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定年後をどうやって暮らそうか、と思案している方々へ

​​避寒地 その9  クレタ島
イラクリオン

クレタ島の思い出

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ハニアの海辺。軒並みのタベルナは客入りもよく、どれも繁盛。
​35年前、日本から両親が、スイスから姉夫婦(姉はスイス人と結婚)が、そして私たち親子4人が当時赴任していたイエメンから、1か月の夏休みを過ごしにクレタ島のハニア(Chania)で合流した。同じ休暇村にそれぞれマンションを借りた。両親のは見晴らしの良い2階で、7歳になっていた息子は毎日朝食を食べに行った。まあ、ブレックファースト・カフェといった処。メニューは決まってタマネギ入りのお粥。みじん切りにしたタマネギと生のお米に塩を一掴み入れて40分間弱火で煮て、最後に卵を割り入れてかき混ぜて出来上がり。これは父の創作。我が家は家族用の大き目な庭付きのマンションだったので、会合場所。つまり夕食は我が家。姉夫婦のマンションは物置。彼らはスイスでの重労働(もちろん共に銀行員)に疲れ果てていて昼食近くにならなければ起きて来なかったので、カーテンさえ開けたことがなかったというのが物置になった理由。
 
朝食が済むと町に出た。先ずは市場に行ってその日の夕食の材料を見繕う。海の幸満載。イカなど満載どころか文字通り山を成して水揚げされていた。私の背(156cm)より高い山。それがみんな小麦粉をまぶされて油に放り込まれて唐揚げになってレモンが添えられて皿に乗る。それが軒を連ねて並ぶタベルナ(ギリシャ語でレストラン)の超人気メニュー。我が家でもやった。但し塩を振って下味をつけ、小麦粉に片栗粉を混ぜて軽くして、ビールで溶いた衣。もちろん甘いレモン(ギリシャのレモンは木で熟しているので甘みがある)をたっぷり添えて。親子3代8人食卓を囲んで堪能した。
 
いや、ちょっと違う。その前に儀式があった。ワインの試飲である。市場の次はワイン・ショップ。なんで日本人の、しかも明治生まれの父が、日本酒ではなくてワインなのかは知らないが、ともかく米ならぬブドウで作ったワインに凝っていた。訪れる店の棚にあるワインを片っ端から買って夕食時に試飲するのである。どのボトルも匂いを嗅いで一啜りして、テーブル用と料理用に分けられた。殆どが料理用に回されたように記憶する。母と我が夫はいつも父から一番遠い席に座って、果てしなく続くワインの試飲を尻目に、テーブルの下でビールを開けてコッソリ二人で飲んでいた。スイス人の姉の夫は、父に一番近い席に座って父の講釈を拝聴していた。これ、国民的相違?スイス人は生真面目(きまじめ)なのである。翻ってイギリス人は個人主義的。
 
ともあれ、その日の買い物が済むとランチ。毎日違うタベルナでランチをタベた。でも父が注文したのはいつも同じで蝦。私達は色々なものを試したが、料理法は焼くか揚げるかのいずれか。それでも夏の陽射しの下で皆んなで囲む食卓は何にも増して楽しかった。何語で話していたのかって?英語、ドイツ語そして日本語。母を除いて全員英語はオーケー。父はドイツ語の方が話しやすかったようで、どうかするとドイツ語。夫達はカタコトの日本語で笑いを誘い、2歳の娘は日本語と英語で会話を引っかき回して、これ又満場のお笑い。笑み満面の両親の背後に、エーゲ海が光っていた。

ミノア文明

写真イラクリオン考古学博物館。
ハニアは異国人が到着した最初の土地であるとどこかに書いてあった。なるほど格好の湾がある。クレタ島の西側に位置する。ミノア文明が開けたクノッソスは東側にある。クレタ島には2000m級の山が聳え、峡谷がその間を縫い、往来は容易ではなかったろう。ヨーロッパで最初の高度な文明を築けた条件は何だったのか。紀元前2700年から紀元前1400年のことである。が、高度な文明が繁栄したのは、その末期500年位のことだ。つまり紀元前1900年以降。先ずは博物館(Heraklion Archaeological Museum)に行ってみた。広場を前に海を見下ろす高台に立っていて、市の中心を成している形だった。

展示は充実していた。全てが事細かに丁寧に並べられていた。特徴を挙げると、

​
​1)日常の生活用品が多い。壺や皿小鉢はもちろん、グリル、ワイン作りの道具や、鋸、槌といった生活用具が殆どで、武器はご  く僅か。しかも装飾が施されていて、実戦に使われたものであるよりは、儀礼用のものだったろうと説明されていた。珍しいのはボードゲームが陳列されていたことだ。それも芸術品のように美しく塗り分けられていた。
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グリルの用具。日本の焼き鳥風。
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4千年前の壺。
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左手の大きい壺はワイン作り用。
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美しく彩色されたボードゲーム。
2)印鑑が多数に上った。印鑑が広く流通している社会というのは、恐らく通商が盛んで書類の交換が多かったのだろう。それを裏付けるように、エジプトからのアラバスターや宝石が発掘されている。
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印とその印鑑。
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左手後方の淡色の器がアラバスターで作られている。
3)人物は横顔で描かれていた、古代エジプトの壁画のように。絵師がエジプトに赴いて壁画製作の手伝いをしていたらしい。しかし人物の顔はエジプトの形象化されたものとは違って、生き生きとした人間の顔だ。ギリシャの壺や彫刻に見られる写実的な人体美とも違う。翻って体は、男も女も一様に腰が非現実的に細くくびれている。女は白く、男は褐色に彩色されていた。
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艶な姿に描かれた女性像。
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「百合の王子 (The prince of the lilies)」と呼ばれているフレスコ画。腰が細くくびれている。
4)女がスポーツに参加していた。クノッソスで発掘された壁画に雄牛との格闘を描いたものがある。女二人がそれぞれ雄牛の頭と尻尾の位置に立ち、男一人は雄牛の背に宙返りをした格好で描かれている。ミノアのスポーツウーマンは、ビキニの水着のように、最小限の布を胸と腰につけて、颯爽(さっそう)としたものだ。
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雄牛に飛び乗る (Bull-leaping fresco) 様を描いたフレスコ画。両端の人物二人は女性。
以上を総合してみると、
  • 生活用具が重視され、
  • 通商が合法的に営まれ、
  • 独自の美意識を表現し、
  • 女が男に混じってスポーツを楽しんでいた。

クノッソス

バスを降りて進行方向に50mほど行くと、左手にクノッソスの入り口があった。ギフト・ショップで一番薄いクノッソスについての本(薄い本は要点だけを書いてあるから入場時に買う。詳細を知りたい時は、厚い本を帰る時に厳選して買う)を買った。これで見学準備オーケー。出て来ると、待ち人顔の人が数人いる。観光ガイドだ。5〜6人の見学者が集まったところで出発ということにするのだそうだ。値段を聞くと1人€80。随分高い。どうりで客が少ないわけだ。私は素通り。説明して貰えば良い時もあるだろう。しかし物を見て歩くというのは極めて個人的な行為のように、私は思う。考えたり、見入ったり、想像したり... 。だから自分のペースで、自分の思いのままに見て歩こうというのが私の信条で、これは何処で何を見るのでも同様。
写真広場へ続く道。
​道を辿って行くと広場に出た。東側はテラスになっていて、眼下の山あいに立つ建物を見下ろすようになっていた。眼前にはこんもりとした山があった。空は青く、空気は暖かかった。数人の人がテラスに立って、思い思いに佇んで、太古に思いを馳せているようだった。何故か話し声は、何処からも聞こえて来ない。気候は、日本の風薫る5月ぐらいか。4千年前の、しかも津波で破壊され、戦火に明け暮れた数世紀を経て、なお存在しているのが不思議だった。トロイには何も残っていなかったのだから。

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広場。クノッソスの中心に位置する。
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​実はクノッソスに現存する「遺跡」は、発掘を指揮したアーサー・エヴァンズ(Arthur Evans 1851-1941)が修復を施したところが多々あるらしい。トロイの遺跡を訪れた時には、トロイがどんな街だったのかを想像することはできなかった。引き換えクノッソスには想像する手がかりがあった。立体的な建物の構造、色彩、装飾の破片が、かつての姿を伝えていた。当時の有様の想像図すらあった。
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クノッソス宮殿の想像図
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階上の一室
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女王のポーチ
​再確認したい一事がある。武器の製造が少なかったらしい事だ。これは、どういう社会を示しているだろう。平和な社会だ。
 
クノッソスで何が印象に残ったかというと、遺跡という訳ではない。遺跡の真ん中に座って、不思議に静かな気持ちになったのだ。何故だろう。三方は山に囲われ、一方が開けていた。海に続く方角だ。山は高くはなくて、丘と言っても良いような高さだ。木も植物も特にどうというものではない。こじんまりとした山懐(やまふところ)に座って、辺りに耳を澄ましている感じだ。鳥が殊更に歌っていた訳でもない。ただ、せせらぎの音、羽虫の羽ばたく音が聞こえて来そうだった。この感覚に覚えがある。キプロス島で道に迷って、アーモンドの果樹園に迷い込んだ時の、あの感覚だ。何が共通するのだろう。人の気配が無い。人のいない所に戦争は起きない。小さい島だから猛獣もいない。生死を争うドラマは無くて済む。山や谷を微風が吹き抜けて行くだけだ。​
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クノッソス周辺の風景

いや、しかし、それは現在の状況だ。クレタ島は大地震の余波を被っている。ミノア文明末期のことだ。クノッソスが破壊された理由を研究者は地震に帰す。しかし反論もある。地震の余波で破壊されたのなら、辺り一体が破壊されたはずで、クノッソスだけが破壊されるという事にはなるまい。ギリシャのミケーナイが襲ったのだ、とは反論者の推論だ。しかし論拠にする事実の裏立てが乏しい。破壊されたからだ。残っているのはギリシャ側の資料だけだ。
​例えば『ミノトウロス』というギリシャの物語がある。ミノトウロスは半身が雄牛で半身が人間という怪物だ。雄牛と王妃との間に生まれて、クノッソスの内奥深くに隠された迷路の中に閉じ込められている。そのためにアテーナイの若い男女7人ずつが毎年クノッソスに生贄(いけにえ)として贈られた。しかしミノトウロスは生贄を食い散らすだけの怪物ではなく、人間の心に戻る時間がある。そういう時には、ミノトウロスは自らの運命を嘆く。雄牛の体に閉じ込められた人間の彼が嘆くのである。結末は、アテーナイの王子が生贄に混じって迷路に侵入して、ミノトウロスを撃って帰還するというギリシャ側の英雄譚で終わっている。この視点で見る限り、クノッソスは生贄を屠る怪物の住まいということになる。私の目にもそう映った。しかしクノッソスに来てみれば、山懐に壮大な宮殿が造営されて、人々は平和に暮らしていたらしいことを語る。
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ミノトウロス。アテネ考古学博物館蔵
当時の状況を概観してみよう。クレタ島はクノッソスを中心に統一されて、地中海を舞台に貿易を営んで栄えていた。近隣のサントリーニ島を含むキクラデス諸島、ロードス、コス、キプロス、シチリア、エジプトそして西アジアをも含めて、侵略によるのではなく、通商で結ばれていた。クレタ島の王ミノスは自らエーゲ海を航海し、横行する海賊から商船を守るべく海軍を編成していた。
 
                  These colonies were achieved not by wars, but with merchant stations. 
 
上記の一行を『クレタ島の歴史』(History of Crete, explorecrete.com) に見出した時、この見慣れない記述を不思議に感じた。と言うのも人類は、何処でも、何時の時代でも、他を侵略して搾取して来たではないか。それなのに「これらの植民地は、力ずくではなく、通商によって結ばれていた」というのだ。
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クレタ島周辺の地域。
​しかしサントリーニ島が噴火して、その土地の大部分が瓦礫に帰し、水没した。紀元前1450年頃の事だ。当然余波は近隣に及び、クレタ島は津波によって北部が破壊された。クノッソスも。ミノア文明の終焉である。
 
その後ペロポネソス半島(ギリシャ南西部)からミケーナイ人がやって来て住み着くことになる。ミケーナイは紀元前1700年頃から台頭して、その最盛期は紀元前1350年から紀元前1200年頃と伝えられる。彼らはミノア人とは違う。時を下ればトロイ戦争の総大将としてギリシャ側を率いたのはミケーナイのアガメムノーン王だったのだから、戦争を回避しよう等という伝統は育んでいなかった。海賊行為にも参加した。ホーマー(Homer)が『イリアド( Iliad)』にミケーナイの様子を端的に書き記している。「Rich in gold」。まあ、金銀財宝に埋もれて贅沢好みだったようだ。恐らくミノア人の不運に同情などもしなかったろう。むしろ、これ幸いに隣人の不幸に付け込んだのかもしれない。ミケーナイが勢力を伸ばしていく紀元前1700年からミノアの終焉までの250年余りは、言うなれば、ミケーナイはミノアの繁栄を眺めて暮らした年月だったと言える。ミケーナイが、サントリーニ島の噴火の煽(あお)りを食ったミノアの不運を、覇者に成り代わる好機だと見たろうことは想像に難くない。
                                                                                   
https://www.explorecrete.com/history/crete-history.html
https://en.wikipedia.org/wiki/Mycenaean_Greece
 ​

地理と気候

​最初の問いに戻ろう。ミノアがヨーロッパで最初の高度な文明を築けた条件は何だったのか。
 
先ず地理的条件から見ると、クレタ島はどの大陸からも、言わば「付かず離れず」の位置にある。キプロスは小アジアに近過ぎる。シチリアなどは地続きだと思われても仕方がない程イタリア本土に近い。他方クレタ島へは現在のフェリーでもアテネから9時間はかかる。紀元前の帆船なら二日掛りだったろう。それも都合良く風が吹けばという条件付きで。反面、通商で往来するのなら遠過ぎはしない。後年ヴェニスの商船がイスタンブール迄行き来した距離を考えれば、苦にする距離ではない。ヴェニスの商人は2.3年の旅の予定でイスタンブールに船を出したのだ。それに比べれば、エーゲ海の島々には数日で行けたはずだし、多少遠いキプロスやエジプト、シチリアにでさえ2・3週間の旅だったろう。
 
次に島の状況だが、地中海ではシチリア、サルデーニア、コルシカ、キプロスについで5番目に大きい。正確には8,450km2だから、四国の約半分と考えれば良いか。四国の最高峰は石鎚山の標高1,982m。クレタ島の最高峰はイダ(Ida)で標高2,456m。細長い島には、山あり、峡谷あり、平地あり。貿易に都合が良かったのは、島の北側には湾が幾つかあったことだろう。気候は冬も温暖で島の南東部は一年中農作が可能だ。現在でも農業が盛んで、就業人口の半数が農業に従事しているというのだから、紀元前の状況は島を挙げての農業国だったろう。クレタ島には古来オリーブが至る所に植林されている。オリーブが育たない高地では山羊が放し飼いになっている。キリキリ(kri-kri)である。キリキリはかつてエーゲ海の島々に広く生息して、クレタ島では、恐らくミノア時代に飼育され始めたと推測される。そしてもちろん島なのだから、海からの幸はある。ハチミツも特産だそうだ。要約すれば、クレタ島は自活が可能だった。のみならず、恐らく食料を輸出することもできたろう。
 
https://en.wikipedia.org/wiki/Crete
https://aj4u.info/agricultural-sector-crete
 
 
外敵からは距離があり、島内では人々が食べていけるだけの食物が育つ。この上さらに必要なものは何か。指導者だ。王のミロスは、ギリシャ神話によれば愚かな人物として語られる。話はこうである。ミロスは王位に就いたものの、その権威を兄弟に脅かされる。そこで神威を借りて自らの権威を示すために、海神ポセイドーンに頼んで白い雄牛を送ってもらう。その神聖な白い雄牛をポセイドーンに犠牲として捧げることで、海神の加護を得ていることを示すために。しかし白い牡牛が送られて来ると、その美しさにミロスは牛を自分のものにすることにして、生贄には他の牛で良かろうと考える。怒った海神はミロスの不実を懲らしめるために、王妃が牛に恋するように仕向ける。かくして生まれたのがミノトウロス。
 
しかし博物館で見る限り、又クノッソスの遺跡を歩く限り、愚かな指導者の姿は浮かんで来ない。指導者は、人々の日々の暮らしを何よりも大切に思って数多の生活用具の製作を促したのに違いない。あるいは通商を合法的に営むために、印鑑の使用を奨励したのではあるまいか。生き生きと描かれた壁画やフレスコは、生命を讃えているように見える。鬱屈(うっくつ)した人間に描けるものではない。女が男同様に公でスポーツができる社会とは、どういう社会だろう。女にも楽しむ自由が与えられていたと考えられないだろうか。エーゲ海を隅々まで知り、海軍を編成して自分の息子達を海賊取締りに送り出した。そういう事をした指導者が愚かだったとは思えない。
 
ミノトウロスの話にはプロローグがある。ミロスの息子の一人がアテネに行って、滞在の間に何故か殺された。その償いに、7人の男女が毎年クノッソスに送られるようになったのである。エピローグもある。ミノトウロスを撃った後、アテネの王子テーセウスはミロスの娘のアリアドーネの助けを借りて無事に迷路から出られた。しかしアドリアーネが帰りの船に乗っていない事を嘆いて、父親に約束した白い旗を船頭に掲げるのを忘れた。旗が掲げられていなければテーセウスが死んだ事を意味した。旗が無いのを認めた父王は悲しみの余り、城壁から身を投げて死んだ。この結末は何を語っているだろう。ギリシャ悲劇が因果応報に沿って語られることを念頭に置けば、テーセウスの失念が父王の死を招いたのだから、背後には悲劇で終わるべき理由があったことを示唆しているのではあるまいか。ギリシャの英雄譚だけが存在するのではない。
 
残念なのは、ミノア文字が判読されていないことだ。エヴァンズは、文字がミノア文字(Linear A)とミケーナイ文字(Linear B)との2種類で書かれているとした。 ミノア文字は100字以上の数にのぼり、*音節で表わされたようで、表音および表意文字を含むらしい。ミケーナイ文字はミノア文字と似ているが、10%前後が異なる音を示すらしい。ギリシャ文字発祥は3000年前に遡るが、その前後BC1100からBC750はギリシャの暗黒時代(Greek Dark Age)と呼ばれて、ミケーナイの宮殿も街も瓦礫に化し、それ以後の時代とは隔絶してしまった。ミノアの真実は、永遠に封じられたままで残るのだろうか。
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ミノア文字。イラクリオン考古学博物館蔵。
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ミケーナイ文字。米ブラウン大学蔵。
ところで特記すべきは、印刷が行われていたらしい事だ。粘土で円盤を作って、柔らかい粘土に判を押して円の外側から弧を描く形で文字が中心に向かって並んでいる。そして焼き上げた。まあ、活版印刷の粘土版といった処だ。印刷の技法は2500年後の中国で、ヨーロッパでは、グーテンブルグが印刷機を発明したのは更にその600年後のことだから、ミノアの印刷技術は時代を先んじていたというだけでは表し切れないほど先んじていたわけだ。
 
*日本の50音字も音節で示される。例えば「か(ka)、さ(sa)」。これに対してアルファベットは音素文字。例えば「k、s」。また日本文字も表音文字(仮名)と表意文字(漢字)から成る。アルファベットは表音文字。
 

https://en.wikipedia.org/wiki/Arthur_Evans
https://www.google.com/search?q=shuriemann
https://en.wikipedia.org/wiki/Heinrich_Schliemann
https://en.wikipedia.org/wiki/Linear_A
https://en.wikipedia.org/wiki/Arthur_Evans
https://en.wikipedia.org/wiki/Linear_B
https://www.britannica.com/topic/Greek-alphabet
Guns, Germs and Steel, Jared Diamond (p261,2017)
 

二人の発掘者

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エヴァンズ
​クノッソスの発掘を指揮したエヴァンズは、財団を設立してクノッソスが立つ土地を買い取り、発掘し、一部を修復した。彼はイギリスの富裕な家庭に生まれ、*パブリック・スクールからオックスフォード大学に進むというエリートコースを辿った。彼は父からの潤沢な仕送りを得て、在学中からヨーロッパを広範に旅した結果、卒業後は東欧の海外特派員を務め、34歳でオックスフォード大学に付属するアシュモレアン博物館(Ashmolean Museum)を整えて管理した。

​対してトロイを発掘したシュリーマン(Heinrich Schliemann, 1822-1890)は考古学の専門家ではない。彼は幼い時に貧しい牧師だった父に『イリヤド(Iliad)』を教えられて、いつの日か将来トロイを見つけ出そうと夢見た。彼は雑貨屋の見習いを初め、様々な土地で働いて13ヶ国語を操って事業で成功し、36歳で引退して少年時代の夢を追ってトロイの発掘を始めた。夢想でしかないかもしれないものを、あると信じて、来る日も、来る日も、土と埃にまみれて、瓦礫の中で、何年も暮らした。結果、彼の情熱がトロイの詩篇を事実にした。
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シュリーマン
​しかし、トロイの遺跡に立った時、考古学の知識が無い私は、小学校5年生の時に読んだ『ギリシャ神話』の末尾に語られた、トロイ戦争の物語を記憶でなぞる以上の事はできなかった。翻ってクノッソスの宮殿跡を歩いた時には、柱の有り様、室内の様子、建物の規模が想像できた。壁に描かれた人物や植物には、目を吸い寄せられるように魅せられた。動物の姿も、まるで神話に出てきそうな、犬の様だが翼があり、体はライオンのようで頭は鳥のような生き物が描かれていた。それらが太古への夢を誘うような効果を与えた。
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イラクリオン考古学博物館蔵。
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王の会見の広間を飾る壁画。
          the throne room (due to the throne-like stone chair fixed in the room) repainted by a father-and-son team of Swiss
          artists, the 
Émile Gilliéron Junior and Senior. While Evans based the recreations on archaeological evidence, some
          of the best-known frescoes from the throne room were almost complete inventions of the Gilliérons, according to
          his critics

 
王の会見の広間(the throne room)を飾る壁画は、スイス人の画家親子が描き直したもので、殆ど完全に彼ら二人の創作だとは、エヴァンズを批判する専門家の言葉だ。実はエヴァンズを非難する向きは、専門家の中には少なからずある。エヴァンズの想像が、事実を歪曲せずには置かなかったろうという意見だ。つまり彼の夢想したクノッソスを見せられているだけだ、と。いやむしろ、エヴァンズはクノッソスの真実を永久に破壊してしまったのかもしれないとも。
 ​
出口近くまで歩いて来た時、すぐ背後で音がして、物の気配を感じた。思わず振り返ると、何処から現れたのだろう、一羽の孔雀が悠々と道を横切って行くのだった、まるで夢が横切って行くように。

​*パブリック・スクール:王族や上流階級及び資産家や上部中流階級の子弟が行く学校で、指導者養育を旨とする。(例)イートン校。

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太古以後

​その後のクレタ島はどうなっているのか。そこで資料をざっと見ると、紀元前1世紀にローマ帝国に統合されて(BC69)繁栄もし、帝国内の防衛と流通の恩恵を受けて「程良い遠さ」にあったクレタ島も、帝国内の一部になって900年が過ぎる。これがクレタ島の*古代であるらしい。島の中央南部にあるゴルテイナ(Gortyna)はローマ属州時代の首府。遺跡が現存する。やがてローマ帝国の弱体化が進み、アラブの攻勢が押し寄せて、クレタ島は一時アラブ統治を経験する(820s~961)が、東ローマに奪還される。さらに数世紀後には十字軍の指揮官ボニファチェ(伊)に与えられ、彼はクレタ島をヴェネチアに売る。13世紀始めの事だ。
 
*現在欧米で最も広く用いられている古代,中世,近代の3区分法は、ツェラリウスによってルネサンス時代に成立した。この方法によると,コンスタンチヌス1世 が在位した時期 (306-337)までを古代,コンスタンチノープルの陥落 (1453)までを中世,それ以後を近代としている。https://kotobank.jp/word
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ヴェネチアの港の図。クーレス要塞の展示。
海運国ヴェネチアは、海辺に位置するイラクリオンに首府を移して街造りに着手する。イラクリオンの街を歩くと、ヴェネチアの港(Venetian Port)とか、ヴェネチアの城壁(Venetian Wall)とかいった標識を目にするが、現存する古い建物や城壁は、ヴェネチア人が13世紀以降に造った事実によるからだ。ヴェネチア統治時代の当初は、重税を課された島民の反乱が、その始めの約100年間に14回も起きていて、波乱に満ちていた。しかし結局は鎮圧される。地中海を股にかけて往来する海運国ヴェネチィアが、格好の中継点であるクレタ島を手放すはずはなく、強大な組織力と財力を持つ最盛期のヴェネチアに、クレタ島が対抗できるわけもなかった。結局ヴェネチアは450年間、クレタ島民に重税をかけ、戦場に駆り立て、クレタ島の産物を出荷し、自国の便を図ることに終始したようだ。
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ヴェネチア人が建てた造船所跡。
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延々と続く防波堤。ヴェネチア人の抱負の程が見える。
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ヴェネチア人が補強した港が今に残る。
ヴェネチアが去ったのは、17世紀の後半に入った頃だが、それもクレタ島民に自由をもたらす訳ではなかった。代わりにオスマン・トルコの支配が始まったからだ。少なからぬ島民が、キリスト教からイスラム教に改宗した。多少の実利的便宜があったからだ。ところで、どんなものだろう。私の両親は仏壇も神棚も置かない人達だったし、私も神様無しで困ったことは無かった。しかし仏壇があれば合掌もするし、神棚があれば参拝もする。けれどもイギリスに在住して45年になるが、讃美歌を聴きはしても歌わない。歌詞を知らないからだ。じゃあ、覚えようか、という発想は浮かんで来ない。じゃあ、歌え、と強制されたらどうだろう。断ると思う。税金を少し減らしてやるから、どうか?と言われても、断ると思う。キリスト教は、私の血肉とは無縁の所にあるからである。
 
宗教も生活習慣も言語も全く共有しない存在に支配されるのは、どんなものだろう。終戦後、アメリカからマッカーサー元帥がやって来て、「日本改革」に着手した。まず「戦争放棄」を憲法に入れた。次に「財閥を解体」した。そして「農地を解放」した。地主は一夜にして全ての農地を失った。さらには日本語にも注目して、愚かな戦争を引き起こしたのは、思考を現実化する言語に問題があるからではないかと考えた。しかし日本人の識字率が非常に高い事を知って思い直す。日本の国土は70️%が山林地帯で、山林が農地同様に価値の高いことを知らなかった彼は、13%にとどまる農地だけを開放して事成したと考えた。財閥に関しては、解散令を撤回した。一国の経済を動かすにはある程度の有力企業が必要であることに気づいたからだ。「戦争放棄」は残った。彼は理想的な国を作ろうとして日本にやって来たが、宗教も、生活習慣も、言語も違う国を統治することは容易ではないと知ったことだろう。彼は数年で日本を去った。しかしオスマン・トルコはクレタ島に230年間とどまった。しかも過酷な統治だった。前宗主国のヴェネチアすら寛大ではなかったことを考えれば、700年の長きに渡った他国による圧迫が、クレタの中世と近代であったようだ。
 
https://en.wikipedia.org/wiki/History_of_Crete
http://www.asahi.com/special/sengo/visual/page4.html
https://www.mpm.edu/research-collections/anthropology/anthropology-collections-
https://www.varsitytutors.com/ancient_history_rome-help/separation-of-the-western-and-eastern-empires
https://en.wikipedia.org/wiki/Republic_of_Venice
https://www.maff.go.jp › kokudo
https://core.ac.uk/download/pdf/230205138.pdf
https://en.wikipedia.org/wiki/Ottoman_Crete
https://en.wikipedia.org/wiki/Candia_massacre

現代のクレタ島

​​今日に戻ろう。冬、マルタからイラクリオンに移動するには2度乗り換えなければならなかった。午前中にヴァレッタを発ち、ミラノで乗り換え、さらにテッサロニキで乗り継ぎ便を待っていた時は夕陽が落ちていく時間だった。だからイラクリオンに着いた時はもちろん暗闇。タクシーの運転手に「この辺りだ」と言われて降ろされたのは舗装もしていない路地裏。石ころが、それも大き目のが不均等に転がっていて足元が危ない。それでも、それらしき建物を見つけて説明書きに沿って鍵を使って建物に入ると先ずは階段。後日数えて知ったその73段の螺旋状の階段をスーツケースを下げて上り詰めた所に目指すドアがあった。が、電気が点かない。電気を点けるためのスロットに入れるカードが無いのだ。
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テッサロニキ空港の落日。
​とんでもない所に舞い降りたかと思ったが、とにかく家主が来てくれて一件落着。電気の明かりの下で見ると、キッチンには大きなバスケットの中に、ビスケット、パン、チョコレート、コーヒー、ミルク、ワイン、パスタがぎっしり入っていて「当座の食糧です。もちろん無料です。」というメモ付きでテーブルに載っていた。親切な人達だ。
​しかし翌朝、陽の光の下で見るマンションは又々イケヤ(IKIA)式の無個性な設で花は造花。イケヤだって良いのだが、何というか設えた人の創造性というものが感じられない。
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居間
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テラス
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居間からテラスを望む。
​例えば、オルテジアの住まいのように海をテーマにして壁を海に見立てて魚の群れを泳がせるとか、カスカイスの住まいにあったキッチンのメモ用の黒板に針金を渡して物干し綱に見立て、小さい物干し鋏で観光案内を沢山干してある、といった風に。言い換えれば、必要なものは全てイレタ!という以上ではない。残念なことだ。床続きの広めのルーフトップ・テラス(屋上)に出ると、鉢植えが適所に並んでいた。これはみんな本物の植物。家主は植物が好きだナ?が、しかし、隣家と鼻をつき合わせる近さと迄はいわないまでも、まあ、丸見え。ビキニ姿で日光浴なんかは出来ない。ヤレヤレ。

​遠方に目をやった。空が青かった。そして、山が雪の綿帽子を被っていた。それがいかにも清々しく見えた。「ああ、2月なんだ!」。
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綿帽子を被る近隣の山々。
​外へ出た。みすぼらしい家並みが続いて、目の前には3階建ての鉄枠とコンクリートの塊が聳えていた。駐車場かナ?広い通りに出よう、路地裏は気が滅入る。広い通りはすぐにあった。「鉄枠とコンクリートの塊」の脇から出ると、幹線道路に出た。その向こうには石造りの城壁が延々と続いている。城壁の一部にアーチ型のトンネルがあって、その下に広目の通りがついていた。城壁外に出る道だ。中世ヨーロッパの町は城壁に囲われて、所々に市街門が据えられている。つまり中世に築かれた城壁のようだ。視線を広い通りに戻すと、並木が続いていた。石造りの中世の城壁と並木、暖かい微風が通り抜けていく...。ふっと私の気分が和んだ。気分が和むと、周囲の物も見えてくる。目前に大きな構えのレストランがあるではないか。昼食にしよう。
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レストラン内部から並木と城壁を見る。
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勢いよく爆ぜる火。
​​レストランはギリシャ伝統の焼き肉の店だった。入り口左手に、薪を組んで盛んに火が燃えていた。その上には子豚か子羊かが吊り下がって、ジュンジュン音を立てて焼けている。背後には鶏の丸焼き、豚の三段肉の塊、ケバブ、何だか分からない物もドッサリある。あれにしよう。
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写真の後部に焼き上がった肉が並ぶ。
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​しかし先ずはグリーク・サラダ。大盛りで出て来た。トマトも胡瓜もオリーブも瑞々しくて美味しい。4分の1食べて十​分。次に鶏肉のバーベキューがピタパンと並んで、レモン添えで出てきた。ソースは無いのか?無いのだ。レモンを搾りかけて食べるのがここの流儀らしい。塩は振りかけてないのかナ?焼く直前に塩を刷り込んで焼くと、表面が脂と馴染んで黄金色に焼けて美味しいのだが、焼き上がった後で塩をかけてもよく馴染まない。でも、まあ満足した昼食だった。
​食後は城壁の外に出て、城外にできた町の通りをぶらぶら歩いて端まで行った。小さな店や、住まいや生垣が並んでいた。古手と思える物も、おそらく戦後建った物だろう。小ぢんまり佇んでいた。翌日は反対側に方角を取った。路地裏の道だ。こちらは旧市街。歩き出すと、壁に絵が描いてある。まあ、壁画だ。結構本気で描いたらしい。1作や2作じゃない。アチコチに描いてある。そして貧しさが漂っていた。
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マンションの窓から近隣の建物を見下ろす。
​後日家主が教えてくれたのだが、かつてこの一帯は娼屈だったそうだ。今は芸術家が集まって住んでいる。ちなみに「鉄枠とコンクリートの塊」は、「文化センターですよ」という説明。それにしては味気ない建物を建てたものだ。
​​​旧市街を取り囲む新開地も含めてイラクリオンの街を歩いた。海から反対の方向に道をとって、城壁を出た。既に見慣れた細やかな家並み。八百屋、小学校、電気屋、カフェ、スーパー、レモンの木。幹線道路に出た地点で、川沿いの道をとって海に向かった。空き地があり、不揃いな小さい建物が雑多に続いた。イラクリオンの街は「街」という字に当てはまらない程小さい。新しい市街地を含めても、その半分を3時間半で歩き通してしまえた。
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モロシニの噴水。
城壁の内側にある旧市街の中心になっているモロシニの噴水(Morosini Fountain)はフランチェスコ・モロシニ(Francesco Morosini)の設計で1629年に、水の必要から造られた。クレタ島の夏は暑い。7月と8月は最高気温は28度程度だが、雨量が1mm以下。乾き切った暑さだから、耐え難い。だから水の必要に迫られて造られたもので、土台はギリシャ神話や海底のモチーフで飾られてはいるが、実用の向きが大きい。現存するのは複製で、元はライオンの上にポセイドーンの像が立っていたらしいが、オスマン・トルコが破壊したので未詳。

https://greekcitytimes.com/2021/08/25/on-this-day-25th-of-august-1879-in-crete/
https://en.wikipedia.org/wiki/Ottoman_Crete
https://www.greeka.com/crete/heraklion/sightseeing/morosini-lions-fountain/
モロシニの噴水の北に延びる道は「8月25日通り」で、南に延びる道は「1821年通り」と名付けられている。イラクリオンで唯一華やいだ通りだ。ウキウキした気分で歩いていて、ふと目についたのだが、通りに付けるには、どちらも妙な名前だ。きっと因縁のある通りなのだろうと思ったが、資料を読んでいて分かった。案の定、どちらも大虐殺が起きた通りだった。8月25日は、オスマン・トルコに対して反乱した259人の戦士と子女700人が修道院に避難していたのだが、丸焼けになった(Holocaust of Arkadi)日だった。1821年は、ギリシャがオスマン・トルコから独立する戦いを始めた年だった。ギリシャ本土でも、クレタ島を含むエーゲ海の島々でも、血みどろの戦いが10年間続いた。クレタ島では、島民の2割が殺された。1821年は「o megalos arpentes (大破壊)」と人々に記憶される、5人の司教を含む700人が虐殺にあった年だった。
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通称ライオン広場で大道芸人がギリシャ音楽を奏でる。

物価

 住居/総経費       72%      72%    73%     41%    48%    52%      61%              64%     60%
 
            イラクリオン  マルタ  オルテジア   バリ           ヴェトナム        クチン        カスカイス         パフォス          パレルモ
  住居費        234,772          307,971   316,680     126,712      (152,320)           181,830             260,568             262,912          214,650
  食費      39,754      52,728     74,266        ( 32,875)             -                         9,564               97,960               46,452            38,796
  飛行機             16,159    17,628     19,090        50,836          (69,360)              71,949            24,490               23,700.           41,658
  交通費       6,864      5,616       3,834     18,886          (18,290)               21,794              17,380               66,044            12,084
  外食                 24,739    18,408     14,484     ( 20,541)         (54,880)               16,592              16,000               12,640            16,695
  入場料                4,934   17,238        6,816       1,164          (     449)              -                 11,000                    948              4,770
  遠出費用         14     8,892     -              59,462         (21,000)               50,218                    -                       -                   29,733
  ________________________________________________________________
  合計             327,236          428,481      435,170      310,476       (315,850)             351,947            427,398            412,696          358,386   

 
こうして並べてみると、
 
食費がパレルモと同じくらい安い。しかし、魚貝類さえ、街には良いものが無かった。魚屋は3軒あったし、港にはその朝の獲物が売り捌かれていたのだが。野菜も、マルタやオルテジアとは比較にならないほど限られていた。
 
交通は、遠出にはバスを使ったが、街中では歩いて、疲れればタクシーに乗った。クノッソスへは往復で¥715。バスで32分、乗り換え無し。山越えをしてアユウス・ニコラウス(Agios Nikolaos)に足を伸ばした時には往復¥2,000。これは小1時間の距離で、これも乗り換え無し。内陸を見たくて行った場所だったが、着いてみれば観光客が来るらしく、気持ちの良い海浜町になっていた。概してバスの便利は良い。タクシーは港から住居があった城壁近く迄で¥715。距離は1.8kmだが、街の中心地は車で突っ切れないので多少の遠回りにはなるが、それでも7分で着く。飛行場からは€18(¥2,574)。5km弱で15分。
 
外食の回数は、いつもより多くて週2回くらい。近所の焼肉屋は、ワインを半本つけて¥2,000前後。マリーナにあったレストランのランチは¥2,500。街の中心地、通称ライオン広場では¥2,000。海に面した、おそらくイラクリオンで一番高いレストランの一つでは¥6,500。
 
入場料は、考古学博物館が€6(¥858)、クノッソスは€8。いずれもマルタやオルテジアと比較すれば、2割から3割安い。
 
それにしても、東南アジアは安くて良いなあ、というのが実感。ヨーロッパでは、経費の3/4近くが住居費なのだから溜息が出る。実に、これは現在の*英国の若い家族の家計簿みたいだ。パンデミックで膨大な負債を背負い込み、ロシアがウクライナに侵攻して燃料費が跳び上がり、その上イギリス政府の失策でポンドがフリーフォールの憂き目にあって、戦後最低の生活水準に落っこちた結果、英国ではフルタイムで共稼ぎしていても月々の住宅ローンが払えずに家族ぐるみで両親の家に舞い戻るとか、戻る親の家がない人々は切り詰められるのは食費とばかりに親は食べずに済ますとか、嘘みたいな本当の話が日常の事として報道されるようになって久しい。連れが「暖房を入れない」と決めたのは極端だが、そうしなければならない人も数多く居るのが現実で、言わば極端が常道になって来ている。
 
それでは私の燃料費節約方法であった「燃料費の要らない土地で冬を暮らそう」は、実際に節約になったのか。今冬は8年振りに自宅に戻っていたので、今冬の12月、1月、2月の経費一覧が役に立つ。今冬の月平均の経費が¥372,658と出た。そうすると、イラクリオンに暮らした1ヶ月では¥400の節約になる(笑ってはいけない)が、マルタとオルテジアでは其々¥55,823と¥62,512の赤字!避寒地に居た3ヶ月は引き続き自宅を貸しに出していたので、毎月家賃が入って来ていた。不動産屋やその他の経費、それに税金を引いた純利益は、まあ半分。相殺すれば3ヶ月で¥182,065の黒字ではある。が、自宅を貸しに出していたから黒字になったのであって、今後どんなに燃料費が上がっても同じようなことをすれば、家計簿は真っ赤になるということが判明した。「3度炊く 飯さえ強(こわ)し 柔らかし 思うようには ならぬ世の中」。誰の歌かは知らないが、時々母が口ずさんでいた。 
 
*英国:イギリス、スコットランド、ウエールズ、北アイルランドを合わせた国名。正式にはグレートブリテン・北アイルランド連合王国。しかし英国では誰もこんな名前で呼ばない。通常はザ・ユナイテッド・キングダム(The United Kingdom. 略してU.K.)。時にブリテン(Britain)という名を使うこともあるが、これには北アイルランドが入っていないから気をつけて使い分けなければならない。
​

人々

写真クレタ歴史博物館
​今回は、ミノア文明を求めてのクレタ島滞在だった。大らかな太古を訪ねて、楽しかった。素晴らしい過去を学んだ。発掘者のアーサー・エヴァンズに、感謝する。彼も写真の中で、微笑んでいる。しかし、その後のクレタ島の道は険しかった。4千年の歴史の中で、いや人々が常住し始めた9千年の歴史の中で、近代は殊更に険しかった。クレタ歴史博物館の展示を見終えて玄関ホールに降りて来た時、年配の館員の一人が、物問いたげな表情で私を見て「サンキュー」と言った。どういう意味で「お礼」を言われたのだろう。いまだに解らないが、もしかしたら「近代の歴史まで具(つぶさ)に見てくれてありがとう」という意味だったのだろうか。その日、中学生の一団が朝やって来た以外は、観覧者は私一人だった。特に大きくもない館内に、私は3時間近く居たことになる。展示の説明を全部読んだのだ。写真の一枚一枚を丁寧に眺めていったのだ。観光客は、地中海に浮かぶ島に、楽しみに来る。クノッソスに感嘆し、考古学博物館で展示を堪能し、海辺で寝そべり... 。しかし、彼らは島民の700年に渡る中世・近代の苦しみに満ちた抵抗を知るために来るのではない。だが、それをした私に対して「サンキュー」。そういうことか?

写真防波堤から海を見る。
​私にも気晴らしが必要だった。だから海を見に行った。「海は良薬」。マリーナにやって来て、カフェに座ってボートを見ながら、遅い昼食にしても良い。ワインを啜りながら、さて何を食べよう。何でも良いが、どのタベルナに行っても、私が食べられる4倍の量に盛り上げられてやって来る。だからいつも残りの3/4を箱にいれて持たされる。冷凍庫はそういう「お土産」でいっぱいだ。1/4でいいと言っても、定量で持って来る。コックさんが戸惑うのだそうだ。住居の側の焼肉屋に座っていると、ランチの時間には、男性達が入れ替わりやって来て、大きな袋を下げて帰って行く。奥さんが家でサラダを用意して、焼きたての肉を待っているのだろう。会食に来る人達もモリモリ食べる。街中の「大衆タベルナ」でも、海辺の「高級タベルナ」でも、それは同じ。デザートのテラミスが座布団の様に、とその時は思った、大きかったので、「お味はお気に召しましたかナ?」とやって来た主人に、多過ぎると「苦情」を言うと、「私どもでは、少な過ぎるより、多過ぎる方が良いと思いましてナ」と、にこやか。大らかな人達なのだ。

写真子供達が伝統の衣装で民族舞踊を披露する。
​どういう切っ掛けでそんな話になったのかは覚えていないが、家主夫婦は二人とも英語が堪能だった。奥さんの方は6年もイギリスの大学で勉強したのだそうだ。ご主人は大学で教鞭を取っているのだが、暇を見ては飲み水を半ダースも届けてくれたり、73段の階段を登って「クレタ島のお菓子です」と言って持って来てくれたりした。彼らには一粒種の息子がいた。6歳だそうだ。ある日奥さんが言った。― 10年間、どうしても子供ができなかった。それで孤児を貰い受けて育てることにした。クレタ島には孤児院が二つある。その一つに行ってヒヤシンス(男の子の名前)を連れて帰った。どういう訳か彼を見た時、「この子だ」と思ったと言うのだ。ヒヤシンスは既に4歳だったのに歩けなかった。生まれた時から、小さなベビーベッドの中に1日中入れられていたから。翌日から、セラピストに通って歩く練習が始まった。彼は何もねだらない。ねだる事を知らない。チョコレートを与えると、「もらって良いの?」と、おずおずと、尋ねたのだそうだ。「たかが小さいチョコレート一つなのに」と、奥さん。― 歩く自由さえ与えられない子供達が現在でも存在する... いきなり胸を針で刺されたような衝撃だった。それもヨーロッパで。クレタ島は現在でも、観光業に頼らなくても自活できるギルシャでは稀な土地だ。GDPも、ギリシャでは5番目に高い。それなのに首府のイラクリオンでさえ、安普請の家々が無計画に広がっているだけだ。そして孤児院では、子供達が小さいベッドに昼も夜も入れられて、歩くことすら学べない。何故だろう?

写真エルサレムにあるプリンセス・   アリスの永眠地
プリンセス・アリスという人がいた。デンマークの王家に生まれたのだが、生まれながらのツンボだった。それでもリップ・リーデイングを学んで、その上英語、ドイツ語、フランス語を身につけ、ギリシャ王子との婚約が決まると、ギリシャ語も習得した。しかしギリシャで戦争が始まり、自らは看護婦として戦地で働いたが、革命が起き、亡命を余儀なくされ、その上精神分裂症と診断されて隔離され、非人間的な治療を強いられ、逃亡し、放浪し、アテネに戻って尼僧院を建て、孤児院を経営し、第2次大戦中は旧知のユダヤ人家族を匿い、自分の食べるものさえ人々に与えてしまって... 。後年、「遺骨はエルサレムに埋葬してほしい」とドイツ王家に嫁いでいた娘に言い渡した。娘は「お墓参りに行くのに遠過ぎる!」。(It would be too far away for us to visit your grave)それに対するプリンセス・アリスの返答がフルっている。(Nonsense, there's a perfectly good bus service!)「バカバカしい。ちゃんとバスが通っているわよ!」

                https://en.wikipedia.org/wiki/Princess_Alice_of_Battenberg

エーゲ海は、美しい。父の遺言、「わしの遺骨は、エーゲ海に投げてくれ!」。
                                                  (脱稿2024年3月14日)
                                                                                                              
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