き通してボートに戻って来た、お茶一杯飲まずに。その夜、床について両足に非道い脱力感があった。以来股関節が案じられて、歩くのを控えるようになった。ラ・カレッタ・ポサダ間は距離にして4.3km、徒歩で51分だとネットは出している。往復だと1時間42分で、12,240歩という事になる。塔に登るのに往復1時間としても、合計2時間42分。残りの48分を、私は何をしていたのか?つまり、51分というのは、68歳の足で歩いた時間ではないという事か。
ポサダは紀元前5−4世紀に造られた町で、海から見ると、宝石が置かれているように見えるという記述があった。確かに私にもそのように見えた。だから、その姿を掴み取ろうとして何枚も写真を撮ったのだが、どれも遠過ぎて、私が見たようには写らなかった。近くに行けば、薄汚れた物に成り変わり、写真に撮ろうとすれば写らない。まるで女神のようだ、人間の私を近づけさせないのだから。伝説がある。14世紀ごろ、サラセン海軍が航行中ポサダを認め、空腹と疲労を癒すために町を強奪しようと考えた。しかしポサダでも食べ物は尽きていた。人々は最後の食べ物、一握りのソラマメを、一羽の鳩に与えた。鳩は豆を食べてサラセン軍の船に飛んで、そして落下した。サラセン軍は満腹の鳩を見て、ポサダの住民は十分な食料で力を得ているが、自分たちは疲弊し空腹を抱えている。これでは勝てないと判断して去った...という 話だ。Favaはイタリア語でソラマメのこと。つまり要塞の名は「ソラマメ城」。
ポサダは紀元前5−4世紀に造られた町で、海から見ると、宝石が置かれているように見えるという記述があった。確かに私にもそのように見えた。だから、その姿を掴み取ろうとして何枚も写真を撮ったのだが、どれも遠過ぎて、私が見たようには写らなかった。近くに行けば、薄汚れた物に成り変わり、写真に撮ろうとすれば写らない。まるで女神のようだ、人間の私を近づけさせないのだから。伝説がある。14世紀ごろ、サラセン海軍が航行中ポサダを認め、空腹と疲労を癒すために町を強奪しようと考えた。しかしポサダでも食べ物は尽きていた。人々は最後の食べ物、一握りのソラマメを、一羽の鳩に与えた。鳩は豆を食べてサラセン軍の船に飛んで、そして落下した。サラセン軍は満腹の鳩を見て、ポサダの住民は十分な食料で力を得ているが、自分たちは疲弊し空腹を抱えている。これでは勝てないと判断して去った...という 話だ。Favaはイタリア語でソラマメのこと。つまり要塞の名は「ソラマメ城」。
アルボ山を望む。
ラ・カレッタには6日間滞在した。その間、毎日仰ぎ見て、心が洗われる思いにさせてくれた山があった。「ああ、アルボ山ね(Monte Albo」」と、事務所の人は言った。「アルボ」という名は、石灰岩で出来ているので、その白い色から「白い山」という名が付いているという説明があった。しかしイタリア語の「白」という語は「bianca」で、フランス語でも「blanc」だから、恐らくラテン語の「albus」から来ているのだろうと察する。確かに、私はその白さに惹かれたように思う。形も頂上が台地になっていて珍しかった。バスで内陸に行くと、アルボ山に向かって進む事になる。道路が曲がる毎に、アルボ山が右になり、左になりして、山を追いかけているような気がした。ラ・カレッタに着いた時に心を捉えたのは、ポサダの姿だった。去る時に後ろ髪を引かれたのは、アルボ山だった。
https://www.sardegnaturismo.it/en/explore/posada
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タヴォラーラ島 Isola Tavolara(伊)
タヴォラーラ島。オデッセイの弓?それともステゴザウルス?
長さ5km、幅1km、高さ565mの島で、オルビア湾の南に位置する。行きは西側へ回ったので、帰りは東側を行く事にした。人口という程の住人がいる訳でもなく、NATOの無線方向探知機、VLF送信機ICV や燈台の設置に使われているだけだ。幾つかボートが停泊していたが、アンカーを降ろしているだけで、ハーバーがある訳ではない。何故この島を360度眺め回したかというと、その形に理由がある。ステゴザウルスみたいなのだ。頭と胴体との割合といい、背中の骨質の板よろしき天辺の襞といい、これが自然に出来た島なのか?と、不思議に思ったのだ。そう思ったのは私だけではないらしくて、古来様々な名前が付いている。「石の歩哨」、「オデッセイの弓」、「法王の岩」、「法王の洞窟」等。後者二つは、この島に法王セント・ポンテアン(St. Pontian)が流されて没したからだと思うし、一番始めのも、形であるよりは位置が理由で「歩哨」の名が付いたのだろう。じゃあ、「様々」ではなくて「一つ」じゃないか、と言われれば一言も無いが、「オデッセイの弓」は明らかに形によって付いた名前だ。しかも良い名前ではないか。*オデッセイは弓の名手だった。弓弦を思うきり引いてぴーんと撓った弓の形をした島だ。と、まあ、想像を掻き立てる形の島だと言いたいのだ。
*オデッセイはギリシャの島イタカの王。トロイ戦争で木馬の計略を以ってギリシャ軍を勝利に導いた。彼は弓の名手でもあった。
*オデッセイはギリシャの島イタカの王。トロイ戦争で木馬の計略を以ってギリシャ軍を勝利に導いた。彼は弓の名手でもあった。
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呑気にあれこれ想像していたら、彼方に暗雲が立ちこめている。夕立だ、まだ日は高いのに。こういう雲の下に居るとズブ濡れになる。が、100mも外れれば、晴天下。だからカーブを切って雲から逃げれば遣り過ごせる。こういう時には、私のボートは都合が良い。スピードを上げて急カーブも切れる、逃げ足の速いボートなのだ。ヨットはそんなわけには行かない。何と言っても風がなければ動けないし、方角を変えるのだって一仕事だ。雨が降ったって、おいそれとは逃げられない。当然ズブ濡れになるより他に手は無い。という訳で、夕立からは上手く逃げ延びたが、この後大変な事が起きた。オルビア湾(Golfo di Olbia)を突っ切って、フィーガリ岬(Capo Figari)を回り込んだ所で、けたたましくサイレンが鳴った。そしてエンジンが止まった。エンジンを掛け直し、サイレンが鳴り、エンジンが止まる、その繰り返しを何度かした。明らかに何かがオカシイ、しかもエンジンに関する何かが。*ペリカン・コールを発した。何度も発した。30分程した時、ゴムボートが近付いて来て、二人の男性が私のボートに乗り込んで来た。「私はジャーマニア・ノーヴァ号のキャプテンで、これは私の一等機関士。どうしたんです?」素晴らしい帆船が沖合に浮かんでいた。
*ペリカン・コール:生命の危険がない場合、周囲の船に救援を求めるメッセージ。これに対してメイデイ・コールは生命の危険に晒された時に発する。この場合は海上保安庁が出動する。 |
彼等はあちこちを点検した結果、「エンジンにデイーゼルを送る管が詰まっているようだ。何とかしてあげたいが、私達にはどうにも出来ない。牽引船を呼んで最寄りの港に行くしかない。今夜は何処に泊まるんです?」「マリネッラのマリーナに予約してあります。」「じゃあ、すぐそこですね。3キロちょっとだ」。「あ、フェリーが来る。一寸待って。フェリーに、連絡します」。「とにかく、空いている牽引船を探しましょう」。...「20分で来るそうです」。「今夜は強風が予報されているけど、マリーナ迄は牽引船でも1時間位で着くから大丈夫」。「じゃあ私達も、風が来ない内に港へ入らなければならないから、行きますね」。「着いたら私にメールして下さい。いいですか」。彼は私のボートで費やした小1時間の間に、ドイツ語で帆船のクルーに指示を与え、英語でフィリピン人の機関士と会話し、イタリア語で幾つかの牽引船に交渉し、且つ風向に気を配り、行き交う大小の船に注意し、機関士の点検の相談に乗り、全身の神経と五感をフルに使って、一瞬の休みもなく頭脳を回転させているのが、ビンビンと伝わって来た。大きな船のキャプテンとは、こういうものか。彼のクルーを待たせたし、何しろ助けてもらったので、何某かの礼金を申し入れたのだが、「クルーに聞いてみる」と言って去った。その後、「20人のクルー全員礼金の必要無しで合意」と返信して来た。
マルコがシャコタンを曳いてくれる。
牽引船は古い漁船のようだった。操縦している人は一言も英語は話さない。携帯の翻訳装置を使って、「費用はいくら?」と聞いたが、「後で」と言って、値段を言わない。良くない兆候。マリーナの入り口前に来ると、マルコがゴムボートで迎えにやって来るのが見えた。「5千ユーロ(65万円)」と、男が言った。1時間牽引して、しかもマトモな牽引船でもないのに、随分と吹っ掛けて来たものだ。聞きしに勝るサルデーニアの「海賊」振り。「貧しさ故に、海賊行為を生きる術の一つにして来た」と、「虎の巻」に書いてあった。「値段が高過ぎるようだから、今は払えません。明日の朝、出直して下さい」と応じた。保険会社に連絡すると、「こちらで交渉人を立てますからご心配なく。費用は全て保険で賄えます」という返事。€3,000(39万円)で手を打ったそうだ。「乞食は三日やったら、止められないそうだ」と母が言っていたが、海賊行為は一度やったら、マトモに働くなんてバカバカしくて出来ないだろう。イタリアには、こうした行為を取り締まる法律は無いのだそうだ。
翌朝、マリーナの主任技師が出て来てデジタルの携帯不良診断器で診断した結果、ベアリングが効かなくなっているという診断。そこでベアリングを取り替えたが、エンジンはやっぱり止まってしまう。今度は、いかにも「叩き上げました」といった感じの技師が出て来て、あちこち眺めて、突いたり、押したりしていたが、その内、燃料タンクに入っていた管を取り出して、ジッと見て、その先に嵌めてあった直径1cm位の物を取って、ポイっと捨てて、管をタンクに戻した。するとエンジンが高らかに鳴って、そして鳴り続けた。彼が捨てたのはフィルターだったのだそうだ。通常、そんな所にまでフィルターは嵌めない、無くても良いものなのだそうだ。いや、嵌めてあったからこそ、エンジンが止まったのだ。というのも、イギリスを出て以来、歴代の技師は知らないから取り換えなかった。9年も取り替えなかったのだから詰まるわけだ。主任技師は代金を請求しなかった。1時間以上も時間をかけて調べたのに。「海賊」が横行する傍らで、良心的な人だ。
https://en.wikipedia.org/wiki/Tavolara_Island
翌朝、マリーナの主任技師が出て来てデジタルの携帯不良診断器で診断した結果、ベアリングが効かなくなっているという診断。そこでベアリングを取り替えたが、エンジンはやっぱり止まってしまう。今度は、いかにも「叩き上げました」といった感じの技師が出て来て、あちこち眺めて、突いたり、押したりしていたが、その内、燃料タンクに入っていた管を取り出して、ジッと見て、その先に嵌めてあった直径1cm位の物を取って、ポイっと捨てて、管をタンクに戻した。するとエンジンが高らかに鳴って、そして鳴り続けた。彼が捨てたのはフィルターだったのだそうだ。通常、そんな所にまでフィルターは嵌めない、無くても良いものなのだそうだ。いや、嵌めてあったからこそ、エンジンが止まったのだ。というのも、イギリスを出て以来、歴代の技師は知らないから取り換えなかった。9年も取り替えなかったのだから詰まるわけだ。主任技師は代金を請求しなかった。1時間以上も時間をかけて調べたのに。「海賊」が横行する傍らで、良心的な人だ。
https://en.wikipedia.org/wiki/Tavolara_Island
マリネッラ Marinella(伊)
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小ぢんまりとしたマリーナだ。でもボート・ヤードもボート・クラブも付属している。マリーナの周りには、2階建ての回廊が出来ていて、アイスクリーム屋からレストラン、海をテーマにした装飾店から、海風に荒れた肌をいたわる品々を揃えた薬局まで入っていた。ここには、フランス風にカピテネリのような事務所があって、錨や魚網で室内を装飾してあった。そこに主任のような人はいたが、実際にボートの世話をしているのはマルコだった。彼は一言も英語は話さなかったし、学ぶことは頭から出来ないと決めてかかっているようだったが、必要なことは全て察して、手際の良い人だった。特にボートの操作が上手だった。
マリーナの脇には格好の水辺があって、そこはまるで「お一人様用の海水浴場」みたいな湾になっていた。もちろん、私しか行かない海水浴場だった。反対側には大きな海水浴場があって、海浜客は皆そちらへ行くからだった。周囲にはホテルや休暇村のような建物があって、広場に出れば、結構な人数の人もいた。教会もあったし、スーパーもあった。家族連れが殆どだった。この簡易なマリーナで、私は初めて寛いだような気がする。大陸を離れ、海峡を越え、一人で海に浮かび、エンジンが止まり、「海賊」に会い、一夏の出来事としては、もう十分だった。あとはサラ・ソレンザァラのボート・ヤードにボートを預けて、イギリスに帰るだけ。 |
マルセーユ Marseille
バステイア港を出て行く。
コルシカには北部だけに電車が通っている。中部と南部には、遠距離バスしかない。アジャクシオからポート・ヴェッキオへ、ポート・ヴェッキオからバステイアへと、時間は掛かるが安価だ。それぞれ€20(¥2,600)と€22(¥2,860)。バスでバステイア迄行って、バステイアからはフェリーでマルセーユに行くことにした。時間的には、バスは午後4時に着いて、フェリーは6時に出る。距離的には、バスはフェリーの乗船場所で終点となる。好都合。フェリーは翌早朝にマルセーユに着く。フェリーの代金は€54(¥7,020)と安価だが、船室を取った方が良い。船室の代金は4人部屋で€105(¥13,650)の上乗せ。一人でも同額だから、高上がりではある。私は座席で本を読んで夜を明かすつもりだったが、夜が更けるに連れ、辺りで男達がゴロゴロと床の上に寝転がって眠り、気付いた時には、女は私一人になっていた。これは居心地が悪い。何しろ男臭くてかなわない。慌てて船室をとった。
まだ夜明け前。船室の窓に燈の列が映った。マルセーユだ。2年前の夏、この海岸をひたすら東に向けて走った。今再びこの地に戻って来て、一抹の感慨をもつ。
四度目の夏が終わった
コルシカ。ホンの数ヶ月前迄は名前しか知らなかった土地だ。それが今は、コルシカに魅了されている自分を見出す。ひっそりとした白砂の海辺、鬱蒼と茂る木々、そして切り立つ山々。それに山間の村々も、そして何よりボニファシオ。私にとっては二つ目の、記念碑的な地名だ。初めて一人で海に出たパラヴァス・レ・フロットとボニファシオは、何を隠そう、怖じける自分と戦った土地だ。おまけにボニファシオは絶景の地、しかも地学的には稀有の地、どうして魅了されずにいられよう。連れの言う事に、たまには耳を貸した方が良いらしい。 (2018年9月7日記)
換金レート:€1=¥130 (2018年8月現在)
換金レート:€1=¥130 (2018年8月現在)
付記・島暮らし
島国の日本で生まれ育ち、島国のイギリスで人生の半分以上を暮らし、過去1年はコルシカとサルデーニアを巡ってみた。これにキプロスとシチリアでの経験も含めて考える。― 日本やイギリスにいると、海で隔てられている事によって、ある種の安心感が得られていると思う。が、それは日本もイギリスも、それぞれアジアの端、ヨーロッパの端に位置しているという条件付きだ。翻って、コルシカ、サルデーニアそしてキプロスは大陸に取り囲まれている。こうなると、海は必ずしも防波堤になってくれない。むしろ近隣の大陸へ行く飛び石に使われた。そういう意味ではシチリアもそうだった。いずれも貧しい、キプロスとシチリアは沃土に恵まれているにも拘わらず。しかし空路が敷かれた現在、これらの島々の役割は何だろう。夏場のリゾート地、そして冬場は忘れられた離れ小島。文化からは遠い、海が流通を阻むからだ、シチリアを除いて。
しかし同じ地中海の島でも、クレタ島はギリシャ文明の中でも一線を画した文明を生んでいる。クレタ島には32年前、一ヶ月暮らした。実に飽き飽きした。子供達がまだ幼くて、リゾートに缶詰になっていたからだが、今は独り身になって自由なのだから、見えるものが違うかもしれない。行ってみよう。何れにしても、島で暮らすには、海を知り、海を味方にしなければなるまい、古代ギリシャ人がそうしたように。 (2019年7月14日記)
しかし同じ地中海の島でも、クレタ島はギリシャ文明の中でも一線を画した文明を生んでいる。クレタ島には32年前、一ヶ月暮らした。実に飽き飽きした。子供達がまだ幼くて、リゾートに缶詰になっていたからだが、今は独り身になって自由なのだから、見えるものが違うかもしれない。行ってみよう。何れにしても、島で暮らすには、海を知り、海を味方にしなければなるまい、古代ギリシャ人がそうしたように。 (2019年7月14日記)
