ピカソ美術館のテラス。アンテイーブ
定年後をどうやって暮らそうか、と思案している方々へ
ラ・シオタ(La Ciotat) |
ラ・シオタの港には、入り口近くに空いたバースが沢山あった。その一つにボートを付けて船尾の綱を岸壁に結わえた。すると連れが又言う。「キャピテナリーに断りを入れなくちゃいけないんじゃないか?」。(ヌケサク奴!もう9時なんだ。キャピテナリーが開いているわけがない。こういう場合は、翌朝断りに行くのが常套なんダ。)「綱はこれでいいんじゃない?レストランが閉まっちゃわないうちに、行きましょ」。
翌朝。いつもの通りの晴れ上がった空。キャピテナリーは港の向かい側にあった。私達の停泊場所からは、港をほぼ一周する所に位置している(つまり、一番遠い)。日曜日。市の立つ日らしく、港の周囲には俄仕立ての店舗が立ち並ぶ。その間は人々で埋まっている。品定めをしている人達だから動きは鈍い。文字通り、隙間は埋まっている。フランスはカトリックの国だから日曜日に開いている店は無い。しかし市は日曜日にも立つのか、矛盾だなあ… 等とグズグズ考えているのは、大き目の港の周囲を、人混みを掻き分けて行くのが焦れったいからだ。今日は早めに出航したい。午後の便で、連れがロンドンに発つのだ。そのためには午前中にトウーロンに着いて、モンペリエ行きの列車に間に合わせなければならない。現在8時。キャピテナリーは未だ開いていないかも知れない。が、迷っていても埒(らち)は明かない。とにかく行ってみよう。 キャピテナリーは開いていた。で、埒が明いたかというと、そうでもない。一向に話が通じないのだ。私は一晩の停泊料を払いたいだけなのに、受け取れないというのだ。暫くスッタモンダを続けているうちに何となく察しがついてきたのは、金を受け取ると記帳しなければならない。記帳するにはボートに関する書類が一揃い必要だ。そんな物を取りに行っている暇は無い。延々と続く市場を掻き分けて往復するには30分はかかる。記帳するには、内容を証明する書類が無くては出来ない。時間が無い。だったらコッソリ港を出て行ったら?と彼は暗示しているようなのだ。念のために確認すると、彼は目で頷いた。ふーん。 泊まり賃を踏み倒したのに誰も追いかけて来なかったから、やっぱり、そういう事だったのだろう。これがフランスの官僚主義? |
手前の半島がサン・マンドリエ。向かい側の、
湾内奥に位置するのがトゥーロン。
サン・マンドリエのマリーナ。
トゥーロンの港の南側に民間用のポントゥーンがあった。こちらは軍艦ならぬ、美しい帆船。思わず息を飲んで、見惚れた。
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街は大きかった。汚かった。それに騒音に満ちていた。海の上にポツンと一人で浮かんでいるのとは訳が違った。せめて美味しいランチでも食べよう。海に面した大通りに沿って行くと、由緒ある海軍の建物があった。軍隊のものは、海にしろ陸にしろ空にしろ、現在の日本人には見慣れないものだ。有難いことだ。広場が幾つもあった。一つ目、二つ目、そして三つ目、の広場まで来てウンザリした。30秒歩けばレストランに入れる町に暮らしていると、30分歩き回っても、静かで美味しそうな気持ちの良いレストランに入れないのが苦痛になる。その結果、たまたまあった広場脇のレストランに座ってサンドイッチを注文した。いい加減な代物が出てきた。ハムは最低の安物だった。一口食べて、もうたくさん。デザート・メニューにピーチ・メルバがあった。子供の時に姉に誘われて食べたのが懐かしかったので注文した。やがて巨大なアイスクリームがやって来た。そんな馬鹿デカイものを、小柄な私が食べられる訳がない。いい加減突っついてオシマイ。
二つだけ良いことがあった。一つは、空っぽの広場の上方に、ぽっかりと白い雲が浮かんでいて、その有様がまるで一枚の絵のようだったことだ。青空の真ん中に、どういう気象の偶然で、あんな小さい雲が迷子みたいに浮かぶことになったのだろう。面白いことだ。もう一つは、列車に仕立てた観光用のミニ・バスに乗れたことだ。お陰で街の主要部分を見ることが出来た。港街というのは、要は港付近に見所があるのであって、後は港街ではない街と変わらないということも確認した。説明を聞いて勉強にもなった。説明にあった天才船乗りの像も見てきた。でも、もう沢山、帰ろう。 ちなみにトウーロンの港は大き過ぎて、カピテナリーすら見つけられなかった。港の見取り図を手に入れる等は夢の又夢。 |
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翌朝目覚めて出てみると、隣にヨットが入っている。 私のボートより少し小さ目、全長8メートルといったところか。すると中から、細身の若い男性が出てきた。まだ少年の面影が漂う。その彼が語るところによると、昨夜は夜半から風が出て、彼は港の外に錨を下ろして停泊していたのだが、錨だけでは舟が縦横に吹きまくられて持ちこたえられないので、錨を切って避難して来たというのだ。距離は大したものではなかったにしろ、ヨットのエンジン(馬力が少ない)で大風の中をやって来たのなら大変だったろう。それなのに若者特有の気軽さで、彼は軽快に話し続ける。何時ボートを買ったのか、まだ何も備わっていないから、これから一つ一つ揃えていかなければならない、修繕すべき箇所も多々ある、寝るところも未だ無いし、学ぶ事は沢山ある、サーフィンのインストラクターをしているけれど、将来はレパートリーを複数に広げたい、ボートを買ったのも、ボートのナビゲーションをレパートリーに加えたいからで、あ、そうだ、ボートの中をお見せしよう…。階段を覚束な気に降りると、イヤハヤ雑然という言葉ではその雑然振りが表現しきれない位に雑然としていて、若いから気に病まないのだろうとしか思い様がない。この中で、どうやって暮らしているのだろう。炊事はおろか、お茶も沸かせない。トイレ無し、寝床無し、足の踏み場も無し。それでもここが彼の城。昨日買ったケーキにワインを1本添えて、陣中見舞いにした。彼はこれから錨を取り戻しに行かなければならないのだ。海底に沈んでいるものを水中に潜り込んで見つけ、それをヤッコラ引き上げて… しかし錨は重いのだ、舟を固定できる程にも。男とはいえ、こんな細身の少年が一人で出来るのか?冗談ではなく、背陣を敷くぐらいの覚悟と機略が求められている。「イザ、行かん」。鬨(とき)の声でも挙げる可きところだ。 又ヨットがやって来た。9メートルといったところか。私の反対隣に入ってきた。30代の男盛りが二人で操作している。ホモかな。いずれにしても、私としてはソロソロ出港の時間だ。今日は湾を横断してその先の岬を大きく回って、ラ・ラバンド(La Lavandou)迄行く予定だ。単純な航路だが、距離はある。クーリング・システムの水位を確かめ、エンジンのオイルを点検し、その上でエンジンを入れてオート・チェックを始める。オイルは?温度は?燃料は?私の装備も整える。前夜航路を決めた時に書き込んだログ・ノートを羅針盤とヘルムの間に定め、海図は何時でも 参照できるように私の隣席に差し込み、ハンド・ベアリングを首に掛け、時計をして、携帯はポケットに入れる。他には何?飲み水をたっぷり手元に用意する。これでオーケー。あ、眼鏡を忘れてはいけない、遠距離用のとサングラスと。エンジンは快調にブルン、ブルンと鳴り続ける。オート・チェックはピーピー言わずに大人しい。つまり、どちらも出航するに問題無し。タンクの水は昨夜満タンにした。残るはショー・パワーを切って、綱を解くだけ。 私がショー・パワーを外してコイルを巻いていると、一部始終を見ていたのかもしれない「男盛り」のアウト・ゴーイングの方が声を掛けてきた。「手伝うかい」「大丈夫よ」「綱を解く順番はどうするんだ」。私はしばし顔を上げ、風がどの方向から吹いて来るかを測る。微風だ、これでは分からない。次に、辺りに旗めく旗を見回す。西風だ。ということは、「先ずバウ・ライン(船首の左右に付ける綱)を外して、次にスターン(船尾)のスターボード・サイド(右側)を解く」と私。「スターンのスターボードを先に解いて、バウはその後だ」と彼。彼は手伝ってくれるらしい。シングル・ハンドの場合は、風が強くなければバウに上がってライン(綱)を外し、バウのスター・ボード(右側)とポート・サイド(左側)の両方の綱をスターン近くに結わえなければならない。つまり4本全ての綱を船尾に集めておかなければ、船尾から船首へ、そして又船尾へと駆けずり回ることになる。それは、実際には不可能なことだ。だから 先ずバウ・ラインを外して船尾に持ってきて結わえた上で、スターン・ラインの処理にかかる。もしバウが左右何方かに傾き過ぎたらバウ・スラスターで簡単に定め変えられる。え、風が強ければどうするのかって?出航しない。仕事でやっているわけでも、レースに出ているわけでもないレジャー・ボートは気楽なのです。だから彼の言葉は、「俺が手伝ってやるから無理をしなくて良いよ」ということなのだと解釈できる。 しかし彼にはクルーがいる。そしてヨットだからボウ・スラスターは無いのかもしれない。そうだとすれば、クルーが同船していることを前提にした通常のやり方を示しただけに過ぎないのかもしれない。「いいわよ。それでもし貴方のボートにぶつかったら、修理代は貴方持ちよ」。彼はカラカラ笑った。呆れ返ったという笑いだ。「俺が親切に手伝ってやろうと言ったり、綱を外す順番を教えてやったりしたのに、返礼に『当て逃げ』するというのか!」というわけだろう。 |
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マリーナは大きくはない。そこに中位の大きさの漁船と個人所有の船が各々の位置を占め、それでいて入り口近くの防波堤の内側は、見物に訪れる大小のボートが無料で舟着けできるようになっていた。感心した。町も大きくはない。人口は6,500。洗練の粋を誇る店が、こじんまりと店舗を構えて並ぶ。ブリジット・バルドーの店があるのは有名。緑と花に縁取られた建物の間にある細い通路まで、丁寧に手が加えてある。昼食時ではあり、レストランもブラゼリーもカフェも人々で賑わう。市場もあった。小さい。しかし飛び切りの質。広場も人で賑わっていた。その一画に、日本人が寿司屋を出していた。店の大きさは1間四方。手頃な服飾店もある。€40(¥4,500)でタンク・トップを2枚買った。
この町の歴史は、ローマが台頭する紀元前500年辺りに始まった様だが、皇帝ネロ(AD54-68)の時代に舞台を置いた伝説が、町の起こりとして語られる。が、現在残るスフレン(Suffren)塔及びマナ・ハウスは、百年程この地を占領していたサラセン人が追われた11世紀前後に建ったものだ。下って15世紀、富裕なジェノア人ガレッチオ(Garezzio)が領主のルネ侯爵の招きに応じて軍力・資力を携え、且つジェノア人60家族を引き連れて移り住んで町造りに協力し、自治共和国として200年程を経る。現在町に残る外壁は、この時代にジェノア人が築いたものだ。したがって今ある町の古式豊かな風情、つまり背後の町の膳立ては、サン・トロペではこの頃迄に出来上がっていたわけだ。地中海の中央に面し、太陽の光に恵まれ、滋味豊かな土地で、ひっそりと息づく小さな漁師町を、誰が愛さないわけがあろう。そこで20世紀初頭から、次々に芸術家が訪れることになる。 19世紀末、パリは世界の都として各国から芸術家を集めていたが、そこに折しも印象派の動きが始まる。人々は挙って戸外に出、自然の光の中で絵を描いた。当然の様に彼らは光を求めて南に下り、やがて地中海に辿り着く。コクトー、マチス、ピカソ、デユフィ等が次々に訪れ、南仏の町や村で作品を描き、言わば膳に料理を盛って、さらにはココ・シャネル、バルドー等が現れ、花を添えて膳は出来上がる。 昼食時の2時間程を歩き回って満足し、私は先に進むことにしよう。ここに停泊は出来ない、高いのだ。しかし将来、陸路で来て数日をここに滞在して、画廊を回ったり、散歩をしたりするのは楽しいだろう。 余談だが、サン・トロペに向かっていた時、50メートル位ありそうなボートが過ぎっていった。波を蹴立てているわけではないが、しかし余波がヒタヒタと私の方に寄せてくる。1m位の高さがありそうだ。長い尾を曳いてその波は、しかしなだらかになって消えていく様子が無い。ヒヤリッ!慌ててボートを波と60度の位置に定める。そうして次の瞬間、波越え。大揺れ。... でも無事に超えた。横倒しにならないで済んだ。私の驚愕の度合いを、キャビンの内部が語っていた。 |
アンチベ港
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アンテイーブ港には、中世に十字軍が集合・集隻して聖地エルサレムに赴いたという歴史がある。下って18世紀にはルイ16世の海軍の基地だった。港としても、さらに歴史的にも堂々たる存在だが、私が高い停泊料を払って1泊した理由は、ここにピカソの美術館があるからだった。美術館は、城壁門を沿って直ぐ左手に、海にそそり立つようにして立っていた。
ピカソはここにやって来て、生活の周辺にある一つ一つを描いた。とりわけ海胆(うに)を好んで繰り返し描いた。棘に覆われた黒いイガを割ると、中から鮮やかな橙色のとろけるように柔らかい身が現れた。その対照、その不可測。そういう自然の在り方に、割る度に改めて驚かされただろう事が、想像された。私がこの世で最後に口に含みたいのも、海胆だ。あの海の香りをふんだんに含んだ、橙色の柔らかい身...。他には様々な貝、漁の道具、殆どが静物画だった。全体に淡い泥色から灰色に近い色合いで、地味な色調だった。しかし対象の形はくっきりと決断的に描いてあっtた。ピカソはこの地で伴侶に恵まれ、最も幸せな時を暮らしたのだそうだ。ピカソのエッチングに鳩や女を描いたものがある。この時代のものだ。私が好きな作品だ。 海に面したテラスには、彫刻が何体か据えられていた。海の香りに取り巻かれて、彼がどんな風に暮らしたかを想像してみた。-- 早朝、スペインのよりは濃いフランスのコーヒーを飲みながら、前日の午後拾い集めて来た貝やら網やら漁具やらを並べて、それを脳裏の画布に描いてみ、色調が単調であり過ぎはしないかと考えたかもしれない。海胆の身の橙色を添えたらポイントが出来るが、しかし海胆を割るのは食卓に於いてだ。そんなものを添えたら、如何にも絵のために取り揃えたという感じになって自然さを損なう… それはすまい。… その代わり、対象すべてを明確な線で描いて、一つ一つの存在性を明示しよう… 等々 -- ピカソの美術館から出て海沿いの道を辿り、それが切れる辺りで町の中に入っていくと、中世の石造りの旧市街が広がる。そのド真ん中に常設市場が毎日開く。イタリアが近いだけに、イタリア産のオリーブやチーズも多い。いずれも高級品。オリーブを250gずつ2種類買って€16(¥1,800)。普通の2倍から3倍の値段。野菜は安い。しかし果物の高いのには驚いた。確かに美しい果物だった。一つ一つが綺麗に飾られていた。友人がイギリスからやって来るので、多めに色々の果物を取り合わせて€10位(¥1,131)だろうと思っていると、€54(¥6,112)だと言われた。億万長者のお抱えシェフもここに買い物に来るのだろう。もちろん買わなかった。 新市街の方に行くと、事情は少し違っていた。土産物屋は姿を消し、普通の暮らしがあるようだった。モノポリーという名のチェーン・スーパーがあって、普通の品物が庶民向けの値段で買えた。金持ちに金を落とさせる場所と、庶民が暮らす場所は分けてあるという事らしい。スイスもそうだった。これは賢明なのかもしれない。人口の90パーセントが中産階級だと思っている日本の方が特殊なのだ。 マリーナの方も、豪華船もあるが、ボート好きの使い込んだボートもあった。ただ、大きさが違うという実際的な理由で、停泊する場所が分けられていた。これはお互いに気が楽というものだ。しかし、カンヌは通り過ごしたが、今後はニース、モナコと続き、この二港も遣り過ごしたとしても、その先にはイタリアがある。イタリアには、それこそ金持ちが集まる。「高いゾーッ」と脅されている。 <参考資料> https://www.seeantibes.com/marinas/guide https://en.wikipedia.org/wiki/Saint-Raphaël,_Var https://en.wikipedia.org/wiki/Saint-Tropez https://nippon.fr/ja/archives/309 <掲載写真> https://www.riviera-ports.com/en/ports/port-d-antibes-vauban <換金レート>€1=¥113.19(2016.8 現在) |